音声配列

言葉の研究は古今東西いろいろとあるけれど、発声の仕方と語彙の並びとの関係に言及するものは少ない。

例えば発語に関しても顔で発声する人、胸で発声する人、腹で発声する人、それから身体の内側に向けて発声する人、外だけが発声する人といろいろなタイプがある。

これはその人が楽器を使う時の音の出方にも通じている。

身体の使い方とそれ以前にある言葉、音の出どころは、文化と共にあったことにも繋がってくる。

整体ではこれを気韻の稽古と言うのだけど、その発声の仕方を稽古して行くと、気を通す力にも関係するから、訓練し本来の身体を取り戻す為の一助になる。

歌を詠めば、佳い歌は感覚を運動させる力があるのだけど、現代人のほとんどが口先や胸で発音して価値を失ってきた。

例えば小学校に入って初めて国語の教科書を開いた時、そこにある近代日本語のつまらなさ、センスの無さに子供達はうんざりする。

これからは口先だけで生きて行くんだぞと言われているように感じるけど、その実感の元には言語習得と身体を無関係とした指導方針があり、言葉と感受性とは何の関係も無い日本語を強要される。

もしこの時期に記紀万葉とは言わないけれど、古典に触れていたなら教育に敬意を抱いただろう。

 

あいうえおの五十音を使い重複無しで表記されたものに、いろは歌とひふみ祝詞、あわ歌がある。

どれも古い時代に成立したものだけど、その遊び心は素晴らしく、どれも整った身体の運動性を教えてくれるし、日本人本来の世界観が垣間見える。

昔の文章にも歌にも今には無い味わいがある。味わいには頭ではなく身体で感じる「佳さ」の基準があり、それは長い文芸の歴史が作り出してきた。

有名な芭蕉の一文に「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり」がある。

面影がゆらめき動く。

その面影には表裏の影があって、この二つが動いて整う事を整体と言う。

その言葉と身体の基盤に形成された音は、それ自体に力があるとするのが言霊の思想だろうけど、実際には世代を重ねて身体に染み付いた、その染み付き方に力は生まれる。

標準語と呼ばれる近代言語が生活のほとんどを担う中で、たまに葬式や神社で意味不明な言葉の羅列、お経や祝詞と呼ばれるものに出会う。

そのほとんどは現代人にも辛うじて意味の分かる文章になっているけど、中には意味の分からない単なる音の羅列になっているものがある。

お経の場合は、伝来する過程と、宗派の開祖などによる変遷や創作があるのは分かるとして、神道は分からないものがいくつかある。

お坊さん達や神官さんが、朗々と読み上げ、常日頃「行」としているのは何故か?

何の効果があるのか?

僕も不思議に思っていた。

身体と心の間に発生する原始言語を音声化したものが、意味の分からない音の羅列になっているのだろうとは思っていたけど、これは意味が発生する外部世界に触れてはならない。

そこであるお経を百八日間、読経した事がある。

正確には最後の一日が出来なかったのだけど。

しかしその時体験したのは、100日を超えた辺りから、頭に尋常ではない気が集まり始めていた事だった。

拙い経験ではあったけれど、行者さん達は何らかの経験をしている、或いは求めて読経しているのだと言う事は分かった。

あれから随分経ったけど、最近S先生と祝詞の音の並びってなんだろね?って話しになり、こうした方が良いんじゃないか?こうしたらどうだろう?と工夫している。

これが面白い。驚くべき内観経験をするのだけど、祝詞の音の配列は、古の身体が古伝書にある通りの経験をしていた事が分かる。

と同時に、内観技法が音の配列を生み出した古代の叡智に、内側から触れる技法にもなり得ることに驚いた。

特にそれぞれの配列の焦点、意思を必要とせず気を集める点など、まだ土台構造の部分ではあるが、内観的身体技法をもって古代の叡智に触れる事が出来る。

更には我々の身体が音の配列によって世界を変えている事から、最も古い言語の起源と言うところまで研究は遡ることが出来るかもしれない。更にこの研究の方法を生み出す事が発展するなら。

ただし、意味は配列の力を奪うから要注意。

これはとてもマニア心をくすぐる。

 

そんなこんなで古い言語も音の使い方、文字の使い方、それに対する感覚の焦点などの話しになってくるのだけど、試験がてら楽器のレッスンに使ってみている。

音の配列と集注の組み立てを使うと、意識を用いず身体が変わると言うのが最大の利点になるだろう。

五種的な回転が欲しい曲、美しいメロディにしたい曲、激しいイメージでありながらロマンティックな空間を動かしたい時、様々なシーンに応じて、演奏者の感受性に応じ、必要な感受性を体験し、足りない感覚を補って演奏出来るから面白い。

簡単に言えば、五種の人間が七種の曲を演奏しようとして、いくら曲の背景や作曲家の勉強をしても、それは五種の感受性から捉えた七種の曲であって五種的な感受性しか伝わらない。

七種の身体、七種の感受性になって始めてその欲しかった音を出せる。

だから、いくら上手でもスコアを解析しても自分の感受性が変えられ無ければ自分の演奏にしかならない。

この感受性を変えると言うことが大問題、若ければ経験が足りないし、歳を取れば硬直している。したがってほとんどは鉄板の自分で仕事をやっつけようとする。

でもそれじゃ整体も演奏家も結局は通用しない。

結局は自分の身体を自由に適応させられるようにならないと・・と今回文字にしていて思い出した。

これは十代の頃考えていた事じゃないか、、、

自分の求めていた事は忘れてからリアルに実現されるけど、リアル過ぎて気づかんかったわ・・

 

おわり

 

 

(このオチわかる??)

静寂の力関係

この世界に最初に鳴り始めた音は今も聴こえているのかも知れない。

身体の奥底の方で。

と、たまに耳を澄まして観る。

十二畳の部屋の壁から向かいの窓にいる蚊の羽音がはっきり聴こえていた頃、音楽が聴けなくなり長い間興味がなかった。。。実は。

その理由は今になって分かったけど、それでも感覚がもっと深まるなら、始まりの音も聴こえて来るんじゃないかと思ったりもする。(注 厨二病ではない)

 

十五年程演奏者の身体を観させてもらって、感覚的な問い掛けにちゃんと応えてくれる人が多いのは、有り難い事だった。

そこにはプロの身体と、アマチュアの身体、学生の身体があるし、学校によっても身体の傾向に違いがある事を随分前に書いた事がある。

それは集注の置き所によって変わって来る。

プロは早くからプロだし、アマチュアはずっとアマチュアで、それも集注を何処においているかの問題になるから、その集注を変えられないとアマはずっとアマのままと言う事になる。

それは学校の先生も同じ。自分が弾くことは出来ても教える為に必要な集注の仕方は別にある。

しかし、芸事は学校教育には相性が悪い。

それは学校教育が感受性を育てるようには出来ていないし、身体、感覚、意識、情緒、言語などの扱いがほとんど未開拓なせいでもある。

また、それぞれの生徒の今何が育っているかも関係なく、画一的プログラムに沿って四年で終わる事もある。

例えば教師が教える事は出来なくても、その弾いている身体を生徒が感じ取れるなら、生徒の身にはなる。

聴き方の癖、弾き方の癖、これは誰にでもあるけれど、それ以前に耳じゃなく身体で聴いている事に気づかせる必要はある。しかしこれも本人が自分の癖を乗り越えていかなければならない。

聴いている音しか弾けない事を分かるところからはじめ、生活が音楽の中に入っていく。

生徒の側とすれば、どれだけその世界にのめり込むか、集注するか。それから感受性の深さを育てているか?と言う問題になって来る。

この世界をどう感じ、経験して来たか?

