はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

複雑な立ち位置〈整体の話し〉

この前も親戚に「腰が痛くて整体に通っているんだけど、良い整体師知らない?」と聞かれ、「整体師の事はよくわからない」と答えた。笑)この質問にはいくぶん悪意がある。

彼らが言う「整体師」はカイロプラクターか、マッサージを指しているのだろう。

今では野口整体はほとんど知られていないから。

だけど、整体について説明をしようとして上手くいったためしも無い。

話していると、期待されている「病」とか「治る」とか「治す」と言う言葉の観念が混乱してきて、受け入れられないのが分かる。

西洋医学の治療観が広まるにつれ、野口整体は閉じた世界と見做されるようになった。

そこには昭和の中頃、医学界が政治的に整体を締め出しにかかった経緯もある。その時に「治療」と言う言葉すら使う事を禁じられた。

他の手技療法については時代が身体を変えてしまったのもあるし、技術を振るえる身体が消えてきた事や、科学薬品によって風前の灯。例えば鍼灸は西洋医学観をベースにする事で「治療」を許される事になった

元々今の西洋医学は巨大資本がマーケットにしやすい構造をしていたから、大量生産した病人に量産した薬と言うパターンが広まると、病気も病人も昭和から順調に倍増し、身体は自然界から切り離された産業的対象になって今に至る。

それは時代の必然でもある。

 

だけど本来、我々は医学と全く無関係に生きていた。

人間の身体を考える時、先ず身体は自然物なのか造形物なのか?二つの捉え方があると思う。

前者はアジア的で、後者はヨーロッパ的であるけれど、時系列で見れば一万四千年前、農耕文明の発生辺りを機に偶像崇拝が始まる。その神を具象化すると言う思考の変化が後者の考え方になり我々は神に作られたと考えるようになる。

造形物は一神教となり現在の医学も科学もこの後者の思考に偏っているが、この思考の向かうところは人間が人間自身を造形し、より自然界とは隔離された人工的文明を作り出し、人間と家畜の違いは無くなってくる。最新の研究に至っては、様々な分野で個人の幸せなど無関係なところに来ている。

これに対して身体は自然であると言う時、言葉に表れる以前、仮想現実が生成される以前、この世界の物事と響き合い、流動的な姿をした生命の存在様態に含まれる緻密な個人を指していた。

野口整体が治療をしていた時代、晴哉先生は次のように仰っている。

「治療というと、効くことの強い薬や治療方法が尊ばれるが、これは物の側から見ているからで、生命の側から見れば、効かない薬や方法で効果を上げるようにしないと、生命は真に溌溂としてこない。

それ故、効く薬を沢山使って治療する人よりも重曹、苦味、丁幾で万病に処すことのできる人の方が治療技術は上手であると言える。

治療の方法は、効かない方法で効かすようにするところに進歩がある。方法を追求して効かないから駄目だと言う人は技術と言う事のわからない人達である。

指で押して治るわけがないと言う人がある。治るわけのない方法で治るから技術があると言い得るのである。

効くことばかり追っていると、治療技術はこの世から姿を消してしまうかもしれない。

そして効く薬や効く方法が多く用いられるようになると、人間はその薬や方法がなければ、一日も生きていられないような体になってしまうかもしれない。

繰り返して言うが、治療の進歩は効くことにあるのではない。」

 

これは薬漬けの高齢者に至る現代社会からは駆逐されてしまった考え方で、おそらく現代人の多くが理解出来ない言葉だろう。

「効く薬、効く方法」の「方法」は言わば逃げ筋の事で、八方塞がりになるまで延々と逃げ続ける行為の選択を意味する。

それに対して効かない方法で効かせるのは、はじめから、何もしていない。何も持っていない。

過去や未来すらない。

それは、こころの生起する以前に同化しようとする、古い人間の試みと言えるかもしれない。

それが技術になると愉気となる。

 

我々の社会では分析の結果、化学的にはこうした反応が起こる筈だと言う、化学からの推論に従うことが正しい考えになっているけど、身体が化学反応で生きているならそれでも良いだろう。自分の身体に経験が乏しければそう考えるのも無理はない。

