はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

基礎編最後の鍵とムスビの景色

春は梅の香り。

柑橘系の香りもお尻がふくらむ。

春は夏に向けて、徐々に骨盤の開いて来る季節と言われいるけれど、これも単純に開くわけじゃなくて、集注の移り変わりがけっこう複雑。

季節が移れば、身体は折々の表情を滑らかに変えてゆくもの。

鼻の繋がりが深い頸椎三番は、尾骨とも関係するけれど、この尾骨は感情や心の働きを現しているから、鼻が整ってくると、穏やかな心持ちになる。

春になるとおかしな人が増える、と言うのもこの過敏になっていく骨盤の系統が、上手く動かなくて、ホルモン系統の乱れとして表に現れやすく起きてしまう現象。

前回香りと記憶の関係について、と書いたのだけど、これはよく言う、臭覚が頭の記憶を司る海馬に近いから関係があるとかの、くだらない話しのことじゃない。

記憶とは何か?香りとはどんな性質を生命にもたらすのか見つけつみよう、と言う話し。

そこには身体の全体像が話として必要になってくるけれど、どこまで話せるのかはおいおい考えながら、、、と思ったけれど、前提が難しい。

柑橘系でお尻が膨らむと言うのは、身体の集注がそのお尻の感受性に属している。つまり匂いに対する集注が全体化していると言う事を表している。

ある人が鬱々と悩んでいて話しを聞くうちに、あ、わかりました!と急にパッと顔の明るさも変わって解決する。

その時、全体を観ていると、胸の全体性からお尻に変わったり、腹に変わったりしている。

これは香りや音でも、自然なものに触れても、人に触れても同じで、同じお香の匂いが同じ集注を誘うこともあれば、違うこともある。

その集注が変化していけば、問題はなくなる。

おばあさんがスポーツセンターで膝を痛めたのに、観ると胸に集注があって、膝が痛いと言っている。

そこで胸の感覚を変えると、膝を痛いと言っていた感覚は無くなってしまう。

同じ膝が痛いでも、人それぞれ「痛い」と言っている身体は、違う世界を持っていたりする。

たぶん、僕もそうだったけど、物理的に異常を起こしたものは、物理的に変えなければ治った事にはならない。と言う観念が変わるのはなかなかの大変なこと。

だけど、そもそも「治る」と言う事も時間が逆行するわけではないし、車の故障を部品交換するのと身体を同じに思っているのは、安易と言うか短絡的だと思うのだけど、実際の医学は部品交換の方向に進歩していく。

ここで押さえておくべきは、身体と精神と生命はその元にあるセオリーが違うと言う事が前提にあるからこそ、生命活動としては不自然ながら生存は出来る、と言う命の強さに依存していること。

そこでは、問題がどう言う経緯で起きてきたのか、寿命はどうなるのか、人生の違いを同化出来るのか、いろいろな疑問があるけれど、マインド絶対優位な世の中で、身体の事を考える余裕もない人も多いのだから、この医学がダメと言う気はサラサラない。

ただ、整体は勿論、芸術、武術、など生命を追求する人達にとって、向き合うもののポリシーが選択する世界は、安易な方法を取れない。

 

嗅覚は最も原始的五感と言われているけれど、それは匂いを嗅ぐ事が、自分と対象の例えば食べれるものかどうかを判別するとか、風に乗ってくる危険を嗅ぎ分けるとか、そのような事以前にある「集注出来る状態」にあるかどうか?を教えてくれるからじゃないだろうか。

例えば良い香りのお香でも鼻は閉じる。受け入れる事の容易なものは少ない。

それはどうしても、純粋な素材と言う訳にはいかないからだけど、香道の練香の様なものは身体が受け入れる。

かと思えば、今の世の中タバコと言うだけで目の敵にされるけれど、実は身体が深い感覚で受け入れるものも多い。

だいたい臭い匂いに過敏なのは、肝臓の異常とも言われている。

 

香りが集注を教えてくれると言うのは、例えばヴァイオリンを二十年やっている子でも、実音を聴いていれば音程を捉えたことがない。そもそも正しい音程なんてものはないのだけれど、音程を正しく聴くはある。

そして、聴いたことがないと言う事は、音楽を体験したことが無い、或いは掠めるように感じ取っている事を意味する。

聴く時に、多くは頭に物理的反応の部分が引っかかりを作っる。自分の外の出来事として、意味や楽譜を聴こうとすれば、弾く人の身体も聴く人の身体も感覚が痩せていく。

耳の形状が単なる穴ではなくて扇状なのは、音の深さを迎え入れる働きをしていて、上から外、中、奥になっているのだけど、良い演奏は中から奥に入り、中、奥、中、奥と出し入れしたり、深く流れて行くと思えば、広がったり締まったり速度を変えて身体空間に未体験の動きを生み出す。

そのストーリーが一曲になる。

それが無ければコンサート二時間を調弦だけ、と言うのも極端な例えだが音楽的にありになる。

身体を観るとすれば聴くことに集注したまま、嗅覚の奥が開く位置に香りを置く。

集注が深くなって来たら、その全体性の中に引っかかる所があるから、香りで溶かして更に深い全体に沈んでいく。

そこでもう一度聴くと、別の音の世界が生まれているから、その集注感が出るところに着手し、まとまりに持って行くと、音の運動する空間が体験出来る身体に変わる。

そして、香りが集注の目安になると言う事が確かなら、生命の記憶は香りだろうと思う。香りを纏って生まれ、新たな香りを宿して死ぬ。

前回、香りには境界が無いと書いたけど、生き物の間、そこには時間の境界が無いに近い現象がある。集注が深いほど香りもまた古い記憶になり、他者に触れて感覚も深く掘り下げて行くと、懐かしい香りに出会う事がある。それは相手の記憶で、自分の記憶でもあり、もしかしたら知らない誰かの記憶なのかもしれない。

出会えば、脊椎一側の何処かに焦点が生まれるけど、それは表面上の現象で、記憶の景色に香りが纏い付く、いや、景色に香りの記憶が纏いつくのだろう。

この景色とは体験の主体である「身体」に他ならない。または人間が誕生する時の一つの条件と言える。

 

とまぁ、前書き的に研究の方向性を書いてみたけど、詳しくは多くの人に出会って体験して行く事で、明らかになってくるだろう。(途中、諦める事にならなければ)

 

 