どれだけ学校教育にスポイルされずに来たかと言う事が、生徒のベースになる。

 

例えば体癖は快感が居着いていると言う事だから、変化しないといけない。変化して様々な感覚を見つけ体験していく事が必要になる。

だけど、大抵は弾くための体を固定してどの季節も、どんな条件でも同じ身体を使おうとする。

この身体の傾向が追い詰められると、そこから解放されて次の身体、感受性に移行し感覚領域を拡張していく。

しかし学校のシステムの中では、生徒側はなかなかその余裕を持てないし、その身体と感受性に合わせた曲から追求していく訳にもいかない。

自分達が評価されて来たようにしか、他人の演奏も聴けなくなる。更にその印象(自分の癖)と自分の弾き方を一致させ、結果聴く音と弾く音の間にズレがある事に気付けなくなる。

つまり他人の評価、客観的な音しか聴こえてこないと言う事になってくる。

 

もう一つの問題は、時代に押し流されている自覚。

音楽の評価ポイントが、人間的であるより機械的演奏に置かれるようになったのは、産業革命以降の価値観の変化が行き着く先に行き着いた結果。

異文化に飛び乗った形の日本人が土台にすべきは、日本の音楽だったのだけど、既にそれを聴く耳を失っていたから、佳いの基準が分からなくなっていた。そこで他文化は良いものと短絡する。

でも最近の学生を観ると、とうとう新しい時代に適応する世代が現れてきたのかもしれないと思う事がある。

新しい世代は明らかに僕たちとは違う身体になっている。

教育を放棄されたゆとり世代のメリットに上手くハマった子達なのか、大谷世代と言うか、音楽教育の未来を、良い方向に持っていくかどうかは、この世代が決めるのだろう。

だけど、どんな世代でも深い人間への目線が名演を生むのは変わらない。

 

人間的である事と、機械的である事の問題は「録音」を発明してから始まったと考えられている。

近年「可聴域」と言う余計なものが設定され、更には気軽に配信を利用出来るようになって、ますます体験がなくなって来た。

付け合わせになっているヘッドホンの音では、脳が活性化しないと言うのも、身体に無関係な音楽の雑音化と言える。

そうした問題の根本は何かと言ったら、「音の常識」が間違っていると言うか、音楽の産業化による洗脳が為された事にある。

勿論メリットもあるけれど、そのデメリットを充分に知らないと、音楽産業は終焉を迎える運命にある。

 

例えば僕のところは、複数人だと施設を利用するけど、個人的なレッスンはカラオケボックスを利用する。

カラオケボックスは換気音がうるさくて、周りの音や廊下のスピーカーも賑やかだし、昼間は楽器練習に使っている人も多くて、隣りはサックス、その隣りは声楽って日もある。

今までも雑音と一緒に弾いてもらおうと、時には山の中で、時には公園で弾いてもらったこともあるけど、それは元々自然界の伴奏者が音楽家だと考えるから。

西洋音楽は神の伴奏だと言うかもしれないけど、やはり、身体で演奏するのだから自然界に属する身体を優先としなければならない。

 

例えば静寂の音を体験した事はあるだろう。

趣味の庭によく置いてある〈ししおどし〉は、落ちて来る水の重さで、竹が岩に打ち付けられ「カポン」と音が発せられる。

音によって、かえって庭の静寂さを感じ、楽しめるよう工夫された遊び。

静寂さは雑音が無いとこととは無関係で、余韻の響きが深ければ深いほど、雑音は溶けていく。

 

カラオケボックスの騒音の中でも、音の深さがノイズキャンセル現象になる事がある。

これは音について考える切り口として、面白い。

一般的なイヤホンのノイズキャンセリングは雑音と逆位相の波形をぶつけて音を相殺する。

が、これは頭の感覚が雑音だらけになって、気持ち悪い。

音を周波数としてみれば、この発想が単純に生まれて来るのもわかるけど、この数値化された性質は、数値と言う見方から音に対する観念を限定する事になっている。

 

前回話した眼の視点、外、中、奥はそのまま聴こえる世界にも連動していて、例えば、iPhoneである人の講義を聴きながら、その音の響きに合う金属を鳴らして倍音を発生させると、共鳴現象でiPhoneの音量は勝手に大きくなる。(あまりやると壊れます)

逆にヴァイオリンを弾きながら奥に入っていくと、雑音は中から奥に入る過程で実際小さくなる事がある。

雑音の音量に集中していてもはっきり変化していて、弾く人が浅くなればその瞬間に雑音も大きくなるし、演奏が終わった瞬間音量が上がる。

これは別にヴァイオリンに限らず、ピアノや他の楽器でも同じ。

普通に考えれば、聴く側が、弾く人の集注世界に同調して雑音を聞かなくなるからとも言えるけど、雑音に意図的に集注していても明らかに変わっている。

そうすると、弦の周波数の中に逆位相の周波数が含まれるのではないか?と考えれるかもしれない。が実際、集注の深さは周波数で表されるのか?と言うことになり、音の性質上その可能性は低い。

もう一つが集注の感覚的深さは、物理的に影響する。音量は深さによって克されるとも言えて、同化されると捉えた方が正確かも知れない。

例えば手を叩くだけにも、下手な叩き方と上手な叩き方がある。

響きの良い音が良いと感じるのは、空間的に広がる音だからで、逆にしょぼい音は響かないし、飛んでいく音に方向性がある。

つまり空間が障害として感じられるのがダメな音。

神社で柏手を打つけれど、清浄な空間は音が広がり、穢れがあると音が届かない。

穢れを祓うのは柏手を一回。空間の穢れに向け、上手に打てればそれで空間は清浄さ、空気の流れを回復する。

その時、高音は奥になっている。

逆に外の音になると、くぐもった音に聴こえて響かない。

つまり空間に障害のない深さの音は、空間を清浄にしていく、空間の性質は深さによって変わると言う事です。

これを感覚空間の位相性として観ると、一種の次元干渉とでも言えるかましれないが、この世界はそんな歪みだらけです。

(最近下北沢が有名みたいですけどw)

