はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

◯識の曼荼羅◯性の曼荼羅・・前編

人間は集注構造であるというのが整体の身体観の骨子でもあるのだけど、何を「集注」と言うか、自分が何に集注し、何処に集注があるのか?それを知るための手順パターンをいくつも見つけていかないとわかってこない。
僕達?は「勉強に集中しなさい!」「集中してプレーしなさい!」随分言葉の「集中」とか「集注」を間違った意味で投げ掛けられてきた。
生きている状態が集注の構造ならば、集注していない状態、集注を外した瞬間のニュートラルな時間の方向性みたいなものの方が集注を決定する時間になる。
まぁ、そこが課題の話し。

「集注」をなんで問題にしたいかと言うと、まぁ僕みたいに一つの技術思想体系を作り出した人物の世界観や体感を知りたいとか、人間を知る必要がある仕事してるとか、他には何らかのプロであるなら、必ずその技術や身体運動の出どころがあって、それも集注を形成し知っていないと「身に付いた」とか「コツがわかった」とは言わないでしょう。

今回のこの記事は、実は先週 月曜日に一度ブログにアップしています。
24時間経たないうちに、削除して今書き直しているのだけど、その僅かな間に記事に書いた〈リズム探し〉をやってみた子がいて、(アンテナ半端ないです)「譜読みが一瞬で終わる。早く知りたかったー」って早速曲のリズムの探し方をみつけたとラインをくれました。
・・・天才か!(もう一つ奥だね)
この子も異国の地で音楽しかない生活をしてますからね、音楽の深い集注に入っているとレスポンスが早いです。
人によっていろいろです。
まったく弾けないと悩んでたのに、音楽に集中すると決意した途端に、パタパタと理解し始める子もいます。
ある子は、先週、師匠と弾いてみたら音楽の出所の深さが他の人とまったく違って驚いたと言ってましたが、その集注も深さや感覚があります。
もちろん深いほど、全人格がその一点から発生しているように見えますから、キャラも濃いものになります。

音楽の集注と言っても様々です。
今年は来れなくて、ちょっと心配なギトリスは〈生きる歓び〉が深い中心になっていると言えるのではないでしょうか。
k先生も深い集注が根付いているし、ピアニストの辻井さんもひろこちゃんも、やっぱり何か美しい感覚への集注を持っています。
僕なんか🎹は人差し指でファミマCMの香取君の真似が精一杯だから、羨ましい限りです。
整体だと美しいと感じる力があるならば、生命力があると観ます。
最近話題になっていた縄文土器も皆んなが生命力を感じると言いますね、これは強力にシンプルに生命力の美しいメッセージと言うことでしょう。
森に繁茂する植物や粘菌に異常な研究心を燃やした南方熊楠は、その植物や粘菌の生命力を感じ取ったのだろうし、盆栽が海外にも広まったのは、その生命力に手を入れる事の面白さでしょ。
(ほんとにくーるじゃぱんは恥ずかしいです。けいさんしょうのかた、勘弁してください)・・・〈隠されたメッセージ〉

そういえばギトリスがユダヤ人虐殺の地に佇む写真を観ました。
民族主義の怒りや暴力に対する深い悲しみがその老いた背中にあらわれていました。
文明の始まりに暴力や復讐と言うものがあり、ホロコーストにもナチス以前の長い数多の確執や民族の混交、再編、殺戮の歴史がある。エルサレム問題は人類史の最初に作られ、もっとも複雑なイドとなっています。。
最近のアメリカ大使館をエルサレムに移す呆れた問題も当事者からすればやり場のない暴挙でしょう。
ギトリスがこの地では誰もが神を感じる事が出来ると言うエルサレムを、一度は見てみたいと思うけど、この言葉の奥にある底の見えない彼らの歴史を知ることは出来ない。ましてやこの民族主義と同根とも言える科学思想の無邪気な信奉国「じゃぱん」にあっては、この文明の恐ろしい悪癖に抵抗し、また産み出されてきたヨーロッパ芸術や文化の立ち位置を見つける事自体膨大なキャパシティを必要とします。〈この点、日本の身体文化の過去は優秀だった〉
岩波の「世界」だったか、「中央公論」だかにバレンボイムアメリカ大使館問題に頭を抱えていると記事がありました。
彼の親友エドワード・サイードパレスチナ民族評議会のメンバーだったことがあります。。
バレンボイムと彼はアラブとイスラエル双方から音楽家を集めて管弦楽団を組織し、第一回の公演にはヨーヨーマも参加しています。
この民間の共存の試みは現在も続いていますが、サイードを喪ったバレンボイムにはさぞ辛い事態だと思う。

集中や運動を作り出すものが、僕の中では数からリズムに迷走を続けています。
五月からブログに書いてる実験用具は今年の僕の試行錯誤の命綱なんですが、表裏、集注拡散、奇数偶数、集注の関係性と拡散の離縁。また見せることと隠すこと、運動と停止など。
当然、生命の発現に関わりがないわけがない。で、アバウトにシュレーディンガーとロバチェフスキが僕の頭の中では繋がっているんだけど、「負のエントロピー」と正の極点集合、負の極点活動とが人間の活動にどんな作用をどう作り出し、変化するのか?
それぞれ分けて考えたほうが良いけれど、そこから見えてくる身体像はどうなるのか?
視点にするには良いかもしれないと思っています。

後編に続く