ムスビ技術ことのはじめ

作家の石牟礼道子さんが亡くなって今年で八年が経つ。

今月の新刊に河出文庫から「あやとりの記」が出版されていたけど、石牟礼さんを知っている人も少なくなって来たし、時間が経ってもこうして出版され、読者が増えていくと良いなと思う。

と言っても真面目な読者ではなく、「苦海浄土」はむかし読もうとして、途中、余りにも苦しく挫折したまま本棚に飾ってある。

この「あやとりの記」は生命の世界の優しさ、愛おしさを、子供への愛情を、生と死を童話のように描いた作品で、読み始めたら、折口信夫を読みたくなって、「死者の書」と同時進行で読み返した。

この二冊は自分の記憶に無いはずの、いつかの昔、咽ぶ程の懐かしい香りを思い出させる。改めて文章力の凄さを思い知らされた。

どちらも日本人の古い霊力を物語っているけれど、残念ながら今や霊力(タマ)と言えばゲームのライフかアニメくらいしか思い浮かばない。

神社の行事や、儀礼に参加する人は少なくなって、正月、初詣の風習も、それはとてもほのぼのとした風習だけど、背景にはリアルな世界観と空白の歴史がある事も忘れられていく。

そもそも神社神道は宗教じゃなかった。

明治になって戦争をする為に宗教が必要になり、政府主導でキリスト教に対抗するポンコツ国家神道と言うものが作られたのだけど、それは日本人にとっての不幸な出来事になった。

神道はそれまで築き上げてきた文化だけで無く、霊性までをも破壊する、浅はかな倫理を庶民に植え付ける道具にされてしまったのだ。

この神道は謂わば政府に都合の良い〈神道学〉と言うもので、(東西問わず〈学問的形式〉は人間の膨大な認識外の事を、ごく僅かな認知可能域である人間中心世界に取り込む試みを指しているが、)それは形式外を排除するゲームの増殖を生み出していく。

そもそもこの学は、宗教学だろうが、科学だろうが医学だろうが、戦争をする為に使われてきたもので、人類が農耕を始め、都市文明を築き始めた頃から発生して来たもの。

国家の知の基盤とされるものはおおかた、国家が司法、経済構築の為に必要とする、指向性基盤として設定したものを、信じるか信じないかと言う話しにすり替える働きをもつ。

もちろん近代社会はこれを信じないと良識ある人とは言わないのだけど。

国家神道は戦後すぐに崩壊し、神は「倫理の無い科学」と言う東洋人特有の思想になって、仏壇、神棚を拝む代わりにマネーを拝んだ現代の神は、もう時期AIに変わるだろう。

キリスト教パレスチナの土着の宗教から始まったように、同じ人類の神話的段階から展開した一神教多神教、或いは預言者の居なかった世界では、社会システム全体が医学から経済まで異なった基盤を待つけれど、それぞれの宗教は預言者の出現した時代に適応する形態なのだから、民族精神の展開の、謂わば時系列を追わなければ、国や経済の思想体制の違いが、異なる時代の事情を内包した基盤の上に同じ時空を共有している像は見えてこない。

つまり地域空間だけで無く歴史時間が違う。

と言う事は、世界を駆け巡る時間がほとんど時差の無くなった時代、もうすぐ宗教と言うものはこの世界から消え去る運命にある。

特に、本来の神道や、ネイティブのようなアンチシステムの社会が、戦争でも経済でも国家間戦争の時代に適応出来ないのは、ドローン攻撃を見れば分かる。

人間は外部世界を抽象化する程、生存する人間を記号として扱えるようになる。

つまり、「人間は身体から離れるほど暴力的になる」。

人間の内側の世界で、抽象は生命活動を支える重要な働きを担っているが、外部では反転して「信じること」によって成り立つ観念先行型社会にプリントされ、抽象は暴走すればするほど生命現象を否定する。

それはコロナ騒ぎの記憶に新しい。

ネイティブな神の観念は本来、心と現象の緻密な仕組みが表れ出るところを名付けたもので、信じる信じないの話しとは〈しくみ〉が異なる。

しくみは全体のフラクタルでありながら、部分の働きを担っている現象は、その前に身体と精神が別のしくみに由来し、基本不可知となっているところから生まれる。

古代の社会におけるアニミズム神道の生き残りが、イタコや霊能者のような形で現代にも生まれて来るけれど、彼らは遠い昔に当たり前のようにいた人たちであり、転生を繰り返しながら、傲慢な「知」の世界に不可知が依然として存在する事を知らせる、象徴としての古代人と言えるだろう。

観念ではなく、人類の本能に根差した世界との関わり方がアニミズムであり、同時に女性性の社会が人類史の原始生活形態であったことは言うまでもない。

こうした話題は、縄文の名残を探す民俗学的な現代研究者のフィールドワークでも変わらないだろうけど、ここでの問題は人間そのものが、現代も内在させている古代人的身体を開拓しなければ、暴力はあらゆるシーンで止まらないと言う話し。

折口信夫石牟礼道子が描き出そうとした日本人の身体性を、なんとか現代まで伝えようとして来たのが「芸能」と言うもので、その起源は縄文の頃に生まれた古神道の、精霊を異界から呼び出す儀式にさか上る。

実はそこに「心の原型」があるからこそ、芸能者は中央管轄の神社から離れ、放浪してでも古代人の心を民間に残そうとした。

この形式化された伝統が「能」の世界に残っている。猿楽における「翁」がそれで、「明宿集」においては翁を「宿神」🟰天と地を媒介するものと註釈している。さらに柳田國男は宿神を音韻的に境界を表すものと推論した。

数年前に「精霊の王」を書いた中沢新一は、「古代から来た未来人 折口信夫」の中で折口信夫柳田國男を引き合いに出して〈心の祖型〉を指摘する。

折口信夫が観た「まれびと」の思想は、この世と異界を結ぶ「古代人」の自然な死生観として、世界の重奏性を象徴し、「遠野物語」で知られる柳田國男は死者の世界から現われ出るスピリットを中心にこの世を語る。

どちらもこの世を豊かに語る、その角度が少し異なるだけなのだけど、折口信夫のまれびとの思想は、あらゆる未来の知性の生まれる前にあり、未来の智を出し尽くした終焉の後に生まれでる、人類が内在させてきた感覚と知性の組織化へと希望を繋ぐ。

中沢新一はそう考えている。(と思う)