例えば奥の世界では、弓矢の名人が的に矢が当たってから矢を放つと言われる感覚もわかる。

 

兎にも角にも、晩年いつも奥の世界を観ていたギトリスのように、深い味わいのある演奏を聴きたい。

そんな演奏者が増えなければ、これからの社会で音楽は必要とされなくなる。

そんな危機感を演奏者には持ってほしい。

もし音の感覚を追求するなら、その音は世界を清浄にしていくだろうし、延々と響き続ける。

そこに入っていける集注を、皆んな追求していけるはずだから。

 

 

複雑な立ち位置〈整体の話し〉

この前も親戚に「腰が痛くて整体に通っているんだけど、良い整体師知らない?」と聞かれ、「整体師の事はよくわからない」と答えた。笑)この質問にはいくぶん悪意がある。

彼らが言う「整体師」はカイロプラクターか、マッサージを指しているのだろう。

今では野口整体はほとんど知られていないから。

だけど、整体について説明をしようとして上手くいったためしも無い。

話していると、期待されている「病」とか「治る」とか「治す」と言う言葉の観念が混乱してきて、受け入れられないのが分かる。

西洋医学の治療観が広まるにつれ、野口整体は閉じた世界と見做されるようになった。

そこには昭和の中頃、医学界が政治的に整体を締め出しにかかった経緯もある。その時に「治療」と言う言葉すら使う事を禁じられた。

他の手技療法については時代が身体を変えてしまったのもあるし、技術を振るえる身体が消えてきた事や、科学薬品によって風前の灯。例えば鍼灸は西洋医学観をベースにする事で「治療」を許される事になった

元々今の西洋医学は巨大資本がマーケットにしやすい構造をしていたから、大量生産した病人に量産した薬と言うパターンが広まると、病気も病人も昭和から順調に倍増し、身体は自然界から切り離された産業的対象になって今に至る。

それは時代の必然でもある。

 

だけど本来、我々は医学と全く無関係に生きていた。

人間の身体を考える時、先ず身体は自然物なのか造形物なのか?二つの捉え方があると思う。

前者はアジア的で、後者はヨーロッパ的であるけれど、時系列で見れば一万四千年前、農耕文明の発生辺りを機に偶像崇拝が始まる。その神を具象化すると言う思考の変化が後者の考え方になり我々は神に作られたと考えるようになる。

造形物は一神教となり現在の医学も科学もこの後者の思考に偏っているが、この思考の向かうところは人間が人間自身を造形し、より自然界とは隔離された人工的文明を作り出し、人間と家畜の違いは無くなってくる。最新の研究に至っては、様々な分野で個人の幸せなど無関係なところに来ている。

これに対して身体は自然であると言う時、言葉に表れる以前、仮想現実が生成される以前、この世界の物事と響き合い、流動的な姿をした生命の存在様態に含まれる緻密な個人を指していた。

野口整体が治療をしていた時代、晴哉先生は次のように仰っている。

「治療というと、効くことの強い薬や治療方法が尊ばれるが、これは物の側から見ているからで、生命の側から見れば、効かない薬や方法で効果を上げるようにしないと、生命は真に溌溂としてこない。

それ故、効く薬を沢山使って治療する人よりも重曹、苦味、丁幾で万病に処すことのできる人の方が治療技術は上手であると言える。

治療の方法は、効かない方法で効かすようにするところに進歩がある。方法を追求して効かないから駄目だと言う人は技術と言う事のわからない人達である。

指で押して治るわけがないと言う人がある。治るわけのない方法で治るから技術があると言い得るのである。

効くことばかり追っていると、治療技術はこの世から姿を消してしまうかもしれない。

そして効く薬や効く方法が多く用いられるようになると、人間はその薬や方法がなければ、一日も生きていられないような体になってしまうかもしれない。

繰り返して言うが、治療の進歩は効くことにあるのではない。」

 

これは薬漬けの高齢者に至る現代社会からは駆逐されてしまった考え方で、おそらく現代人の多くが理解出来ない言葉だろう。

「効く薬、効く方法」の「方法」は言わば逃げ筋の事で、八方塞がりになるまで延々と逃げ続ける行為の選択を意味する。

それに対して効かない方法で効かせるのは、はじめから、何もしていない。何も持っていない。

過去や未来すらない。

それは、こころの生起する以前に同化しようとする、古い人間の試みと言えるかもしれない。

それが技術になると愉気となる。

 

我々の社会では分析の結果、化学的にはこうした反応が起こる筈だと言う、化学からの推論に従うことが正しい考えになっているけど、身体が化学反応で生きているならそれでも良いだろう。自分の身体に経験が乏しければそう考えるのも無理はない。

しかし、いくら栄養のあるものを食べても、その身体が欲して受け入れる状態になければ毒になる。つまり感受性の問題がある。

例えば、幼い子供が怪我をしたり、お腹が痛くなっても、骨が折れても絆創膏を貼って「はい、大丈夫」と教えれば、ケロッとして遊びに行く。

この感受性の転換は大人には真似できない。そこには暗示がどうこうよりも、子供の溢れる生命力がある。

この生命力が我々の人生を支えている。

しかし大人が生命力の当事者に対して、暗示の効果に目を向けた途端、子供のコントロールを考える。

支配下に置く為の自分が楽をする方法を見つけた気になる。

この見方一つで、生命力は陽の光を浴びるか、薄暗い支配欲に抑圧されていくかに分かれてしまう。

 

実際整体は治療では無いとは言え、感覚が変化すれば病が消える事はしばしばある。

物の世界に住んでいると現時点の身体状況が実体であるかのように錯覚するけど、その実態はある焦点が作り出しているに過ぎないし、それが変化すれば感受性は変わる。

面白いのは、障害や病は認定してしまうと固定される傾向があるところで、これを「呪」と言うけれど、この「呪」を免罪符に、変化を厭う傾向が社会にはある。

この固定された焦点、「呪」を解く事が実態を変える。

 

例えば、人の身体を触るようになってすぐに気がつく事がある。

先ず脊椎の姿形を観察する。

実際に上から下まで一通り観察して、こことここが捻れていると観たとする。二、三呼吸空けて再び上から下まで観察すると、もう違う場所が捻れている。

更に下から見ても違うし、立てば違う。座っても違う。触る人の身体によっても変化する。さて、この人の正解の背中はどれでしょう?

