「いにしえの身体と造化の技」の続きになると思うのだけど、今回は音楽的に観た身体について、少し書いておこうと思います。
ある人が「なんで悪い事してないのに、こんな身体があちこち痛くなるの!」とぼやいていました。
「痛みの原因が知りたいって言うのなら、基本的にこう考えてみて。
自分の身体は遺伝子と言うけれど、ご先祖様達の生活の記憶、何を食べてきたか、どんな労働をしていたか、どんな生活環境に適応しようとしてきたか?と言う記憶で出来ているよね。
その〈身体〉が〇〇さんみたいな、一日中お菓子をボリボリ食べて、テレビ見て砂糖や小麦、添加物だらけの食事とってたら腹立つでしょ?
て言うか、対応出来ないでしょう。
例えば今が江戸時代の記憶の身体なら、食べ過ぎに運動不足で、そりゃ身体としてはやめとくれーって叫ぶよね?
江戸時代の人は鎌倉時代の身体で、怠けるなーって怒られてたかもしれないけど、現代は身体の時代設定と生活が違いすぎるから、薬でその差が埋まると思わない方が良いよ。
一時凌ぎは負債が貯まるし、副作用の無い薬もない。
勿論、問題はそれだけじゃなく、触るものも着るものもほとんどプラスチック。家も石油製品。それが平気にならないと生活出来ない感性の低下が問題だけど。」
ちょっとキツイ言葉に聞こえるかも知れないけど、歳を取れば誰でも身体に不具合は起きてくる。
過去の怪我や薬で誤魔化して来た負債も、身体をどう扱ってきたか、生活全般も形になってくる。
運動をしていたら良かったかと言うと、部分的に良く動いていた場所があったとして、しばらく放置すると負債はそこに流れ込む。
しかし、それらを含めて大元の仕組みを敢えて指摘するなら、やはり記憶と言えるだろう。
僕たちは昔の身体で生きているけど、その身体は常に時代に翻弄されている。
うちに来る人達と様々なヴァイオリン名手の録音を聴いてるうちに、ある時代以前の音は、聴き方を見失う傾向がある事に気がついた。
見失う傾向は、どう弾いているのか想像もつかなくなると言う事で、自動的に自分達のヴァイオリンとは別のものと認識するらしい。
そこには直面すべき問題がある。
水槽の循環機によって濾過され、水面に落ちる水の音を聴く時、水が落下し水面を叩く自然な音を聴く。
同時に様々なヴァイオリン奏者の演奏を聴き比べてみる。
すると人間が原初の時代に楽器を持ってどんな音を奏でようとしていたのか思い出すだろう。
現代のヴァイオリニストの中でも、ズッカーマンやパールマン、ヒラリーハーンクラスの演奏家、日本人ヴァイオリニストの中にも自然の音と〈平行して〉聴ける奏者はいる。
しかし更に一世代前、僕たちが聴く事の出来る録音が多くなり始めた戦中世代( 第一次対戦1914〜から二時大戦の集結〜1945までの40年間)は平行するだけではない。
戦時下の生存の危機に直面した経験、イデオロギーの暴力に晒された世代なだけに、生存の喜びを謳うギトリスは象徴的だ。同世代もみんな鬼籍に入ってしまったが、オイストラフ、ミルシュテイン等、多くの演奏者は自然に同化しようとするヴァイオリンの音を残しながらも混乱した時代を生き抜いた。
国家による活動、作品の制限、戦意高揚に使われる音楽。その背景にある機械技術と兵器の強大化、産業と汚染、自然破壊、後戻り出来ない歴史を歩み始めてしまった時代の中に、人間としての精神と身体の間をゆらめく情緒。人間の愚かさと生命力に対する感慨を想像できる。
しかし人間性を排した機械的演奏で評価されるハイフェッツは、精密に楽器を操る方向に振り切ったのだらう。
日本の学校教育にも少なからぬ影響を与えた彼について、wikiにも高知能ギフテッドと紹介されている。知能とは正解か不正解しかない非現実的抽象能力の事であり、その音は自然界への親和性を持たない。
世代を遡り、大戦が始まる前に若い時代を過ごしたカザルスやクライスラーは、産業革命に直面していた世代になる。
この産業革命は人類史の大きな曲がり角とも言える。
革命以前を失ったこの世代は、音楽だけでなく、身体的にも大きな変化の波を受けている。
音の中にも機械時代への傾倒、自然界を無視する傲慢さが現れてくるのだけど、どう言うわけか、カザルスだけはその波に反し革命以前の世代を踏襲して見せることができた。