因みに一般生物学は生命の存在を前提としているけれど、生命は存在の一種なのか、生命存在論が結果的に生命を存在と認めるのか、と言う哲学的な問いを置き去りにして、生命の存在と非存在について、生命を「存在のない生命」と対比することでしか思考出来ない生命機械論が学問を支える土台になっている。

これに対しハイデガーは生命は現存在性においてしか手繰り寄せることが出来ない、と答えたけれど、はたして現存在性は思考手順と世界線の異なる視野へ移行出来たのだろうか。

生命とは何かと言う命題が、存在とは何かと言う問いに置き換えられても同じく、反語と言う観念のうちにある限り、論理的思考では現実を知る智は築けないのだろう。

 

知性の再組織化において「古代から来た未来人 折口信夫」に心のみらいのための設計図と題された章がある。そこには自然智である古い神道の、最も興味惹かれるムスビの思想が書かれている。

このムスビの空間を未来の思想の根幹として、再組織化する構想が折口信夫の頭の中にはあったのではないか、と言うのが中沢新一の考えるところ。そこには古代人の生活原理がある。

国家形成を拒否し、部族社会を堅持すべきと考えた世界中のネイティブが持っていた智慧と言う体験の規矩は、個の時空間中にある性質から生み出されている。

個の時空間では、身体的に観れば死体と魂を結び身体活動を生み出しているこの結び目が、背骨にあたる。

この結び目が離れる時、死体と魂は分離し、空間にズレが生じる。このズレには幽体の離脱から死までの強度の幅がある。

その研究の場が身体奥の空間にあり、それぞれ分担された役割がムスビ目を持って生存活動を作り出している。

ムスビ目と言うと、僕は「かごめかごめ」の童歌を思い浮かべるのだけど、この歌はヘブライ語に由来すると言う説がある。

映画「帝都物語」が作られた頃にも話題になってご存知の方も多いと思うのだけど、おそらくは当時の知識人から考えると、空海が作ったと言う説が濃いらしい。

その翻訳には諸説あるけれど、知らない方は調べて頂ければ面白いと思われる。

僕は普通に籠の目と夜明けの晩、後ろの正面で、この世とあの世の「まれびと」を想像していたのだけど、きっと空海の事だから、二重、三重に仕掛けているのだろうと、勝手に思っている。

 

一時幾何学図形に関心を持って、様々な形と身体における数の同化作用について調べていた時に、五角形と七角形は運動における体勢を変化させる作用を持つことに興味を持った。

五と七は、呼吸の働きを生み出すD先生の指摘に当てはまるが、五と七を合わせた形を身体に当てると奥と言う感覚層自体の変化になった。

この幾何学形のムスビ目を交互に編む事が重要で、探すともう一つ七を加えた形がより奥の変化を明瞭に引き出す事がわかる。

そしてこの形は古代の西洋エソテリック世界にあるシンボルの一つともなっている。

そこではこの幾何学模様の空間に天使の名前が書かれている。つまり霊の領域にも通じるムスビになっているのだけど、彼らには肋骨の身体感覚が存在しているのだから、心霊現象に類するガス的産物では無い。

身体には形が与えられている、と言う事が実はとても重要な事で、例えば打撲一つとっても「形の形成」が体内では起こっていて、その記憶は変化していく。

つまり、流動的な内気の空間に形が外部から与えられる事によって、固形化した空間が生まれる。この固形化した空間は静止しているわけではなく、運動するものもあり、記憶の変化と共に形を変え個性を紡ぎ出すが、これらは後天的記憶で、もう一つ臓器や骨格などの先天的記憶もまた抽象的形を持って働いている。

そしてこの記憶と香りには深い繋がりがあるようだ。

基礎編最後の鍵を開ける

「月の裏側」と言うURLと同じタイトルで今年は〆ようと思っていたのだけど、もう一つおまけに書いておきたくお付き合い頂きたい。

先日、東京シュタイナー学校の卒業生によるオイリュトミー公演があり、ちょくちょくピアノを頼んだり整体に来たりするTさんと娘さんが、最後の共演になると言うことで、お誘い頂いた。

この日は絶賛されたヨーロッパツアーからの凱旋公演だったらしく、その分練り上がった高校生達のパフォーマンスも構成も想像を遥かに上回って素晴らしく驚いた。

演劇に関しては一般の?劇団をいくつか観に行った事があるけど、初めてストレスの溜まらない身体性と感性の役者達を観たように思う。

同世代の子供達が受験勉強でカリカリしている時期に、踊って演劇を考える日々を過ごす彼らの中には、生きた感性が育っている。

そこには世界から自分を切り離す頭の思考,記憶、情報処理の作業ではなく、世界と共鳴せよと言う思想がある。

そうしたシュタイナー教育のプログラムが学校形式になれば、全て良いとは言わないし実際の経営は厳しいけれど、未来に向けて文科省管轄の学校教育よりは遥かに子供達を殺さない、育てる場になっているのがよくわかる。

学歴と社会的地位がアイデンティティみたいに、私はこう言う人ですから、と人間性をスポイルする現代教育の病いに陥ることが社会適応においては正解ではあるけれど、彼らはそんな病には罹らないだろう。

その分、社会の中で個性的マイノリティになり、孤立することもあるだろうけど、想像力と創造性の欠落していく世代の中に逆行する貴重な人間になり得る。と言うか、そこに特化した方針が本来のシュタイナー教育、或いはその前身であった「賢治の学校」のはず。

ただ、何冊かの著作を読んだだけなので分からないけども、シュタイナーはこれから先の人間が進化する過程を読み取っていたはずで、その理想を生み出す教育理念の通りに時代が進めば、幸福な世界は音連れるはずだった。

ところがここ数十年のシンギュラリティによって、いつのまにか社会と逆行した、と言うか見方を変えれば、この先のAI時代に貴重な生存能力を残す場所に役割が変わってきている。

 

その意味では野口整体も似たところがあると思う。

野口整体は人間を集注存在として喝破した。

それはメカニズムなどとして考えられる生やさしいモノではなく、一切の客観的観察に基く人間像の浅慮を取り除いた「生存」の世界と言える。

そこには無数の重層的感覚世界がある。

我々は感覚世界のある程度共通識別可能な「感覚領域」と、「人生」が縦糸横糸として幾重にも編み込まれた中を生きている。

その生存様態は生存の原始に遡る方向で考えるべきだけど、何故なら15世紀のデカルト辺りから我々は物質世界を固定したもの、安定したものと捉へ、その自己と物質との分離を医学的身体にまで拡大してきたことによって、生き物として弱くなって来たからだ。