と言うのが現実。

もし他者に集注する際に再編される過程を見る事ができれば、自分の身体が粒子状に拡散し、収縮して再編される瞬間が観える。

この最初の選び方で、その後の展開がある程度限定される。観察の選択が増えれば相手の身体にはいろいろな身体がある事がわかる。

観るものによって観られる身体は変わると言う当たり前の事なんだけど、観られる側もこれを観てほしいと言うのは、たまにある。

ただ、意識的に思ってる事が身体に出ているとは限らない。

これは観る側も同じで、だから、僕らは観る自分がどんな身体なのか?と言うところから観始める。となると、それ以前の観ている身体自体の経験を練り上げていかないとならない。

そうして事実を「観察する」と言う事は、簡単で単純な人間観を共有している世の中で異端に身を置く事に他ならない。

人間の身体も感受性も生きているのだから変化している。それは歪んでいる事と同義なのだから環境や対象に左右されない固定した身体を作りたがるのは武道くらいで、変化は当たり前。歪む事は生きる力になり、出会う相手によっても、感受性の働きによっても身体は歪み、全力を〈傾け〉ようとする。

その〈傾き〉歪みが「異常」に見えるなら、「安静」以外の元気に動き回る子は障害児と言う社会になってしまう。

病院で検査を受けて「一言で言って癌ですね」と言われ何か安心する。あなたの人生は癌なのか?と言う事になるけど、そのレッテルは弱さを肯定する。

弱さにはある種の情感やストーリーが生まれる豊かさもあるけれど、身体は呪いにかかっている事を忘れてる。

それ自体が現代社会の〈病〉でもある。

これからはAIが人の身体を診断して、治療までするらしい。「効く方法」を求めた結果、方法ですら人の手を離れていく。

現代社会が恐ろしい速度で機械化する身体に向かい、人々の人間観が幼稚になれば黙して待つしか無い。

先日、長く整体に付き合ってくれている人が「自分の身体に起こる95%の痛みや、病気も更年期障害も自分で治せますね」と言った。その方は内観が上手になって整体がとても良い経験になる。

〈自分の身体は自分で始末をつけれる〉と観念を変更出来たら、整体は本来の整体になってくる。

 

 

 

 

 

 

変えたい常識

この子は何も問題無く出産するだろうと思っていた子が、最後の最後、子宮口が開いた途端に止まってしまったと言う出来事があったのだけど、その後で「君は自分が生まれた時は自然出産だったのか?」と聞いたら促進剤を使ったらしいと言う。

あーそうだったのか、全然分からなかったなぁ、、と思ったのだけど、薬物はわからない事が多い。

この前もネットニュースに妊婦さんが無痛分娩にしようとしたら、姑に反対されたからやり返した云々と言う記事があって、それに対するコメントは大半がよくやった!安全安心な無痛分娩を否定するなんて愚かだ!自然出産なんて前時代的だ!と言う意見が占めていた。

確かにお母さんは楽に産めるかもしれないが、身体に手を加える事を軽視し過ぎてやしないだろうか?

どう言う事かと言うと、人類は長い間自力で出産して来た、それは他の生き物達も皆同じ。

その長い生命を繋ぐ営みに人工的な薬物が使われ出したのはこの四、五十年の事。

医学的に問題は見えないのだろう。対処療法の考え方からすれば、子供に問題が起きればその子を治療すれば良い、と言う考え方になる。

しかし実際には出産時に手を入れたタイミングなどで個人差はあるものの、自身が促進剤を使われ生まれた子は、自分が出産する時に自然に起こる筈の「いきみ」が起きない。

つまり子供は出産プロセスの記憶を母の記憶からコピーしていると言えるのだけど、大人になって妊娠し、陣痛が来て順調にプロセスを辿っていても、自分の中にある母の出産プロセスが記憶として途切れると、自然な生理的働きが起こる為の記憶も途切れてしまい、自分でなんとか作り出さなければいけなくなる。

促進剤じゃなくても、無痛分娩で生まれた子は麻酔の記憶との戦いだし、帝王切開にも勿論子供にとってのデメリットはある。それはこの20年くらいで社会に現れて来た。

薬もメスも使うなとは言わないが、あまりに乱用され過ぎている。その理由が医師側の勤務時間だったり、訴訟回避だったり金儲けだったりなのは論外。

産道を通る機会を失ったその子は、人類が引き継いできた出産の為の記憶をなくしている。

もしその子が大人になり、結婚して次の世代を生む時に、その子は病院で産めば促進剤なり麻酔なりを使えば産めるだろう。しかしその次の世代つまり孫世代で、もし医療などが間に合わない環境にあったらどうなるのか?

たいへん危険な目に会う可能性があるが、再び人類の記憶を取り返す為に命がけで頑張ることになる。

それを医学の勝利と呼ぶのだろうか?

話しの最初の子は、病院も薬は出来るだけ使わないと言う方針だった為、気を失いながらも約三時間をかけて自力で産んだ。おかげで子供にもその記憶を手渡せて良かったものの、医療者には順調に見えたお産が、何故最後に手こずったのか分からなかったらしい。

助産院が消えてしまったのも、こうした自然出産出来る子がここ数年で急速に減った事が一つの理由だろう。

薬物の濫用が僅か数年続いただけで「出産は人工的なもの」が常識となってきた。

そうした風潮は一般的な治療常識となって、自分の身体に自分で責任を持つ事すら反社会的人物との烙印を押されかねない時代を作る。

以前ある子が出産をした時に、産婆さんを紹介したのに一人で産んで臍の緒を切ってケロッとしてた強者がいたけど(しかも二人も)、動物的な野生と言うか、原始的な感性が残っていればそれが自然な要求に基づいている事に違いない。

出産が難しくなるか否かは出産までの身体の問題で、自然に受胎するなら身体にその力があるし、環境に耐えられないと感じていれば生まれない。

年齢は関係なく受胎する前から身体が整っていれば普通に自宅で産んでも問題ない。と言うか、自宅の方が楽に産めるもの。それを病院じゃなければ産めないと思っているのは、出産は自分の力では無理と思い込まされて来たからで、それはある意味女性に対する医療メディアの勝利だろう。

まぁこう言うことばかり話していると嫌われるけど、ツケは後の世代に回して誰かが解決してくれるでしょう、人類が劣化した分をAIがなんとかしてくれるでしょう。と言うのが一般的感覚なのだろう。現代に生きる我々は、長らく生存の為に獲得して来た人類の遺産としての身体智、身体記憶を破棄しているが、それが利益至上主義の故なのはやるせない。

「異次元の少子化対策」だかなんだか知らないが、世界人口の中で弱い種は淘汰されていく。今の「異次元の少子化促進対策」を止めて、生存のバイタリティを取り戻す方向に舵を切れないものか。。

