はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

美を誘い出す人


美とは美を感じる心だと言う。
それは出会う事、稀なものかもしれない。
おそらく美を感じる心に出会うことは幸福なこと。
それは突然やってくる。
美を感じる心にとってこの世の全ては美しい。
新宿東口の歩道から線路を囲むビルが地球の上に儚い根を生やし、深い空が包むその景色も、海に突き出した寂れた色の工場地帯を眺めても、なんとこの世は美しいんだと世界の中に一人佇む。
別に気が狂った人じゃない。
虹を見て綺麗だなとか、吉野の千本桜の下で美しいと思うのは簡単だけど、例えば友が死んだ時に見ても、恋人に振られた時に見てもその景色は哀しいものでしかないだろう。
いや、確かに哀しいは追いかければ美しいという感覚があらはれる。
永遠に失われるものに対する美しいという感覚。それは儚くせつないこの世に生きていく為に、人の命を繋ぎとめる糧として人類が太古に発見した記憶なのだろう。
美を感じる心は生命力の集注現象としての顕われかた。だから工場からもくもくとでる煙が空に広がっている風景も美しい。
死にかけた朋輩の病床に花を生けても、それを美しいと感じられるならまだ彼は生き抜く生命力を持っている。

飼い猫が癌になって抗がん剤治療だ介護だと忙殺されている人がいる。
本人はそれは私のカルマなのよと、なにやら難しい観念を持ち出して自分を納得させている。猫にはさぞかし迷惑だろうが、しかしその哀しさを湛えた愚かしさを愚かしさと気づかない生命の風景にも人間の美しさはある。
その美を感じる心を呼び起こす、生命力を呼び起こす難行を追求しているのが芸術活動であろう。
となれば芸術家とは美を感じる人であり、感じる心を誘い出させる人。あるいは、その身体技を追求する人である。


僕たちが普段感じる「美しい」は美という世界の断片に過ぎない。
芸術活動とは人類にとっての偉大な活動であることを再認識する必要がここにある。

「美しい」は世界の断片に触れることではなく、世界そのものであるという全人的な経験なのだ。それを発見し経験し理解した人間だけが、芸術を追求できる。
その感動を再現させる技術は小手先の器用さではなく、学んで得るものでもない。
「美しい」という感覚には、感覚体験の世界で誘い出す技術を磨くしかない。すなはち芸=身体の術、或いは芸能=身体能力なのだ。
その身体は如何なる身体か?を現代の多くの日本人が見誤っている。
身体能力という言葉に即、学校体育での悲惨な我が風景を思い出したなら幸いかな悲嘆する必要はない。
スポーツも体育も身体能力に何の縁もゆかりも無いものだ。言わば身体能力を発見し育てた人間だけがそれをスポーツに応用してプロの世界の一流になる。
それが芸能、芸術の世界であってもしかり。
パソコンスマホの普及し、病院でチューブに繋がれて機械と結合して死んでゆくこの現代は、そんな彼等にとっては正に悪魔の世界、悪い冗談にすぎないだろう。
しかしそれらの人間の愚かしさをも芸の肥やしにして、己の中にひとり孤高の美を追求してもらいたい。
生命は留まる事のない時間の流れとともに躍動するものなのだから。