実際現在の医療の産業化には、ロックフェラーが居てもいなくても変わらなかったであろう、脳の認知的欠陥がもたらす流れがあるのだけど、この欠陥を構成する要因の一つが客観的外部世界への依存性と言える。

音楽の世界はその典型例で、例えば現代の都市生活は視覚情報で構成され、眼が見えなければ障害者と認定される。

しかし逆に音楽の世界では、聴覚世界のはずなのに、眼が飛び出して視覚だけで集注し演奏する人達は多い。

彼らに例え素晴らしい技術とセンスがあろうとも、視覚に感情、情緒と思い込んでいるイメージを絡めるかぎり伝わらない。なんらかの視覚視点がある限り、音の世界の情緒には入れない。

視覚が消えたからと言って見えないわけではなく、体内領域は様々な知覚に変わるのだけど、その一つに音の世界を作り出す更に繊細な領域として、匂いで構成された感覚世界がある。

それは観るために視覚を隠した世界となる。

最近の言語学の出版物に、アマゾンなど密林のジャングルに住む部族の言葉には、匂いを表す言語が多いと言う話しを読んだけど、匂いはある意味最も原始的感覚かもしれない。

整体的に観ると一側四側と言う春の系統に関連すると言う事になるだろうけど、例えばピアニスト辻井伸行のような盲目の人達は、物の気配や危険をジャングルで狩をする人達の様に嗅ぎ分けて生活しないとならない。そのような研ぎ澄ました感覚で演奏するとしたらどうだろう。

その感覚世界の空間構成は音の世界より繊細だ。

レッスン中に音の香りを感じ取れとは、よく言う事で、視覚的奥の世界を安定させて更に深い集注の世界を求めていくには有効だ。

匂いの世界にも深さの層があるけれど、その匂いが脊椎一つ一つで異なる世界になっている事も、そこから音の繊細さが生まれ出ることも体験してみればきっと表現の意味が変わる。

昔、香道をやっていた人達が道具を一式くれたので、生徒達にお香を作らせた事があった。

それは面白くて、個々人なりの香り・・から、香りと言うより生臭い匂いのものまで様々だったけど、その子達の音はどこかそれぞれの香と繋がりがあった。

例えばお寺の観光などに行ったら、よくお香を買う。もちろん香道で使用するものより不純物が多いので使い方は研究が必要だけど、例えば方位学の吉方位に香を薫く方法などはかなりアバウトながら、やりたい事はわかる。

お盆に、お墓参りで誰もいない何処にも煙が無い所で線香の香りがしたり、神社へお参りしている時に濃密で強力に香の匂いが入ってくることがある。

それらは内界の出来事で、現実の香りよりリアルな体験をする。

その香りの世界は境界がないと言う特徴がある。

それ故にどこの世界も香りと煙は儀式に使われてきた。

この香りを音楽の練習に使い始めると、四つの大きな層の一番奥では、豊穣な音の空気が膨らみ、情感を生み出し、時間の速度は変わり、何より倍音がきっちりハマって響きの質が上がる。

面白いのは、その奥の入り口が人体の急所にあると言う事だが、香りにより整体の活点と呼ばれる急所を出す事も出来るようになってくる。これはもう一つの僕のテーマで、身体と精神の境目についての研究に繋がる気がしている。

ヴァイオリンの研究会で音の出し入れを自由に熟すにはもう少し研究が必要なので、来年のテーマになるけど、これまで音の基礎的学習を三つに分けて紹介して来た。

一段階目が調弦から緻密な倍音の諸条件

二段階目が感受性と運動特性の変更による多様な角度からの学習

三段階目が知覚集中の変化、音の以前から音を変える

そして、この三段目が一段目の倍音をより精度高く可能にする。

自分としてはここまで15年もかかってしまったけど、一先ずまとまりそうなので来年は少し練り上げる期間になる。

この基礎レベルでも世界の一流どころを見渡せば、通用するところまで届く・・かもしれないw

開拓しなければならないものは、自分自身の身体の中に深く埋蔵されている。

 

月の裏側・・生命現象を探しに行こう

腰痛になったら腰をいじってはいけない。

と言うのは整体の常識なのだけど、何故かと言うと多くはこじれて長引いたり、心臓疾患、高血圧につながっていくから。

だけどたまにセッカチな人がいて、紹介で来たのに腰を触らないならもう来ないと、すぐにマッサージや整形外科にいく人達もいる。

その人達に何年か経って会ってみると、だいたい心臓の手術をしたか、腰椎を切除している。

例えば白内障の手術をしたら、何年かして腰が悪くなり腎臓の水捌けが悪くなりと言う人がいれば、特にこの時期身体の渇きから神経痛に向かったり、脳溢血になる人もいる。だけどこれは元々生殖器の関連ともとれる。

生殖器と言えば、以前うちに来てすぐに閉経したお母さんが文句を言ってきた事があったけど、女性の胸椎11番が臍の奥に繋がるようになれば閉経する。これは大人になっていく現象で、閉経を止めるべきでは無いし、早く閉経したほうが後で体力的に有利になる。

男性の場合、性が大人になる為には二、三度の腰痛を必要とする。

腰痛になったら慌てないで二、三日で和らいでくるから、お腹を緩めて待てば良い。三か月もすれば良くなってきて、長くても三年すれば無くなる。

身体の成長も老化も流れに乗っていて、それも意思とは無関係に局部ごとにその深いところから現象化してくる。

そこで流れを読まずに余計な手を加えると、問題は別に拗れて頸や心臓に向かったりする。

この性の問題は多岐にわたっていて、野口先生は糖尿病を生殖器の問題だと仰ったけど、確かに調べてみるとある抑制が働いた瞬間に症状が出る。特に10月は腰の働きが高まり、砂糖にも少し注意がいるけど血糖値なんてものは二次的現象に過ぎない。それに対して短絡的にインシュリンを打てば体内から自力で調整する力が失われる。

女性ホルモンや、成長ホルモンが分泌していないからと子供に薬を打つのも同じで、勿論自力では育たなくなる。

昔はそんな療法はなくてもみんな生きていたのだから、待てば良い。

だけど待つ事の出来ないのが今の日本人で、日本ほど薬を多く使い、病人の多くなった国はない。

そこの因果関係を医療薬物産業界が転換することは無いけど、ホリエモン予防医学は儲かるとか言い出して学会がそれを推薦するんだから終わってる…それこそ医師会にメスと薬が必要だろう。