 

先日ある子が血尿が止まらない、腎臓が痛いと連絡をしてきた、

遠方なので、いくつか脊椎のチェックリストを送って返事を待った。

話しによると、ヴァイオリンのレッスンで指摘された部分を無理やり直そうとして腎臓を痛めたのだと言う。

実はこうしたトラブルは多い。

程なくD10の中が真っ赤だと言う連絡が来た。

腎臓かどうかは怪しいけれど、ひとまず内出血を処理してもらう。それから捩れを見つけて処理したら、その一つ奥が気泡だらけだと連絡が来た。

とにかく出血は確からしい。その処理もやってもらってもう一度チェックリストを送る。

身体の異常感も腎臓の痛みもだいぶん楽になったと言う。

そうこうしながら、一週間後に少し元気になったご本人がやって来た。

脊椎を観察してみると、かなり頑張っていて大人しくしているところが全体のニ割くらいしかない。

腎臓はと観ると右が居ない。

それは左の脇腹に見つけてそのままアンカーにしておく。

とりあえず出血の処理は出来ているはずなので、上から身体の頑張り方を流れとして観て、その中心となるところから始めてみる。

 

僕としては話しを聞いた時点で、遠方だし実は病院に行きなさいと言ったのだけど、行かずになんとかならないかと言うので、LINEでのやり取りとなった。

僕も滅多に病院に行けとは言わないけれど、本人が自分でなんとか出来ると思っているなら出来るだけ協力したいと思っている。

実際切羽詰まっていれば、思わぬ集注力を発揮する。そこで自分の身体を観る力を付けていけば、いざと言う時に自分を助ける可能性は高くなる。

僕はいつまでも機械に依存した医療が栄華を誇るとは思えないし、ほんとのパンデミックが起きた時に医療は間に合わないと思っているので、若い人には出来るだけ身体の観方を身につけておいて欲しいと願っている。

 

 

 

 

 

 

 

いにしえの身体と、造化の技

葛飾北斎の生誕二百六十年に作られた舞台芸術作品のドキュメンタリーがあった。

ドキュメンタリーの中で小布施の北斎館に展示されている「富士越龍」を観に行くシーンがある。

そこでの解釈はともかくとして、この最晩年に描かれた有名な掛け軸は、その北斎の斬新かつ膨大な絵師としての時間、神懸かりな筆捌きの技、画境の集大成のように龍雲によって切り抜かれた永遠の富士。

創造とは「無限」に生じた無数の歪み、そこに生まれる原初の「こころ」の出現を表現しようと足掻くのが性なのだろうと、僕は思っている。

文人画の鉄斎は、江戸の山水画を独自の世界に落とし込み、晩年は融通無碍の世界に遊んだ。

それは一度観ると一生忘れられない。

鉄斎は陽明学に傾倒し、その面白さは晩年になって人間を突き抜ける。

日本画の多くが禅宗思想に影響を受けた事は間違いなく、それについては鈴木大拙の「禅と日本文化」などを参考にされても良いと思うが。。。結局は絵画だろうと音楽だろうと、受け取れる人が居ないと消えしまう。

創造性の自在さは型枠から生まれるとは言え、作者のその瞬間の人生が幾度も繰り返される行為の器にその世界は留まらず、自在を知る。それをいくら美術館員が詳しく説明しようと、大学でお勉強しようと、知識があればあるだけ、「もの」を知る事も観る事も難しくなる

その創作には多くの絵師が見つけ出した理があるが、その中で何者であるかを忘れ、世界は内も外も無く形も無い。感受した直観のままに描かされ、技を磨いていく・・自然とは常に造花される。

その事を体験したのは、良い音楽の見極め方を見つけたことによる。

尺八奏者に西村虚空と言う方がいてyoutubeに演奏が二、三本ある。その演奏を水槽の側において聴く。

そうすると、狭い部屋があたかも静かな日本庭園の中にでもいるような雰囲気になってきて、更には清々しい森の中にいるような自然な音に満ち溢れてくる。

このやり方は、いろんな録音を聴いてわけがわからなくなった時、目指す方向を教えてくれる一つの重要な指標になる。

勿論自然な音と共存、共鳴し、自然を造化する事を音楽家の方向としているのは、日本だけでなく西洋も同じ。

弦楽器で言うとカザルスはこの聴き方で改めて感動したし、ヴァイオリンの名手も造花までは行かずとも自然音と共鳴する人達はいる。と言うか、名手の条件なのだから当たり前だけど。

 

時間について研究しようとしていたのが、いつの間にか尺度の実験になっているのだけど、これが面白い。

身体教育研究所の稽古法の中に同尺法と言う稽古課題があるのだけど、身体の尺度、モノの尺度が気の通り方を変える。さて、これはどう言う事なのか?と噛み砕くのに難儀する。

便利なモノは使えば良いじゃないか、と言われればそれまでで、発見が増えて来るとそのうち腑に落ちるのだろう。

実は人間が長さや時間に数学的普遍性を信じるようになったのは、ごく最近のガリレオ辺りからのようで、それまでは距離感も一日の長さも人それぞれ、或いは地域ごとの人体尺度、感度?が元になっていた。

ところが、それだとピラミッドのような巨大な建造物をどうやって測ったのかがわからない。北緯三十度ピッタリなのはどうしてなのか?ほぼ現代の地球の縮尺なのはどんな計算だったのか等、多くの謎が研究者達を捉えている。

これはとてもミステリーとしては魅力的な謎。身体尺度と地球尺度の謎で言うと、当時は当然メートル法などないわけだから、何を持って緻密な測量をし、建造を可能にしたのか?星の測量技術に我々の知らないセオリーがあったのではないか?今も真実に届かないいろいろな憶測が生まれている。

ただ尺度問題からピラミッドの意味について地味に言える事は、この建造物の役割は人体の中には無いもの、感覚の中に存在しないものだったのではないか?と言う事だろう。。

絵筆を扱うにも、楽器を扱うにも、あらゆる道具を扱う骨法とでも言うべき基本は「カイナ」手首の極め、肩の消え方にある。

このコツが、竹筒を五寸と七寸に切って持つだけでどう動かしても側胸部が降りて、腕は古典の腕になる。

基本的には着物の裄が出るのだけど、五寸と七寸で息の通った腕は、着物を着ていた時代の身体操法に欠かせない。

スマホを持つ腕が癒着だらけで、肩甲骨も動かないのとはまるっきり違うことはわかるだろう。

因みに、この息の方向は右回りと左回りの違い。楽器の持ち方を教える時に便利で、響きが広がる方向と収縮する方向がある。

身体の深さで言えば深いところでは無いけれど、この「古典の腕」は現代の腕力が筋肉を指すのと違って、腕のコツにある力を使う感覚体と言ったら良いだろうか。

我々の身体は生活や技芸と密着しているが、身体の最良な運動は過去にある。D先生曰く「身体は今を生きていない」と仰る。

骨格だけでは無く、生理的運動から感受性まで、全てを過去の先祖の記憶に頼っている機構を縦糸とすれば、生命の感応性を横糸として人間的現象が編まれていると観ても間違いではないだろう。