しかし、いくら栄養のあるものを食べても、その身体が欲して受け入れる状態になければ毒になる。つまり感受性の問題がある。

例えば、幼い子供が怪我をしたり、お腹が痛くなっても、骨が折れても絆創膏を貼って「はい、大丈夫」と教えれば、ケロッとして遊びに行く。

この感受性の転換は大人には真似できない。そこには暗示がどうこうよりも、子供の溢れる生命力がある。

この生命力が我々の人生を支えている。

しかし大人が生命力の当事者に対して、暗示の効果に目を向けた途端、子供のコントロールを考える。

支配下に置く為の自分が楽をする方法を見つけた気になる。

この見方一つで、生命力は陽の光を浴びるか、薄暗い支配欲に抑圧されていくかに分かれてしまう。

 

実際整体は治療では無いとは言え、感覚が変化すれば病が消える事はしばしばある。

物の世界に住んでいると現時点の身体状況が実体であるかのように錯覚するけど、その実態はある焦点が作り出しているに過ぎないし、それが変化すれば感受性は変わる。

面白いのは、障害や病は認定してしまうと固定される傾向があるところで、これを「呪」と言うけれど、この「呪」を免罪符に、変化を厭う傾向が社会にはある。

この固定された焦点、「呪」を解く事が実態を変える。

 

例えば、人の身体を触るようになってすぐに気がつく事がある。

先ず脊椎の姿形を観察する。

実際に上から下まで一通り観察して、こことここが捻れていると観たとする。二、三呼吸空けて再び上から下まで観察すると、もう違う場所が捻れている。

更に下から見ても違うし、立てば違う。座っても違う。触る人の身体によっても変化する。さて、この人の正解の背中はどれでしょう?

と言うのが現実。

もし他者に集注する際に再編される過程を見る事ができれば、自分の身体が粒子状に拡散し、収縮して再編される瞬間が観える。

この最初の選び方で、その後の展開がある程度限定される。観察の選択が増えれば相手の身体にはいろいろな身体がある事がわかる。

観るものによって観られる身体は変わると言う当たり前の事なんだけど、観られる側もこれを観てほしいと言うのは、たまにある。

ただ、意識的に思ってる事が身体に出ているとは限らない。

これは観る側も同じで、だから、僕らは観る自分がどんな身体なのか?と言うところから観始める。となると、それ以前の観ている身体自体の経験を練り上げていかないとならない。

そうして事実を「観察する」と言う事は、簡単で単純な人間観を共有している世の中で異端に身を置く事に他ならない。

人間の身体も感受性も生きているのだから変化している。それは歪んでいる事と同義なのだから環境や対象に左右されない固定した身体を作りたがるのは武道くらいで、変化は当たり前。歪む事は生きる力になり、出会う相手によっても、感受性の働きによっても身体は歪み、全力を〈傾け〉ようとする。

その〈傾き〉歪みが「異常」に見えるなら、「安静」以外の元気に動き回る子は障害児と言う社会になってしまう。

病院で検査を受けて「一言で言って癌ですね」と言われ何か安心する。あなたの人生は癌なのか?と言う事になるけど、そのレッテルは弱さを肯定する。

弱さにはある種の情感やストーリーが生まれる豊かさもあるけれど、身体は呪いにかかっている事を忘れてる。

それ自体が現代社会の〈病〉でもある。

これからはAIが人の身体を診断して、治療までするらしい。「効く方法」を求めた結果、方法ですら人の手を離れていく。

現代社会が恐ろしい速度で機械化する身体に向かい、人々の人間観が幼稚になれば黙して待つしか無い。

先日、長く整体に付き合ってくれている人が「自分の身体に起こる95%の痛みや、病気も更年期障害も自分で治せますね」と言った。その方は内観が上手になって整体がとても良い経験になる。

〈自分の身体は自分で始末をつけれる〉と観念を変更出来たら、整体は本来の整体になってくる。