例えば常識で考えられなくなっている大きな問題の一つが妊娠出産で、この前も知人が反対だったにも関わらず、妻が人工授精で妊娠し、その子が障害を持って生まれることがわかったと言う。

人工の場合、目に見える障害、見えない障害があるけれど、障害確率が高いと言う事は知っているはずで、一番辛いのは子供自身になる。

心臓に問題のある事が分かれば、医師はどちらかの親族に心臓疾患はありませんか?と聞く。つまり遺伝子のせいだからね、と言うわけだ。

今時親族に心臓疾患の無い事は稀な訳で、正直に答えた側が子供に障害をおわせた犯人になる。

不妊の増加原因についてはこれまでにも書いているからここでは省くけど、日本社会の緩慢な自殺にしか見えない。

アトピーも出産に関係が深くて、胎便が出なければ肝臓に負担が掛かって皮膚から排泄する現象である事や、清潔過ぎて免疫力が育たない環境の問題などが言われているが、逆に言えば皮膚病を治せば、腸や肝臓に負荷がかかる。

何を言いたいのかと言うと、僕も元々鼻で息出来なくて散々病院に行った挙句、右足小指が捻れているのを直したら問題が無くなったと言う話しを以前にも書いたけど、問題は眼に見えるそこには無い。症状の本体は別にある事で、僕の場合は心臓だけど誰でもそうした根本的問題の一つは持っている。

あるバセドーをやった人が、結局は母体の医療によって肝臓の問題を受胎時に被り、それが腹部活点の右として出て来たけれど、その右の奥の領域はその人には関係が無い広大でアンタッチャブルなエリアの入り口になっている。

他にも痛みや不調が本人の身体ではなく、他人を被っているだけなんて事はザラにある。

つまり、身体と言うものは「生存」において時間の経過が重要要素になって来るけど、時間経過の観察が出来ない医学は生存を扱えないと言う事にもなる。

 

背骨は不思議なところで、深く息しているところを見ようと思えば、深く息してるところが出る。首の出るところを見つけようと思えば、首の出る身体が出る。答えを見つけようと思えば答えの出る身体が出る。

解剖学的に見れば解剖図が出るし、生きているように見れば生きた身体が出る。

力の無い場所を見ようとすれば、力無い場所が出て、焦点を見つけようとすれば焦点が出る。

楽家の身体には音楽が出るし、心理士には精神の身体が出る。

一人の身体に、集注するものに応じた複数の身体が出てくる。

しかし近代になって解剖学の身体と、精神の身体だけを自分の身体だと認識することが医学の観念を作って来た。

それは簡単に言えば誰でも「自覚している領域」の話し。

しかし、眠るのだって排泄だって腹が減るのだって無自覚に働くし、病も発熱も回復するのも無自覚にやってくる。生きると言う事自体がほとんど無自覚に発生している現象と言える。

先日操法中にやたらと被ってくる影があったのだけど、その身体の特徴がどうも父親の身体に似ている。おかしいなぁと思って母に電話してみると、肺炎で入院したとオロオロしている。

どうも意識が遊離する度にこちらに来ていたのだろうけど、禁点は出ていないようだからまだ大丈夫だよ、と言った。父はその夜が峠だったらしく、三途の川の手前まで行って戻ってきたらしい。

死を目前にすると、強い感応力を発揮する事がある。

例えば坂本龍一が亡くなる三か月前最後のコンサートで弾いた「戦場のメリークリスマス」は聴くと胸にその情感が強く出る。まるで坂本龍一の走馬灯を追体験しているかのよう。

精神と言うものの力もまた、無自覚のなかにある。

Aさんが鬱になったと言ってやって来た。勿論精神は自由なので自分の精神を鬱病と名付けるのも自由。

しかしそれは本来の精神の使い方じゃないから、精神を表している場所を見つけて、よりシャープに精神を出す。そこにリズムを与えるとだんだん身体化して来て、身体化するとひどくガスが出てくる。

この時期は頭も過敏になっているので、一つだけ頭のブレを抑えると、帰り際にAさんは「鬱病じゃ無いとは思っていたんですよね」と元気に帰っていった。

その背中に「それをうつびょーと言うんです」と呟いたけど、その理屈がAさんに分かるはずもない。

しかし、「鬱病じゃ無い」と思い込んだのはお見事で、それでAさんは少しだけ強くなっただろう。

 

現代社会は身体を異物として扱い始めたけれど、身体を追求していけば、「私」は身体そのものであって、身体は感受性の結晶化したものと解かれる。

確かに身体を異物として扱えば、切ったり貼ったり、薬の実験に使ったり出来るだろう。

しかしそれにより身体本来の能力が発揮される事はなくなっていく。

病もまた身体の能力そのもので、命を優先して病に転化し、回復過程に入った標として発熱し始める。そうして身体は強くなってゆくものなのだけど、現代はまるで人が強くなることを拒絶しているかのようだ。

僕だって生まれつきの問題はあるし、骨折や普通死んでいるような打撲もあるのだから、慢性化した病、中毒系の不調にはなりやすい。そんな時は身体が鈍って観察も難しい。でも死ぬ時は死ぬし、生きるなら身体の力が治すのを待つと決まっている。

待っていれば、四六時中ずっと同じ状態と言う事はあり得ないのだから、隙はあるし見つければ身体の感覚は変わってくる。集注するものを変えていくだけで身体は感受性の結晶なのだから、感覚が変われば体調は変わる。

この四十年、交通事故で気がついたら病院のベットだった時以外に、医者の世話になったことは無いのだけど、それは身体を自分として生きて死にたいからで、自分の身体をどうするかは人生観の問題なのだろう。

だからと言って自力だけで生きているわけでは無く、いろいろな人に助けられて生きている。それもまた感応の現象、身体の不思議さ。

 

整体が追求するのは無自覚の領域、或いは錐体外路系と呼ばれていた領域で、そこにこそ解明すべき生命現象がある。

その本山である整体協会は来年100年の節目に、現代社会に飲み込まれ話の通じなくなった人達を残して、新たな組織となる。

僕のような協会ルールの外でやってきた人間がどうなるかは分からないけど、自分の身体を見直して見たい方は一度新たに発足する狛江に足を運んで見られてはどうだろうか。

 