・・・少し言い換えてみると、この地球の産物みたいな身体と、分離性のある非物質な身体が混じり溶け合うやり方が、経験としての感覚、集注を生み続けている。

それでは同調性がどこにあるのか?と言うと物質身体と非物質身体を結びつけるところにある。それにより身体が物質では無くなる多層性を生み出している。

精神の向上とは概ね古に還ることを良しとするが、古は人類の経験してきた数だけあるのだから、この世界の構造が持つ〈経験〉との同化性を拡大することが、本来の人間的要求と言えるのかも知れない。

本来の人間的時間性からすると精神の求める身体性とは古の経験であり、今を垂直に通り抜けた「現在としての過去」と言う多層性ではないだろうか。

古来から人間は過去に馴染む事を一つの基準にしていたが、この事は実は思った以上に現代人に問題を作り出している。

例えば、腕の不具合も大抵は竹筒を二、三分握るだけでなくなってしまう。つまり、古典の身体にするだけで身体問題の大方は消えてしまうのだけど、脳梗塞で右手に麻痺の残る人ですら、持てば安定して動くようになる。

D先生は「我々が病と呼んでいるものは、単に近代の生活が古典的身体に合ってないだけだ」と仰る。

肩の痛みを抱えた人も手首の痛みがある人も、古典の腕を感じ取るだけでその異常感は無くなってしまうのだから、はたしてそれは何だったのか?と言う事になる。

だいたい現代人の「病人」の多さは異常で、歴史上こんなにも多くの病人を抱える社会は無かっただろう。彼女に振られて落ち込めば鬱病だし、血圧の正常値はどんどん狭くなり、老人の多くが薬漬けになる。

挙句には、世界の薬品の約四割を日本人が消費していると言う話しも聞く。

日本は医療を〈商業〉に数える世界でも特殊な形態の為、病人を増やさなければならない等その功罪が際立っている。

その対象となる多くの病は、医療の功罪を別にすれば衣食住の近代化、例えば尺貫法などの古典が禁じられた事も原因の一つと言える。

良い音、美味しさ、美しさ、味わい深さ、気持ち良さ、楽さ、どれもその佳い悪いの判断がおかしくなっている。つまり尺度が失われている為に不具合が生まれている。

例えば尺八を考えると、江戸時代に発語と演奏する事が一致したのだろうと推察するが、それ以前の時代では音は語る事の以前にあったのでは無いだろうか。

江戸時代に制定された尺八の奏者が「密息」についての本を書いていたのを読んでみたけど、これは実は尺八を持てば容易に出来る。

この長さの筒をある稽古場の先生が使っておられたのだけども、中心に息のラインが出来る。

ここに音を通すのは近代楽器の演奏家も同じ。

そもそも、自分の声が身体を通るなら、楽器もちゃんと鳴るのであるから、楽器が音を出しているのでは無く、身体が音を出し、楽器は声帯の役割に過ぎないと言う事があらゆる楽器に当て嵌まる。

ところが、さらに古い時代の尺八は一尺一寸一分が標準だったらしいのだけど、検索すれば正倉院に残る尺八は約40センチが九本ほど残っているとある。おそらく一尺三寸から三尺まで一寸刻みに半音下がるのが、息の世界の寸法なのでは無いか?つまり半音の感覚を長さに置き換えると一寸となるがこれは検証中。

一尺八寸の尺八は江戸時代に制定された形で、それ以前の寸法はこの時代に共有された息の世界より幅が広い。

実際の四〇センチは息の世界から逸脱する事になる微妙な長さなのだけど、馴染ませれば腰と仙骨の内観性が出てきて古い骨盤の感覚が扱えるようになってくる。

妊婦さんなどはこの長さを持っただけで子宮の中の子供の状態が観える。つまり本来の息の世界からずらすことによって、身体の同調性が働けばより深いところで忖度する。

身体感覚の世界ではズレが深さを生むのだ。

では、深さや奥の感覚に移行する働きにアンカーが打てないか?と言うことになってくると、これは既に五七七の息の抽象化で作ってあるのでそれを使う。

今回実際に五七七の息が示すのは、奥感の抽象形では無いかと言う事が証明される。

人の身体を観ていても、奥感覚の場所が欲しい時にはこの抽象形が浮かぶところを見つければ良いし、調律点のいくつかはこの形で明確になる事は確認してある。

 

我々は先ず自分の感覚を識別出来るように成らなければいけない。でないと、残された道具も作品も失っていく事になる。

現代に生まれた我々の、浅く薄い身体感覚は、世界にも類を見ない有様になっているけど、かつての名残として残っている腰腹の感覚は江戸の日本文化を世界史上稀に見る豊かさにした。

 

身体は何処にいてもいつも狂おしく数百年の昔日を懐かしく思っているもの。

こんな現世にも、時折古を想う人の心に太古の音は通り過ぎていく。

天路の旅人

 

沢木幸太郎を読むのは「深夜特急」以来だと思うのだけど、この「天路の旅人」を執筆し始めたのは沢木さん五十歳の頃からになるのかな?足掛け二十五年掛かりとある。

ベースになったのは「秘境西域8年の潜行」と言う、西川一三が戦時下の満州及び内蒙古から、日本の支配力の及ばない地を、密偵蒙古人ラマ僧として旅した記録。

中国の奥地を移動する遊牧民や商人、巡礼者に紛れ、ラマ僧に扮して未知への好奇心と、生きる為の過酷な旅を続ける中、途中から托鉢で命をつなぐ巡礼の旅へと変わり、敗戦の報を確かめる為の旅はいつしか無欲、無想を身につけていく。

他の作家で西川一三を紹介してる方もいるけど、西川さんが7年まで存命しており、沢木幸太郎がインタビューと埋もれていた生原稿を得たのは読者にとって幸せな事に思う。

その濃密な八年の西川一三像と、巡礼者を受け入れ施しを習慣とするアジア世界の人々。

時には盗賊に出会い、騙し騙されるも、バイタリティに溢れた、あのアジアのイキイキとした眼を持つ人々の懐かしい時代を描き出してゆく。

 

