はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

3月のふしぎ

教室のお知らせ。
4月は4日、18日土曜日朝9時半から桜丘区民センターです。

3月に入って息の研究をしています。
季節ものも毎年少しづつ上手になっている様ないない様な。
2月半ばから光ものが見えはじめてこれは何だ?何しに出てきたんだ?とか、ボケをかましつつ、身体の裏への入り方に取り憑かれ、気がついたら息からガス、身体の空気の入れ替えに。。
なかなか上手くいかない。季節を後追い後追いになってしまって身体の変化が早すぎる春。去年よりはちょっとだけ早く気付いたか。。
息と言うのは気功で言う外気、内気のベースになるものと理解してもらえれば良いでしょう。呼吸と息は無関係ではありませんが、息のこのガスと言うのは鍼灸で肝気が上ると言われるものを含めて、不必要な記憶がはたき出され、身体の裏にガスの様に溜まっている空気を指しています。この時期に掃除してしまわなければ、叩いた身体の埃は筋肉の緊張や固まってしまって、また一年間やりにくいことに。
それにしても。。
薬を飲んでる人はガスが出にくい。ステロイドとか引っ張り出すのに手間取られて綺麗さっぱりとはいかない。
まるで体内アウシュビッツ状態に。
春にならない身体からもガスは見つけにくい。
代わりに花粉症にもなりにくい。。
花粉症なんかもこのガスが綺麗さっぱり出て行けば症状は消えて行く。残ればまた来年。
多くの症状がこの時期にガスで始末出来るのは面白いけど、実際その症状のありかを探し出すところまで辿り着くのがこの短い期間内に出来るのかが問題。仕事の効率が上がるように、も少し広くて綺麗な場所も欲しいところだが。。

しかし、世の中わけのわからん事は多い。うちでガスと共に出した記憶が家まで追いかけて来て夜中に元あった場所に戻ったとか、ガスが出て行くと共に連れて来た首のない武士が薄れて行ったとか。本人の記憶以外の記憶は出て行ってもこちらからは見えないので、この忙しい時間に相手をしている余裕は無い。
厄介な問題は自分の記憶と他人の記憶の区別が付きにくく、それによってアトピーになったり、精神疾患になったり代々自殺者がでたりというケースもあることだ。
そう。自分の記憶や意識が、自分の体験しているものとは必ずしも言えないという事から、そもそも体験とは何か?自分は何処にあるのか?という疑問は生まれる。
自分探しと言うキーワードが流行った事があったけど、まず記憶について言えば実のところ全ての生命の過去と同化しているのが現在の自分と言えるだろう。
「現在いま」を体験するとそうなる。「現在」を体験するとは山を見て山とは認識しない。花を見て綺麗とは思い浮かばない。ただこの世界に存在する輝きを体験している。一切の知識が働かないところに入っている状態。
そんな「自分」は日常ほんの微かな、森の中の蛍の光ほどのものでしかない。

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では未来はというと、角度化した可能性で「現在」からは存在しない。その行方を決めるのも自分と言うのは錯覚で、ただ訪れ経験させられる受動性のものだ。
生きている体験には過去も未来も存在しない。
故に身体に入り込んだ他人の時間(過去に生きた人々を含む)薬物の記憶すら他者にガスとして干渉し入り込む為に、それらは現在に干渉し訪れる出来事を左右し、今この瞬間に在ることを邪魔する。
身体の時間性は一度だけ見たことがあるけど、青い光で灯台が照らす明かりのよう。光の角度は意識に先立つ様な速度で運動をもたらす。
しかしこれらは「未来」の定義の仕方によって現れる時間体験の一部でしかない。
時間性の中心はやはり「現在」この瞬間に全存在の集中が集まるかと言う事、流されて行く時間の流れから自分を外す事が出来るかと言う事だろう。それを道元は心身脱落と言ったのだと思うし、昔から芸事では自分を消す事を厳しく稽古したのだろう。

自分を外した時だけ自分が現れる、瞬間に在る事が出来る。
自分が消えると体験は「世界」になる。
他者がそこにいれば、その世界に共にある他者の集中も今ここにある体験に向く事が出来る。

つまりその世界は確かに微かな自分だけど無数の「世界」=他者で出来上がった個人同士が出会うことにより、互いに内なる共通の「世界=他者」を共有して同じ時間の他者=世界になる。
・・・・こうならないと不要な記憶もわからないなんて、自分の身体は「不都合な真実」ですよ。