アーティスト

先日、久しぶりに落合陽一の配信番組で、明和電機土佐信道君が対談していたのを観た。

彼とは中学のクラスメイトで、優秀かつユニークな存在であったけど、この歳になってもさらに過激な商品を生んでいることに笑ってしまった。

彼の仕事は奇妙、奇天烈な電子楽器を作り出しているのだけど、その無意味、無価値、無駄に思える物が未来を救うと確信していると語る。

それはその通りで、この時代の意味や価値あるものなど、時代の閉塞感そのもの。そこにアンチテーゼを投げかけ続けるアーティストを一生続けて行くであろう彼の姿は孤高で強靭だ。

中学生の彼は、いつも授業中イラストを描いているか、怪しげな本ばかり読んでいる僕を誘ってくれて、一緒にスケッチに行ったことがある。

その後で講評をするのだけど、彼は絵画の技術論をいくつか教えてくれた。

僕自身は意図した絵面より良いものが生まれる奇跡だけに熱中していたのもあって、 彼の技術的に描くと言う描き方が新鮮で驚いた。

考えてみれば、その頃から彼にも、僕にも進む方向性は生まれていたのだなと思う。

中学生の頃と言うのは自分が熱中するものを見つける時期だろう。

僕の場合はそれが感覚と体験に向かい整体に辿り着いたのだけど、土佐君が彼らしく一本筋の通ったアーティストを続けて、しかも社会的に評価され続けているのは嬉しい。

楽家を目指す若い子達の中に何をしたら良いか分からないと言う子が少なからず居る。

その子たちに言う。

自分が子供の頃、一番初めに何に感動したのか、熱中したのか思い出してみたら?と。

別に音楽家と言う仕事じゃなくなっても良い。最初に集中し、感動した事を追求し続けて行くなら。

一つの事を続けていると、他のものも見えてくる事がある。

 

僕の場合は土佐くんと同じく画家を目指してはいたのだけど、それとは別に身体の問題もあって、子供の頃から医療には残念な思いしかしなかったのもあり、自分の身体を治す方法を探していた。

二十歳の時に決心して、睡眠の代わりにある呼吸法を始めた。

それはオリジナルだったのだけど、随分経ってから「活元呼吸」と言われるものだと知った。

やり方は簡単。

鼻から息を吸いながら、背骨に通して行く。

その時、吐くことは考えない。

五、六回通すと元気になる。

僕はこの吸い時間を3分に設定して、実践するうちに尾骨の斜め下に向けて吐くと、そこに抽象的形が五つ縦に並んでいる事を見つけた。

野口先生の話の中では元気になるとの事だったけど、この「元気」とは何か?と言う中身に関心が生まれる。

息を通すラインは背骨の椎体の内側、骨の際に通すと最も深く、スーと流れて行く事がわかってくる。

一日八時間程やっていると、先ず耳が鋭くなる。

耳の鋭くなることが気配の察知能力に関係する事は、武道をやる人間ならわかるはず。

同時に現在の整体では「奥眼」と言われる世界の身体感覚が日常になってくる。

そうなると、感覚世界に距離が無い。

これは面白くて目の前にある人を触るのと同じように、数十メートル離れた人を触れるようになる。しかしこの感覚は同じ対象の深さに触れる為、触られた人の通常感覚や肉体の感覚ではない。

例えばわかりやすいのは呼吸の形や、意識の塊のようなものになる。

この感覚層の移行は、整体の世界では大きく三つに分けられる。

多くの人が社会生活の中で体験している身体に纏わる感覚、肉体の実感と言うものは、外の眼の知覚で、そこで感じるものは中にも奥にも無いし、実際身体も変わる。

そこから更に細分化されて多くの感覚世界に自分が在るけれど、この多数の感覚層をどれだけ自由に移行し体験していけるのかが、整体操法の言う指導目的と僕は解している。

それは別段特殊な事ではなく、アーティストと呼ばれる仕事、音楽や絵画だけでなく、料理人や芸能だってこの感覚層に作風を紡ぎ出す。その集注の移行が多く体験出来るほど作風は豊かになる。

そしてもう一つ付け加えると、感覚層を運動する氣によって、身体の状態も運動も変わると言う事。

例えば、普通に観ている外の世界からの客観的な身体を使って上手に楽器が操れるようになっても、中に入っちゃうと別の身体、別の運動の特質に変わり、そこにあえて「正解」と言う無形なものを追うなら、「氣」の運動を知ることにもなる。

音と言うものも、色と言うものも、線も軽重も言わば「氣」から生まれるもの。

 

そうして一つ解るごとに、作曲家を読み直すのが音楽を理解する事に近づくのと同じように、僕のような整体を求める徒は「野口晴哉」を読み直す。

まぁ正直やっと読み始めたところなんだけど。。

「良し悪し」の基準と時代風俗の変更

ギドリスも言葉に残していますが、練習の一番の課題は、繰り返し同じ弾き方で練習しないと言う事です。

これが凡ゆる身体活動における大きな課題である事は、技術向上を目指す様々な分野に共通する経験上のセオリーです。

つまり、反効率、反コスパが能力向上の条件と言うわけです。

練習する際に、同じ動作を繰り返さない。
出来たことは二度やらない。
繰り返すと下手になるのは、人間の身体感覚が再現性あるものと、一度クリアすると消失する経験のある為です。

繰り返す動作は要求を伴わない為、腕が道具化して中身が薄くなってしまう事、効率化による単調で集注感を失った物としての中身を作っていく事の二つの問題があります。

その為、練習の中には時間をかけなきゃいけない部分と、かけてはいけない練習があります。
やり方はもちろん沢山ありますが、天才的な練習方法をお教えします笑

 

前回ブログの倍音記事で初動変更について触れましたが、稽古内容の一部を使います。

最初に初動を見つけたら、その運動が属している腰椎に初動自体を返してやります。
初動は気が集まる始めの動きを見つけます。

人間の動作は五つの腰椎どれかが根っこになっているので、繋ぎ直せば消えていきます。

最初の初動を消したら、別の場所に次の初動がでてきます。

次の初動が出ると、それは別の運動になっていて、この運動はまた別の腰椎どれかに属しています。

その初動からの動作の気の流れ、身体の動きを追いかけると、自分の知らない音楽への取り組み方がわかるでしょう。

例えば普段捻れのある人は、音に力がある代わりに音程が微妙にズレます。それは誰が捻れてもそうなるのです。
そこで、この人が初動を三番に繋げると次に新しい場所が初動になります。
この初動が腰椎四番開閉の初動だとすると、その初動からの動きを見ながら動き始めます。
そうすると音に対する感受性が、緻密でキレの良い音と「間の取り方」に集中するようになるでしょう。
繰り返し初動を使って練習し、初動を消しては次の初動を練習して・・とやっていると、五種類の身体が循環していきます。

