はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

音声配列

言葉の研究は古今東西いろいろとあるけれど、発声の仕方と語彙の並びとの関係に言及するものは少ない。

例えば発語に関しても顔で発声する人、胸で発声する人、腹で発声する人、それから身体の内側に向けて発声する人、外だけが発声する人といろいろなタイプがある。

これはその人が楽器を使う時の音の出方にも通じている。

身体の使い方とそれ以前にある言葉、音の出どころは、文化と共にあったことにも繋がってくる。

整体ではこれを気韻の稽古と言うのだけど、その発声の仕方を稽古して行くと、気を通す力にも関係するから、訓練し本来の身体を取り戻す為の一助になる。

歌を詠めば、佳い歌は感覚を運動させる力があるのだけど、現代人のほとんどが口先や胸で発音して価値を失ってきた。

例えば小学校に入って初めて国語の教科書を開いた時、そこにある近代日本語のつまらなさ、センスの無さに子供達はうんざりする。

これからは口先だけで生きて行くんだぞと言われているように感じるけど、その実感の元には言語習得と身体を無関係とした指導方針があり、言葉と感受性とは何の関係も無い日本語を強要される。

もしこの時期に記紀万葉とは言わないけれど、古典に触れていたなら教育に敬意を抱いただろう。

 

あいうえおの五十音を使い重複無しで表記されたものに、いろは歌とひふみ祝詞、あわ歌がある。

どれも古い時代に成立したものだけど、その遊び心は素晴らしく、どれも整った身体の運動性を教えてくれるし、日本人本来の世界観が垣間見える。

昔の文章にも歌にも今には無い味わいがある。味わいには頭ではなく身体で感じる「佳さ」の基準があり、それは長い文芸の歴史が作り出してきた。

有名な芭蕉の一文に「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり」がある。

面影がゆらめき動く。

その面影には表裏の影があって、この二つが動いて整う事を整体と言う。

その言葉と身体の基盤に形成された音は、それ自体に力があるとするのが言霊の思想だろうけど、実際には世代を重ねて身体に染み付いた、その染み付き方に力は生まれる。

標準語と呼ばれる近代言語が生活のほとんどを担う中で、たまに葬式や神社で意味不明な言葉の羅列、お経や祝詞と呼ばれるものに出会う。

そのほとんどは現代人にも辛うじて意味の分かる文章になっているけど、中には意味の分からない単なる音の羅列になっているものがある。

お経の場合は、伝来する過程と、宗派の開祖などによる変遷や創作があるのは分かるとして、神道は分からないものがいくつかある。

お坊さん達や神官さんが、朗々と読み上げ、常日頃「行」としているのは何故か?

何の効果があるのか?

僕も不思議に思っていた。

身体と心の間に発生する原始言語を音声化したものが、意味の分からない音の羅列になっているのだろうとは思っていたけど、これは意味が発生する外部世界に触れてはならない。

そこであるお経を百八日間、読経した事がある。

正確には最後の一日が出来なかったのだけど。

しかしその時体験したのは、100日を超えた辺りから、頭に尋常ではない気が集まり始めていた事だった。

拙い経験ではあったけれど、行者さん達は何らかの経験をしている、或いは求めて読経しているのだと言う事は分かった。

あれから随分経ったけど、最近S先生と祝詞の音の並びってなんだろね?って話しになり、こうした方が良いんじゃないか?こうしたらどうだろう?と工夫している。

これが面白い。驚くべき内観経験をするのだけど、祝詞の音の配列は、古の身体が古伝書にある通りの経験をしていた事が分かる。

と同時に、内観技法が音の配列を生み出した古代の叡智に、内側から触れる技法にもなり得ることに驚いた。

特にそれぞれの配列の焦点、意思を必要とせず気を集める点など、まだ土台構造の部分ではあるが、内観的身体技法をもって古代の叡智に触れる事が出来る。

更には我々の身体が音の配列によって世界を変えている事から、最も古い言語の起源と言うところまで研究は遡ることが出来るかもしれない。更にこの研究の方法を生み出す事が発展するなら。

ただし、意味は配列の力を奪うから要注意。

これはとてもマニア心をくすぐる。

 

そんなこんなで古い言語も音の使い方、文字の使い方、それに対する感覚の焦点などの話しになってくるのだけど、試験がてら楽器のレッスンに使ってみている。

音の配列と集注の組み立てを使うと、意識を用いず身体が変わると言うのが最大の利点になるだろう。

五種的な回転が欲しい曲、美しいメロディにしたい曲、激しいイメージでありながらロマンティックな空間を動かしたい時、様々なシーンに応じて、演奏者の感受性に応じ、必要な感受性を体験し、足りない感覚を補って演奏出来るから面白い。

簡単に言えば、五種の人間が七種の曲を演奏しようとして、いくら曲の背景や作曲家の勉強をしても、それは五種の感受性から捉えた七種の曲であって五種的な感受性しか伝わらない。

七種の身体、七種の感受性になって始めてその欲しかった音を出せる。

だから、いくら上手でもスコアを解析しても自分の感受性が変えられ無ければ自分の演奏にしかならない。

この感受性を変えると言うことが大問題、若ければ経験が足りないし、歳を取れば硬直している。したがってほとんどは鉄板の自分で仕事をやっつけようとする。

でもそれじゃ整体も演奏家も結局は通用しない。

結局は自分の身体を自由に適応させられるようにならないと・・と今回文字にしていて思い出した。

これは十代の頃考えていた事じゃないか、、、

自分の求めていた事は忘れてからリアルに実現されるけど、リアル過ぎて気づかんかったわ・・

 

おわり

 

 

(このオチわかる??)