バロックヴァイオリンを弾くある子が嘆く。
「本当のバロックって、どうしても今の音じゃ無い気がするんですよね」
それは1800年代に音楽活動の多くを過ごした世代まで遡れば明らかになる。
時代を遡るほど音楽はより音楽になっては来るけど、1800年後半以前に活躍していた人達と、それ以降では驚くべき変化がある。
その世代、イザイ、ヨアヒム、アウアーと言ったヴァイオリン名手達の録音は今もyoutubeで聴く事が出来る。
彼らの録音を水の音に並べると、その音は水音を大きく膨らませたり、中に潜り或いは水から出て、音の粒と粒の間に深さを生み、水音と楽器は互いに伴奏しあう。
ヴァイオリンは、ほぼほぼ自然界の音の再現だったのだ。
またその性質は、一つ一つの音が捌かれて何も癒着する事もなく、滑るように水や身体、聴くものに流れ込む。
また楽器が腹の位置にあるのかと思うほど、腹辺りに音が動く。
これは実に驚くべき証拠だった。
西洋人は、宗教的にも精神性ばかりの民族かと思っていたら、産業革命以前は違っていたのだから。
革命前に胸を使っていたのはサラサーテくらいで、他は腹に楽器があるようだ。
つまり受容性が好まれる時代があったと言う事だし、クラシックは精神性をテーマにしてはいなかった事を意味するだろう。
精神活動がクラシックとなったのは、少なくとも1900年代以降になる。
どう言う事かと言うと、演奏には身体を使う。
楽器は身体が無いと持てないのだから当たり前だけど、身体と言うのは私の意識とは別のものであり、別の秩序の下に働いている。
自分の身体なのに個人としての現象でない事が身体に現れる事は日常にも多いし、少し時間がズレたり別の時間軸が現れることもある。
過去の記憶が季節の変化やサイクルを止めていたり、アウアーやコーガンなどに見られるような、身体の中を捌き、滑り込み、無数の音の気が通り抜ける気韻を発する事が出来る。しかし現代人がそれを再現しようとしても、身体世界は五感の微かな精神的要素によって阻害される。
胸に集注があると言う事は、その大部分は肺と心臓が占めているのだから、呼吸器の働きが反映されると考えられる。呼吸は意識が半分を支配できる。つまり胸は身体でありながら精神の支配下にある事を意味し、その音は癒着を伴う。
ここで「精神」と言うのは皆んなが思っている程曖昧なものではない。
特に男性の背骨を触っていくと、ほぼ精神活動の働きを示して、身体を示している椎骨が脊椎の中に三.四カ所しかない人もいる。
オイストラフでさえ癒着は免れなかった、と言うより、時代的な感受性の変化が癒着を心地良いものと受け入れたのだろう。
その心地良さとは何だったのか?
この精神化する心地良さは存外に大きな問題である。
現代ではハイフェッツを癒着した音と聴いている人は少ないだろう。
産業革命が無ければ、ハイフェッツは評価されなかっただろうし、二度の世界大戦も原子爆弾も無かったかもしれない。
しかし感受性は変化したと言うか発見してしまった。
本来、自分達の生活や争いにコントロール出来ないものを持ち込んではならない。〈営みは身体感覚の範疇でコントロール出来なければならない〉と言う昔の規範、身体の内部と外部が一致していたそれまでの世界は壊れてしまった。
人類にとって道具を扱う身体技術の習得、扱える感覚の習得は成長の基盤だった。そこでは扱い難い道具であればあるほど身体は優れた働きをしなければならなかった。
しかし、革命を機に道具は一気に身体を離れていく。
その先は感覚の歯止めが効かない。身体は必要とされない、手には負えない事態が待っている。戦争も、原発事故もその一つ。
18世紀後半人々は自分達の精神を信じたかった。きっとこの先もコントロール出来る。事故が起きても誤魔化せる。自分の利益は守れると。
それは必然的に、身体を捌くのではなく、仕事を捌く能力の優れたものが価値ある時代へと変化を促し、人の精神は自然と遊び、戯れる喜びを、征服し操る喜びに変えた。
音大を卒業し、演奏を仕事とし始めた子が言う。
「クラシックは音楽なのでしょうか?」
それは、音楽とは何を旨とする技術でしょう?と言いかえたほうが良いだろう。
その答えは時代を遡って考えてみるしか無い。
初めて楽器を手にした人達が、どんな身体でどんな音を出したのかを。