春は梅の香り。
柑橘系の香りもお尻がふくらむ。
春は夏に向けて、徐々に骨盤の開いて来る季節と言われいるけれど、これも単純に開くわけじゃなくて、集注の移り変わりがけっこう複雑。
季節が移れば、身体は折々の表情を滑らかに変えてゆくもの。
鼻の繋がりが深い頸椎三番は、尾骨とも関係するけれど、この尾骨は感情や心の働きを現しているから、鼻が整ってくると、穏やかな心持ちになる。
春になるとおかしな人が増える、と言うのもこの過敏になっていく骨盤の系統が、上手く動かなくて、ホルモン系統の乱れとして表に現れやすく起きてしまう現象。
前回香りと記憶の関係について、と書いたのだけど、これはよく言う、臭覚が頭の記憶を司る海馬に近いから関係があるとかの、くだらない話しのことじゃない。
記憶とは何か?香りとはどんな性質を生命にもたらすのか見つけつみよう、と言う話し。
そこには身体の全体像が話として必要になってくるけれど、どこまで話せるのかはおいおい考えながら、、、と思ったけれど、前提が難しい。
柑橘系でお尻が膨らむと言うのは、身体の集注がそのお尻の感受性に属している。つまり匂いに対する集注が全体化していると言う事を表している。
ある人が鬱々と悩んでいて話しを聞くうちに、あ、わかりました!と急にパッと顔の明るさも変わって解決する。
その時、全体を観ていると、胸の全体性からお尻に変わったり、腹に変わったりしている。
これは香りや音でも、自然なものに触れても、人に触れても同じで、同じお香の匂いが同じ集注を誘うこともあれば、違うこともある。
その集注が変化していけば、問題はなくなる。
おばあさんがスポーツセンターで膝を痛めたのに、観ると胸に集注があって、膝が痛いと言っている。
そこで胸の感覚を変えると、膝を痛いと言っていた感覚は無くなってしまう。
同じ膝が痛いでも、人それぞれ「痛い」と言っている身体は、違う世界を持っていたりする。
たぶん、僕もそうだったけど、物理的に異常を起こしたものは、物理的に変えなければ治った事にはならない。と言う観念が変わるのはなかなかの大変なこと。
だけど、そもそも「治る」と言う事も時間が逆行するわけではないし、車の故障を部品交換するのと身体を同じに思っているのは、安易と言うか短絡的だと思うのだけど、実際の医学は部品交換の方向に進歩していく。
ここで押さえておくべきは、身体と精神と生命はその元にあるセオリーが違うと言う事が前提にあるからこそ、生命活動としては不自然ながら生存は出来る、と言う命の強さに依存していること。
そこでは、問題がどう言う経緯で起きてきたのか、寿命はどうなるのか、人生の違いを同化出来るのか、いろいろな疑問があるけれど、マインド絶対優位な世の中で、身体の事を考える余裕もない人も多いのだから、この医学がダメと言う気はサラサラない。
ただ、整体は勿論、芸術、武術、など生命を追求する人達にとって、向き合うもののポリシーが選択する世界は、安易な方法を取れない。
嗅覚は最も原始的五感と言われているけれど、それは匂いを嗅ぐ事が、自分と対象の例えば食べれるものかどうかを判別するとか、風に乗ってくる危険を嗅ぎ分けるとか、そのような事以前にある「集注出来る状態」にあるかどうか?を教えてくれるからじゃないだろうか。
例えば良い香りのお香でも鼻は閉じる。受け入れる事の容易なものは少ない。
それはどうしても、純粋な素材と言う訳にはいかないからだけど、香道の練香の様なものは身体が受け入れる。
かと思えば、今の世の中タバコと言うだけで目の敵にされるけれど、実は身体が深い感覚で受け入れるものも多い。
だいたい臭い匂いに過敏なのは、肝臓の異常とも言われている。
香りが集注を教えてくれると言うのは、例えばヴァイオリンを二十年やっている子でも、実音を聴いていれば音程を捉えたことがない。そもそも正しい音程なんてものはないのだけれど、音程を正しく聴くはある。
そして、聴いたことがないと言う事は、音楽を体験したことが無い、或いは掠めるように感じ取っている事を意味する。
聴く時に、多くは頭に物理的反応の部分が引っかかりを作っる。自分の外の出来事として、意味や楽譜を聴こうとすれば、弾く人の身体も聴く人の身体も感覚が痩せていく。
耳の形状が単なる穴ではなくて扇状なのは、音の深さを迎え入れる働きをしていて、上から外、中、奥になっているのだけど、良い演奏は中から奥に入り、中、奥、中、奥と出し入れしたり、深く流れて行くと思えば、広がったり締まったり速度を変えて身体空間に未体験の動きを生み出す。
そのストーリーが一曲になる。
それが無ければコンサート二時間を調弦だけ、と言うのも極端な例えだが音楽的にありになる。
身体を観るとすれば聴くことに集注したまま、嗅覚の奥が開く位置に香りを置く。
集注が深くなって来たら、その全体性の中に引っかかる所があるから、香りで溶かして更に深い全体に沈んでいく。
そこでもう一度聴くと、別の音の世界が生まれているから、その集注感が出るところに着手し、まとまりに持って行くと、音の運動する空間が体験出来る身体に変わる。
そして、香りが集注の目安になると言う事が確かなら、生命の記憶は香りだろうと思う。香りを纏って生まれ、新たな香りを宿して死ぬ。
前回、香りには境界が無いと書いたけど、生き物の間、そこには時間の境界が無いに近い現象がある。集注が深いほど香りもまた古い記憶になり、他者に触れて感覚も深く掘り下げて行くと、懐かしい香りに出会う事がある。それは相手の記憶で、自分の記憶でもあり、もしかしたら知らない誰かの記憶なのかもしれない。
出会えば、脊椎一側の何処かに焦点が生まれるけど、それは表面上の現象で、記憶の景色に香りが纏い付く、いや、景色に香りの記憶が纏いつくのだろう。
この景色とは体験の主体である「身体」に他ならない。または人間が誕生する時の一つの条件と言える。
とまぁ、前書き的に研究の方向性を書いてみたけど、詳しくは多くの人に出会って体験して行く事で、明らかになってくるだろう。(途中、諦める事にならなければ)