西川さんが扮したラマ僧ラマ教チベット密教として知られている宗教で、インド仏教と土着のボンと呼ばれる祭祀が融合したものを指す。

このボンの影響は仏教を激しいものに変えたのだけど、それはまたチベットブータンの厳しい風土そのものであり、その中で過酷な旅を続ける西川一三にも自然と自身の内からラマ僧としての生き方が芽吹いてきたのだろう。

しかし、彼の佇まいや行動はやはり日本人であり、芽吹いた宗教性もどこか禅者のような振る舞いになる。

西川さんとは事情が違うけど、当時スパイ活動は僧侶や道士に扮する事が多く、僕も陸軍中野学校卒業生が作った会にお世話になったことがある。

陸軍の密偵として機関から送り出された人達は、先ず現地に溶け込む為に寺院道院に入ることになる。その中には幸運にも修行だけで戦争を終わり、日本に道院を開いた方もいる。

映画「ビルマの竪琴」のモデルは雲昌寺前住職 中村一雄と言われているが、多くは戦地での体験から剃髪したのだろう。

しかし、祖父達がそうであったように、失われてしまった日本と共に口を閉ざし、世の中に背を向けて生と死に向き合っていく生き方を選ばざるを経なかった復員兵は他にも多くいた。

 

しかし、この本に出てくる西川一三や木村肥佐雄は銃を手にする事無く、終戦を迎える。

共に強制送還された木村肥佐雄は、その後ダライラマの兄やペマギャルポの世話をし、亜細亜大学の教授として活躍するのだが、西川一三は旅の記録を執筆する以外になんの興味も無かった。

彼らが執筆出来たのは、兵隊として人を殺さずに済んだところが大きいだろうけど、その逞しい冒険心が運命付けられていたからだろうか。

 

彼の人間らしい生活は、沢木幸太郎が手にした原稿に残る戦後日本への慟哭と共に消え去る。

その後は盛岡で商店を営む日々を送ったが、その生活は僧院にいた時のように無欲であったようだ。

帰還した日から、変わってしまった日本人の中で一人、旅を夢見る事になってしまったのだろうけど、それは沢木幸太郎も同じであったのだろう。

 

「秘境西域8年の潜行」の五年後に発刊された藤原新也の「インド放浪」をはじめ、「メメントモリ」は僕の学生時代ずっと机の上にあった。

当時は学生運動も過去のものとなり、代わりに精神世界のムーヴメントがはじまっていたし、バックパッカー達も若さに任せてはちゃめちゃな旅に出ていた。

 

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日常的非日常

身体は我々の意識しないところで、忙しなく変化し続けているし、環境や気候、場所、時間にも応じて変化しているのだから、人間同士の関係や衣食住の一つ一つに受動的な変化をするのはごく自然な事だろう。例えば、世の中的に大きな変化がある前に、身体の方が先に変わっているのも、有名な三脈法が2日以内の危険を察知すると言うのもあながち嘘ではないし、身体が時間的に先取りする事もあり得る。

他人に意思を伝えるのとは違って、感覚を「伝える」「伝わってくる」と言った経験の直接的な交換、経験に対する能動、受動の問題は現代社会が向かおうとする方向を除けば、人間の生活、生存の凡ゆる面に骨格の様な意識しない働きをしている。

昔、ある中医学の先生が針が折れた時にどうするか?と言う実演をしてくれた事がある。ある部分で針が折れたら、何秒後にここに来るから新しい針を入れて出す。と言うもの。

鍼灸の免許を持った仲間がその針を刺す役目になったのだけど、それは面白かった。

鍼灸がどんな身体世界の層に集中しているのかを体感させてもらえたし、先ず体内の針、気の流れは相当早いと言う事もわかった。

気の流れは確かに経穴で角度をもっていて、複数の点で流れを切り取って、正確な角度とタイミングにまとめ上げなくてはならない。

その技術は、実際に相手の気の流れをこちらの身体が映し取って、同時に体験するからこそ出来る。

知識では針の侵入角度までは当たらない。それに興味深いのは時間間隔で、気の流れに体格差は考慮しないのか?経絡の時間速度は一定の世界なのか?気になるとこではある。

そもそも、技術の世界が同調形式の場で行われるのは、人間の個としての部分と交流存在としての生存様素みたいなものを身体現象とするからであって、この事を対象に人間を捉える限り、整体にも昔の鍼灸にも現代医学との接点は無い。

現代医学が言うところの「治療」と言うものもあり得ない。

同調現象は親子や親しい人間の間には普通に見られるし、呼吸を合わせると言うのもそうだけど、同じ表面的な形式が同じ働きになるとは限らなくて、惹かれる異質、異形が調和に向かうもの。

しかし誰にも働いている同調が、過敏な傾向になるとこれは辛い。隣に〈あるガス〉を纏った人が座った瞬間に発疹が出るとか、他人とすれ違った瞬間に痛みや重さを感じる事もある。レジで釣り銭を貰うのも、他人の物に触れるのもあっという間に重いガスが身体に溜まるし、酷ければ出血する。

まるで世の中の多くの病人を背負ったような気分になる。おまけに背負ったモノとカズによってはキャラ変してしまうし、親族友人からも狂人扱いされて・・まぁ今もだけど笑笑・・

ところが相手が彼氏、彼女や、愛情いっぱいの親子や友人、つまり〈同化したい〉対象が相手なら過敏な傾向もキャンセルされる。

ただし影響が無いと言う意味では無いけど。

それはまだこの現象に悩む若かった自分には謎で、愛情を持つ対象には異化する反応がおこらないか、気にならないと言う事が逆に不思議だった。

過敏から鈍感になった頃、これは療術の世界なら解明されるはずと考えたのだけど、問題は人間性や文化と言った視点から観れば、同化現象の一端に過ぎない事だったと今ではわかる。

 

例えば、人間が外部に視点を置いて自分を観るつもりになる事の根本は、些細な自分の置かれた問題のある状況を全体から観る以外には、その視点を変える方法が無いからだろう。その全体を観るにはより大きな自然界のようなものから捉えた人間社会にもう一方の視点を置くか、西洋文明のような神の視点にもう一方をおくかといった選択肢が社会の合意として文明化して来た。

局処から全体性への一方的な方向性を持った視点の位置移動が外部視点、客観性は正しいと言う価値のすり替えを起こしたのだと思う。

つまり、小さな極点に集中している状況に対して大きな観点にスライドする事が、極点の集中を消してしまう。これが自由度の獲得として客観的視点の要求を生む。〈しかしこの要求は身体的な変化では無い〉

この大きな視点は例えば、Aさんが見た私はどんな人間に見えるだろう?のAさんを自然界に置きかえてると言う視点とは少し違って、実は内観的な状況とも言えるけど、そこには小さな視点に対する感覚的な識別性が無い。