五種類を一通り上手く見つけたら、身体全体が変わるので一旦休みをとります。
これは人間の感受性の全てのタイプについて、自分なりの視点から他者の演奏を理解し、自分のものにする稽古方法です。

「体癖」を読んだことのある人は関係するのかなと思うかもしれません。

本には腰椎の特徴がある程度出て来ます。

しかし基本的に「体癖」は、習慣化した不自由さがある瞬間顔を出してしまう瞬間の特性で、稽古は違う自分を見つける為に行います。

僕のところでは個別依頼の他に、数人のグループが二つ、片方は年に一、二回程度の会ですが、どちらも毎回新しい稽古方法を提案しています。

僕にとっては稽古の組み立ては自分の為の研究で、自分がどの程度その場で良い稽古を発想出来るのか、実力を認識する場でもあります。

発想自体、長年の習慣を捨てるのは難しい事です。

その一番のネックはやはり客観的な外部からのアプローチと、意識の操作性に依存してしまいがちな事かなと思います。

これを厳密に取り除くには、感覚の世界から表層に逃げない枠組みを監視しなくてはいけませんが、この客観的思考や視点に流れないよう鍛えていく事は、実のところ重大事になっているのが、現在の世界です。

この前ある人の話しを聞いていると、経済的に豊かな人達は美術品などの価値あるものに投資すると話されていました。

それは文化を支える上で大事な事だと思いますが、デジタル社会的だなぁと思ったのは、その価値が作品の値段だったり、誰それが所有していたからとかに価値を認めているのであって、そのものの良し悪しは分からないと言うところ。

絵画も音楽も、一般的には良し悪しの基準が待てていないのが今や一般的でしょう。

時代や社会、流行と言ったものに良いものを見つける事も必要だと思いますが、良いものの基準は「生命的な感覚に発見を与えるもの」とすると、観たり所有する者にもそれなりの実力がいる。

野口先生が「生命力とは美を感じるチカラ」と言うような事を仰っていたと聴きます。

そこに美しいものがあるのは、感じ取る人間にあるのであって、感じない人間には無い。その無い人は生きているのか死んでいるのか?と言う話しでもあります。

AIがいくら自分で考えるようになっても、生命を与える事はできません。いくら人類が全て人工授精や、遺伝子操作から生まれるようになって便利で安全と喜んだところで、そこに生命力は生まれない、感じる事に拒絶感を待つ情報存在が生まれるだけです。

こんな話しをすると、アルゴリズムに弾かれていくだけでしょうけど、実際に若い世代ほど身体の変化に現れて来ています。

今の時代、妊娠、出産と言う人生の始まりまで生命活動から切り離されていくけれど、これからもっと加速していきます。その時人間は思索する力も、人生を経験する意味も失っていきます。

でも、間に合うとしたら、身体に問うことだけが、この時代を修正する力になるのではないかと思います。

楽家なら、何でも良いんですが、例えば気に入った名演奏があったとすると、その演奏時間何分何秒を計って、キッチリ同じ時間で演奏してみようとする。なんて事から始めても良いでしょう。

そうすると、時間をどう感じとっているのか?身体の部分で流れが違うとか、順番の問題か?とか、ピッタリになるのは何処が基準か?とかいろいろ観察する必要があるでしょうし、技法を作っていく中で、他者と共有するには必要な事がまた別の技法に発展して行くでしょう。

思索、探求を辞めないで欲しいと思います。

 

多くの人は学校で習った事をベースに繰り返し練習する方法に慣れてしまいます。

しかし量の練習は一つの運動に一万時間と言われるほど質が変わるまでの時間を費やします。

確かに一万時間もやれば全体能力の引き上げには有効だし必要ではありますが、そこには核心的で最も単純なレッスンが条件となります。

何故かというと、繰り返される限定条件の中で工夫し、拡張したり、削り取る内界の作業が必要だからで、この作業中に何をやれば良いかを閃めく集注状態に入る必要があるからです。

初めは楽器と自分の関係から始まるでしょう。

関係もいろいろ変えて良いものを自分なりに見つける中で、例えば学校で良い先生につくのは有益ですが、それは教育内容でも経歴の為でもなく、その先生の身体を感じるとことにあります。

同調し、身体運動を共にする事が大事な芸事の稽古ですから、教える側は一緒に弾いてあげるのが一番良いのですが、生徒側の受け取れる子も滅多に見なくなりました。

それは、自分の身体を観て感じ取る、昔で言う観取り稽古のベースが無くなっているからです。

僕が整体をするのは、その観取り稽古の出来る身体を深く発見してもらうベースを作ると言う目的があります。

同調性と言うものは私達の生存そのものを支えている働きで、食事との関係にも、場所との関係にも、言葉との関係にももちろん働いています。

この働いている世界の中に病も快楽も元気も個性もあり、そこで響き合いながら「身体の知恵だけで生き抜く」人間としての当たり前に思える生存性を取り戻していかなければならないでしょう。

 

倍音・身体から始まる技術

7月、小笠原に思わず10日ほど滞在する事になり、やる事もないのでずっと波の音を聴いてた、のだけれど、時たまLINEで録音をチェックして欲しいと連絡が来る。

それは音楽と言うより電気信号で、島で聴くにはちょっと合わない。

父島は、沖縄のような明るさは無いけれど、景観は美しく、生態系も貴重で、ダイビングに最高のスポットであるのは間違いない。

しかし自然遺産である生態系を維持する為、観光に特化した住民生活の不自然さは、我々の日常が簡単には自然の生態系に同化出来ない事を物語っていた。

生態系を維持する為に、生活物資を週一便のフェリーに依存する不自由な利便性。

でも歴史的には島の中で生活が成り立っていた時代もあったわけで、現代の生活を持ち込もうとするから生まれてくる負荷がそのまま生活の形になっていた。

その事と、LINEで送られて来る録音の間には、とても奇妙な共通性があるように思えた。

f:id:Lautrefacedelalune:20251017114523j:image

電気信号が何を生み出すのかと言うと情報なのは明らかで、音楽が情報編集の作品としてある一面は否定しないのだけど、音に関して言えばその電子音は、身体の音じゃない。

つまり、身体が会話したり対話する音では無いと言う事。

人間の音は自然界に通じるはずで、その過酷な自然環境に折り合いをつけ、身体の自然性に折り合いをつけて来たのが文化と言うものであれば、文化を失った現代に生きる生活に、どちらの自然も無くなるのは当然かも知れない。

