はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

最後のダライ・ラマ

この三日間ダライ・ラマの灌頂があって久しぶりに参加してみました。
びっくりしたのは日本人の少なさ。韓国、台湾、中国、ロシア、チベット、モンゴル、各アジア圏から集まっていて、5000席がsold out。
一日目、密教の「空」の論証。二日目灌頂、三日目科学者との対話のスケジュール。
空の論証は「縁起」と「菩提心」により意識自体が無数の事物との関係性に成り立っているということを、カマラシーラの「修習次第」ツォンカパの「縁起讃」から理解するテクストが中心。
久しぶりに仏教理論の話しを聴いていて、昔分析から瞑想へのこの流れにウンザリしたんだよなぁ、やっぱ若い時はこんな抹香臭い事やらないよなぁ、と思い出しました。
おまけにその頃はニューエイジ系の科学との融合が流行っていて、思考の二分法というデカルト以来の科学で読み替える事がもてはやされていた、というか、それにまだ反駁する体制が整っていない時代でもあったでしょう。
ところが、三日目の科学者との対話で、未だに日本の学者(認知心理、生物脳神経学、物理学(香港)は出演した人がたまたまそうだったのかもしれないけど)は、変わらず、17世紀なのか?と思いながら聞いていたのだけど、法王の顔も心なしか落胆してるように見える。たぶん主客を転換して欲しいのだろうけど、今の日本の大学では不可能でしょう。法王の情熱には敬服します。。
「教育を変えなくては、人々の苦しみは益々増え、今の世界の悲劇は変わらない、科学者という社会が信頼する人達が成長しなくては、世界から戦争や内戦は無くならない」という心から対話を続けているらしい。

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来日していたチベット人は勿論亡命している人達で、多くの親類縁者を中国侵略の犠牲にした人達だ。しかし、中国の中でもチベット密教は広まりつつあり、政府高官の中にも支援者が出てきつつある。
1950年国連に無視され地獄と化したチベットで殺されて、日本人として転生した知人が数人いる。彼らの中には首を括って死んだのもいるし、因縁からの解放に取り組む指導をしているものもいる。
こうした負の「念」自体は熱なので個体の中で平衡化される前に死ねば情報を持った熱は散逸する。しかし、それは別の個体にあるいは複数の個体に同期と引き込みによる再現象を起こす。w
通常、身体にはその当時の記憶があるけど、それは感情以前の繊細なルンの働きなので、精神的な働きや認識には謎の要求としか映らない。しかし、それは同じ感情を再現する状況を呼び寄せてしまうから、この要求には若いうちから一度は向き合うことになる。
ところが、この過去から来る正体不明の要求を持つ身体と、現代を生きる精神の断層が複雑な事態や悲劇を形成して結局首を括ることも珍しくない。
現代を生きる精神は現代社会の中で形成される。そのキャラクターに対して元にある悲しみや怒り(感情以前の縁と呼ばれる働き)の身体要求は隠されている。
その元の怒りや悲しみがなければ、現代を生きる精神が、現代の毒によって自傷することも少ないだろう。
現代の世界情勢を見回しても、いつまでもこの因子は繰り返し増幅し続けている。
この笑うしかない世界に向けての一つの答えが仏教哲学で、その実践としての瞑想だ。
洞察によって記憶の強制的な追体験は制御されるというのが、入り口になる。
「空」の志向を基盤にした生起次第、究竟次第という密教のプロセスには、精神を解体して身体(潜在意識)を旅することと、自我が空に還元された後に必要な菩提心という動機の養成が含まれている。
身体は過去の記憶によって成立している
しかし、精神が過去になるわけではなく、そもそもが時間は精神の時間と身体の時間の差異によって成立しているのであるから、この時間的因果を空に還元させる必要がある。
実はここに自我認識を消せば全てを得るという原則が生起する。仏教論理学は言葉による世界を解体し、我々の創造を解放しようとしたのだ。
その現象の一端は、多くの超人的な修行僧のエピソードに繋がっていく。

(…引き寄せの法則?僕は読んだことがないけれど、人の望みが〈歪んで〉叶うのはこうした潜在情報によるし、かなり緻密じゃないと結果だけ得ても、ほかの全てを破壊することになりかねない。女性の中には特にそんな怖い人がいるのを何人もみたことがある。)

素粒子物理学の重力の話しにしてもゆっくり話せば面白いと思うけど、一般認識に落とし込むと、結局意識と精神の世界で認識できる範囲の絶対値からは出られない。つまりその追求の元にある疑問の持ち方自体が、人間を変えて世界を平和にし、人々を賢くするわけではないから、結局のところ3000年の歴史を持つ仏教密教の体系の中に包摂されるということになる。
話しの最中にも多くの人達があからさまに退出していったのはせつない光景だった。

二日目の灌頂は、わざわざ日本まで受けに来るほどのものであった。。手順は通訳も追いつかないほど次々に進むのだけど、その日みんなが集まる前から法王は修法を始めていたのはこの為か!って言う空間に歴代の修行僧達が集まる・・・伝統おそるべし。。
ボーっとしていても、言葉はわからなくても自動的に系譜に乗せられていく。
いや、わしは戒律守れないし…無理だし…
と言ってる間に終わってしまった。。


もし僕にも質問の機会があるならば、身体についてどう捉えているか聞いてみたい。
密教の身体、生理学はあるし、そこに則って階梯が進んでいく。しかし、それは意識の無意識化が前提としてある身体から、身体自体の消滅へと向かっている過程の生理学であり、有名なチベット医学は薬草学が中心のようだ。
その理由は身体と植物の共通する生性や、他者に触れる事の影響が考慮される。その影響を解決するのは、根源的な質を導引するほど難しい。下手に人が扱えば互いの(仏教ではカルマとサムスカーラと言うもの)差に耐えられなくて肉体の死を迎えることもある。
如何に密教が、推論、理論により人間を理解し、感情を制御しても、例えば無我は五蘊と別に四つの哲学、主に唯識派中観派があって、なかでも唯識派密教の中心は主客は別ではないという思索により心を制御するけれど、完全な四聖諦が肉体を凌駕でもしない限り、自己の身体それぞれにある許容範囲は限られている。
ともあれ、「主客は別ではない」は整体の思想に共通するし、日本人にとって物は心だったわけだから、心の本性と現象の違いに対する理解は近いはずだ。

先々週だったかな?今の14世を最後に転生仏制度は辞めると宣言されていたので、他のラマ達も辞める方向にあるでしょう。
中国政府がこの転生制度を利用して政治的なコントロールをしようとするのは、政治的に正しい判断かもしれないけれど、チベットでの暴行を続ければ、そのうち中国はチベットに呑み込まれていく気がします。