自己の空間の中でAさんの客観的視点の角度、Bさんの視点の角度、Cさんの視点の角度はそれぞれ違うし距離も違う。これは空想、妄想としての反応だけど、この妄想が生まれる以前の差異は、身体のある部分でコードが繋がった様になっているところから来ていて、局所的に分類される。

これをもし全体化するなら、他者との完全な同化と言う、自己自身との同化の放棄でしか中心にはおけないし、普通は無理。

もしそこまで来れば他者と自然界の間に違いはなくなるのだから、大きな壁がある。

こうした視点の問題は宗教的には「喜」「悦」「慈」の程度問題があるだけの有り難い事になるけれど、そこには二通りあって、一つは全体化に脳の切り替えが起こり、それは全体と局処性の問題として見れば、身体現象の中でも最も精神との繋がりの強い部分では無いだろうか。

その途中過程の、言うなれば精神的な脳の欠陥的視点が「客観性」と呼ばれるものの正体だろう。

だから、外部視点の世界はマトリックスになってしまう。

 

晴哉先生は自分の身に起こる事は自分の責任だと仰る。

これはなかなか厳しい言葉だと思う。

相当な〈胆力〉が必要だ。

逆に全ては自分では無いとも言えて、この二つは相反してはいない。身と精神の中に混在して入り組んだ働きをしているから。

そこを自分の責任にしてしまうのが胆力の現象。。。

 

ともかく表面的な集注感で生きているなら、こんな事は気にならないし、それで病んでも薬を飲めば治ると思っている人が大半の世の中。

同化出来るか出来ないかは実力で、異化を穢れと呼ぶならば、祓い清めるのは並大抵の力じゃ間に合わない。

かと言って、知識、方法の捉え方、ポジションが普通の家庭で育ち、普通の教育を受け、普通に書物に触れ、普通に考えてきた人間には難しい。

体験の発見だけが、現実、現象を観る事が出来る。それは普通に一年に一度くらい起こるかもしれない事を、毎日起こる事に変えるくらい密度の濃い時間に仕立てる必要がある。

知識を組み立てるのは〈楽〉だけど、それはやっぱり苦しいからで、苦しい中に楽を見つけていく方が困難でも〈楽〉の質がまるっきり違う経験をする事を整体は教えてくれる。

そこで出会う正体不明の感覚に、稽古場の知識や経験は欠かせない。昔はその場でどうしようも無く、背負ったままで外せない事も多かったけど、今はD先生の発見で随分命拾いしている。逆にわかっている筈のものに出合っても同じものは無く、ふと気付く兆しがあればそちらを選んでいくべき世界だから正解もない。

こうなってくると、もし自分が稽古場を持っていたとしたら。どんな場を作り出すだろう?毎週3日ペースで付き合ってくれる人が三人いるとして、一年でこんな感じ、十年でこれくらい・・と妄想したりする。。

 

多分整体を一生懸命に勉強している人達の動機は腰痛や病いが治るなんて事では無く、「命に触れたい」その一点に尽きる。

それは同調の先、感応世界の向こう側にあるに違いないと思えば、確かめないと気が済まないだろう。

同調の中に入ると二重の壁がある。その壁を突き抜ければ感応世界なのだけど、そこまで行くには互いの関係や集注感、力、同調から焦点の手続きと、諸事をクリアしてトライ出来る。

かと思えば座った途端に入ってしまったり、最初から入り口が出ていたり、触れる寸前に呼吸が消えたり、細胞が分解したりと理由の分からない入り方をする事もある。

ただ言えるのは、普通に意識的努力も、精神的集注も必要とせず、何の違和感も無く同化から感応に入っていく内観に比べ、逆さまなやり方と根性で長い間トライして来た身としては、賢いやり方の方が賢い経験の積み重ねをする、と言う当たり前のアドバイスはしておきたい。(誰に?)

僕は納得した時には、疲弊しきっていたから。

(内観体が客体から離れてしまうのもまた面白いかもしれないけれど)

賢いやり方が苦手な自分が、賢いやり方を真似るようになって来ると、勿論相手もそれなりに満足するし技術とは凄いもんだと思う。

大雑把な仕事は通用しないし、だいたい感応世界に入ったとて、相手がその深さの感覚を体験するとは限らない。深さに耐えられなければ、観てもいないんだから気がつきもしない。なんかさっきまでとは違う気がする程度で意識には上らない。

でも、ある程度の体験の担保と、あわよくば感応世界の先へと願うなら、互いに勉強しなくちゃならないし、受け方を育てていかないといけない。

当たり外れが大きな以前のやり方をキャンセルして、地道に続けて内観の整理に戻ってきたのだけど、その間にも稽古場は怒涛の新展開を観せているよう。

僕はと言えば、少し進んではすぐにスタート地点に戻る何周か遅れで、それでも周りの人達に恵まれてのろのろ進んでいる。

コツを覚えると言うけれど、整体と言う形式上、見方、感じ方の導入だけでも、出来れば毎日発見し続けて、その日の身体を観察していきたい。

その中に入ればはたぶん、感応世界の「ヤバ!ヤバ!死ぬ!死ぬ!えー!ぎゃー!」みたいな寿命の縮む世界の向こう側に行った時、強烈な生命の深い世界もなんとか泳いで行けるようになってるでしょ、たぶん。。と思っている。

 

まぁそれはそれとして、例えば普通の人が整体してもらおうとやって来たとする。その人は整体は骨が真っ直ぐになれば良くなるとか、気持ちよくマッサージを受けて帰れば良いと思っているだろう。

そんな人は先ず寝る。終わった時に良くなってるし、睡眠も取れて一石二鳥と考えてるかもしれない。

しかし、残念ながら内観の世界はコンサートを聴きに行くのと同じように、演奏中眠っていて終わってよく寝たなぁじゃ《出来事は半減する》。

良い聴き手がいれば、それが一人でも演奏者は集注が深まっていくだろうけど、たった一人の観客が眠っていたなら、プログラムを消化するだけになる。

一方通行の世界はやはり貧しい。

だけど、集中の深さに意識が持続できないのだから、仕方ない部分もある。

言ってしまえば、より多くの人と身体の深い世界に入っていく為には、少しばかり努力してもらう必要がある。

僕は内観で人が観れないかと思って野口整体の世界に入ってきたし、本当の整体と言う体験を十年に一度出来るか出来ないかでいい、それも内観的集注が奇跡的に極まった時に出来るかもしれないくらいに思っていたのだけど、ただ集注し続けていた自分のやり方を変えるのに、20年近くを要した。

だから、どんな身体の見方してるんですか?整体って何してるんですか?

と聞かれても困ってしまう。体験を重ねてみるしか無いから。

その上で一生を賭ける価値があると思える人が増えれば良いなと。。