音楽が文化だとすれば、文化は国家や文明の元では生まれないと言うそもそも論を脇に置いても、文化を失った国で文化に再参入するにはどうするか?を考えなくちゃならない。

もしかしたら、文化になんの意味があるのか?と言う人もいるかもしれない。

一言で答えるなら、その必要性は生きる喜びや切なさの根底を失いたくないからと言うことになるでしょう。

実はその根底が無い日本人が徐々に増えている「ある原因」があるのだけど、それはまた別の機会に話したい。

数学的な音階に対して複雑な演奏運動は、学生を観ているかぎり、自然の音を知って造化された音楽を生み出すプロセスを示しておかなければ何を聴いているのか誰も分からなくなるんじゃないか?と思うわけです。

 

そこでまず、開放弦から倍音を「正確」に絞り出す稽古を考えてトライしてもらう事にしました。

ここでの「正確」と言うのは、倍音にも顕れる体癖傾向をあるポイントを経由する事によって外して行く事も含みます。

先ず倍音とは何かと聞いてみると、若い子達はよく分からないと言います。

世代で言うと五十前後、重要性が薄れて四十前後世代の一部は、音の概念に倍音がしっかりしている事もわかりました。

世代間に格差があるのはチューナーの違いだけで無く、アナログ世代とデジタル世代の違いもあるし、教育から社会全体の問題まで含まれています。

 

調弦そのものには段階があります。

初めは楽器の音程が正確になったからと言って演奏中に正確な音が出るわけではありません。

直ぐに正しい音程が出せたとしても、正しい音程に倍音が鳴るとも限らないし、スケール上のどの音も正しく出るわけではありません。

この段階で出来不出来に関わらず練習を開始してしまいますが、やる事は繰り返しの基礎練習がほとんどになります。

もし教育過程が確立出来るものならそんな話しにはならないでしょう。

背景にある様々な要素が、教師の良し悪しも含めて無関係に上達する方法でないとならないし、方法自体を生み出す技術が必要です。

ここでは基本の例として、調弦から音階練習の間を埋める技術を紹介したいと思いますが、普通調弦が正しければ変な音程になるのは弾き方が悪いせいと思うのでは無いでしょうか?

そこで身体の弾き方をいじくり回してドツボにハマる生徒が多数出て来ます。その多くは身体を殺して行くようなやり方です。

例えば、腕は同じ運動を繰り返し練習して行くと空間の運動性を失って、つまらない音になっていきます。

そうならない為の身体の基本事情や、働き方のセオリーを整理しなくては行けませんが、セオリーの習得だけで20年は掛かってしまいます。

そこで、直接「調律」において正しい音程が楽器と身体の運動の間にある事、そこから始める技術が必要です。

勿論、教科書的に正しいチューニングなんて何の役にもたちません。

弾き始めた時に欲しい音程が取れれば良いのです。

技術としては、多くを生み出す事が出来ますが、ここでは基本的な手順を紹介します。

ヴァイオリンの四本の弦を一つ一つ調弦する際に、先ずは左右の腕が運動します。

その腕の運動の仕方は同じ運動、つまり、初動から順に動いていく事に着目します。

人間の運動は内界ではどんな運動も同じパターンから始まります。

身体は動きを効率化し、運動範囲を狭めて対応する癖があるからで、その癖に飽きるまでは同じパターンを繰り返してしまう。

そして普段の使い慣れた身体を使おうとします。

その為、練習していてある時出来るようになったと錯覚するのは、その前の運動に飽きたからと言う理由がほとんどです。

例えば武術などで初動を察知して動くなどと言った場合、肉体の前に気の動きを感知するわけですが、突くのも蹴るのも同じ初動から始まります。

座るのも立つのも、物を持つにも走り始めるのも初動は同じです。

この初動はいつもの癖だから、腰椎五つのどれかに返してやると、別のタイプの運動になります。

ちなみにこの初動を簡単に行気として組み立てると、腰椎に返せば次の初動が生まれます。

初動の処理を五回繰り返すと全体が現れて来て、局部の初動と言うものが無くなります。

そこでしばらく全体を観ていると漠然とした黒い気の箇所がある事がわかります。これをAとします。

そうしたらその黒い気と対にになっている集注感のある箇所が出て来ます。これをBとします。

Bの方をナンバの空間(斜め)に繋ぐと黒い気はゆっくり動き始め、全身の内気が変化し始めます。

変化が落ち着くと、どこかに白い気の集注点が現れて来ますから、そこに気を集めると流れて消えていきます。

そうすると整体になると言うわけです。

例えば、整体だとこうした行気手順をいくつも考えて運動なら運動の本質は何かを探って行くのが一つの仕事です。

調弦に関しても同じで、整った演奏運動を生み出す手順を作るわけですが、例えばDを調弦しようとすると、その楽器の音は身体に作用して意識感覚をずらしてしまうところに目線を変えます。

まずは意識感覚を対象にズレが戻る運動を探す、つまり、音と身体運動の折り合いがつくところにポイントを置きます。

ここで、運動能力を整える為に有利な三点を取ることが出来るのですが、それはナンバの出る足に取ります。(詳しく書くと教えた人に文句が出るのでここでは伏せますw)

問題はここからで、微妙な倍音の出るポジションを探っていきます。

倍音の性質は楽器とは別の響きと感じられます。

高周波の、方向としては自分に向かってくる音です。

この音をナンバの空間に入れます。

音を探す際に高低を行きつ戻りつする中で、別の空間に生まれてくる響きです。

いろいろな人の響きを聴いていると、空間と言うのは層になって折り重なっているのが分かります。

ある人はその層を上から重ね、またある人は一つの層に集中した瞬間広がる。空間中点々と響く人もいます。

どちらにしても、この倍音がセット出来たら、音階練習に入ります。

そうすれば弾き方やポジションはその音が教えてくれるのです。

副産物として運動系の癒着が取れているので、今まで弾けなかった部分も弾けるようになっているはずです。

多くの問題はこの時点で解消されますが、ここからイントネーションの問題や、間の問題、曲全体をまとめる運動など、様々な「曲」へのアプローチに取り掛かります。

まぁ、僕は素人なのでまた稽古に参加してくれる人達と考えていきたいと思います。