はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

続・捌ける音癒着する音

前回の続きを書こうかと思っています。

演奏者ならたぶんこう思った筈です。

「自然な音ってどうすりゃええねん!」

或いは

「自然な音なんか興味ないわい!」

何人かの人と一緒に演奏を聴いていると、相手によって聴いている音は違っていると言う事が分かります。

それはやはり、本人が自分で演奏している音の特徴を表しています。

つまり、聴けるようにしか弾けないし、皆んな聴く能力が違って、同じ音でも現実はそれぞれが違う音を聴いているのです。

それは客観的な評価が成り立たないと言う事を意味します。

最近では、コロナの三年間片耳が聴こえてない人が多かったのですが、ほとんどの人は無自覚なまま演奏したり、聴きに行ったりして、酷いことになってるなぁと思っていました。

運動と言うものは耳の運動能力も含めて、外部空間との関係で成り立つ部分があります。

整体の世界では、空間が歪む記憶は「ナンバ」に関係している事が分かるのですが、これは内部空間から観た外側、運動領域の時間的な「たわみ」と言っても良いでしょう。

この運動空間を現実に擦り合わせておかないと、音の良し悪しも分からないのです。

その客観的評価は、聴く側の身体にも現れます。

カザルスを聴いた人の背中に聴いた場所を探していくと、胸椎五番になります。

そこで、次にベンゲーロフを聴かせるとやはり胸椎五番にある。

だけど、ベンゲーロフを聴いたあと五番を観ると、脊椎一側と言うのですが、背骨の際のいつくもの細い繊維が癒着しています。

そこで再びカザルスを聴かせると、あっという間に癒着が溶けていく。

これを所謂、捌けた音、癒着する音と言っているわけです。

だけど、これは背中が「からだ」としての感覚を持っていればの話です。

背中は自分の直観や情感を無視して、合理的な精神活動で生活すると、精神を反映するものになってきます。

身体が精神世界になっている人の場合、本人がいくら上手な演奏が出来ていても、音楽に身体が反応しているわけではなく、精神状態を演奏していることになります。

その場合、リアリティーは必要無い。

最も、世の中あらゆる分野でリアルな身体を失っている、つまり自然を失っていて、それがスタンダードなのが近代と言えるでしょう。

芸術や文化のリアルは「からだ」にあるけど、精神の拡大は「からだ」を排除する方向にあるのです。

精神の探究は、身体を精神の自由に使おうとするからですが、それだと18世紀の音楽は分からなくなってきます。

 

捌けるだけなら、近代にもハシッドとか、コーガンとか何人も優れた奏者がいます。

ただ、ここでカザルスが凄いのは、前時代のアウアーのように、人気(ひとけ)が無い事、

例えば彼の演奏を聴きながら、意図的に情景を思い浮かべても、人間が空想出来ない事が分かるでしょう。

つまり、彼らは意識を演奏に介入させていない事に気がつくはずです。

例えば発音する際に一音一音「今」を分割しながら発音しますが、それは流れの中にあって自然発生になるべきもので、いちいち区切ったり流れを細かく止めるわけではありません。

むしろ一音の「今」を何分割して聴いているか?認識する意識が薄ければ薄いほど現実に追いつきます。それはビブラート時によく分かるでしょう。

〈意識は気韻より遅いのです。〉

流れがどこから、いつから来ているのかを見つけるには、過去に生まれた音は消えているのか?感じてみるのも良いでしょう。

 

胸椎五番と言っても、一側、二側、三側と集注の場所がどこにあるかで、神経系なのか?運動系なのか?内臓系なのか大雑把に分かれてきます。

だけど集注があるのはヴァイオリンの場合?三側に寄ってくる。

また、音楽に関係ない人でも演奏を聴けば三側に集注感が生まれています。

そこで三側の気の行方を追いかけます。

すると、だいたいお腹の胸椎五番と仙椎四番辺りに流れ、そこから二種類の感覚に分裂しています。そこらへんはあの手この手を考えます。邪魔なのは「私」を主張しているところで、先ずはこれを処理しますが。。。

 

去年ブログに書いて、その後下書きに戻した記事に次の文章がありました。

 

「九月半ばの夕方六時は、明かりを消した部屋に薄く夕陽と共に、虫の音が聞こえる。

その虫の音の後ろに豪徳寺の鐘の音が、ボ〜ン ボ〜ンと聴こえてくる。

その鐘の音が消えると、部屋はすーっと目の前の事物となり、私の輪郭が戻ってくる。

途端に虫の音は耳にうるさく、隣の部屋のエアコンの音も蛇口の音も大きくなって、自分の煩わしさが目の前に広がってくる。

お寺の鐘の音を誰が発明したのかは知らないけれど、夕方の鐘の音は人々の集注を惹き込み、虫の音も我が身の境と共に季節のしみじみとした響きに溶け込んでくる。

鐘が終わると、秋の夕暮れと溶け合ったような感覚は消えていき、長い月日、人々が家路に着いたであろう記憶の集積か、帰る場所もないのに、帰りたくなる感覚が我が身の哀れを感じさせる。

たぶん日本全国のどこでも、夕暮れの鐘の音にはそんな時間を作るちからがある。

 

鐘の音との合奏が虫たちの声を深いところに導いて、私と夕暮れとの境を消してくれると一日の仕事も終わりの合図。

 

うーむ、この鐘の音も整体だなぁ〜」

 

まぁ、文章の出来は置いといて、ここでは虫の音は私の外に聞こえていたのに、鐘の音が響くと、響き自体が全体の空間を形成し、個々の音も事物もその中の一部となってしまう、言わば歪形化された自然が発生している事を意味しています。

音楽も同じ事で、芸術や文化といったものは、自然に人の手を加える事で、新たな自然に、人が佳いなと感じられる世界を創出する事にあるのです。

この力を失えば、弱っちくなってしまった人々は、都市化で武装し地球を破壊していく事になっていきます。