はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

諸行無常

深い悲しみと言うしかない。
角川ソフィア文庫にて文庫化された中沢新一の「チベットの先生」 は最後にこう括られる。
「かつてこの地球上には、人間が魂の成長ということだけを人生の重大事と考えて、自分の全生命を捧げて探究をおこなっていた世界があったのです。
そのことをよく憶えている人たちがいなくなってしまう前に、ささやかながらもこういう記録を残すことができたことに、私はいい知れぬ喜びを感じています。」
現代社会を見ればこれがどれだけ重い言葉か、なんとも言い難い気持ちを背景に中沢新一さんのささやかな安心感が伝わってくる。

世界史の中で次々に消え去った精神的な伝統文化の最後の灯火がこのチベットでした。人間とは何か、知恵、心の深淵に分け入る体系、人が自由に探究する為には民族ごとの理解、伝統文化があってはじめて可能になった世界の終焉。
現代日本社会の価値観からは恐らく何の魅力も無い世界。

ダライ・ラマの自伝同様ラマ ケツン・サンポの修行時代からインドへの亡命までが語られ、そこには名前も知られていない修行僧達が登場しますが、彼等の虹の身体からもチベット密教が人間探究の頂点を極めていたことがわかります。

70年代から80年代にかけて遅れてやって来た精神世界ブームに大きな一石を投じたのが中沢さんの「虹の階梯」でした。その後ナムカイノルブ氏、永沢哲氏はじめ多数の書籍が発刊されましたが、詳しい資料の多くはまだ翻訳されておらず、欧米に大きな遅れをとっていました。
神田の古書店には仏教界の専門書もありますが、とても手が出ない値段でしたし、何より僕たちが求めたのは学問じゃなく実体験を組み合わせた自分の存在丸ごとの理解でした。

「 私はここで、ゾクチェンの重要な修行である「テクチュウ」と「トゥカル」の瞑想に打ち込んだ。「テクチュウ」では、目がみたり、耳が聞いたりするイメージや、自分の心に浮かんでくる感情や思考という形をとるイメージのすべてを「突破(テクチュウ)」して、チベットの空のように雲一つない真っ青で透明な本性を持った、裸の状態にある心に、たどり着いていくために、激しい瞑想を行う。そして、それができるようになると今度は、青空や太陽を見つめながら「跳躍(トゥカル)」の瞑想に入っていく。
それにしても何と言う鮮やかな光景だろう。あたりはおびただしい光の滴と虹の
五彩に包まれ、その中に五色の光の曼荼羅が静かにあらわれる。海の底から際限もなく泡が湧き上がってくるように、透明な空性からは、途切れる事なく光の滴が湧き上がってくるのだ。「テクチュウ」の瞑想によって、人間という生き物条件に縛られて、自分の本性を隠されていた裸の心が、ありありと体験される、その真っ只中から、今度は「トゥカル」の瞑想が空性のはらむダイナミックな運動の本性を、光の体験として、私たちの前にしめすのである。」
この一文は比喩ではなく緻密なシステムによって導かれる実際の体験の断片です。
確かにこの様な体験の前段に必要な知識と理解にも役割はあります。
ただ言葉を尽くして語られ、言葉によってその世界に導こうと試みる百の学術書は一つの体験の前に無力です。学問学術はそれだけではなんの価値もないものです。場合によっては社会的に評価されやすいだけに元の文化の発展を殺してしまいます。
しかし体験から発生する破壊的な思考を抑制することは出来ます。ここでの破壊は自分の体験、言語化を許さない心的現象についての事です。
瞑想の骨格部分を為す体験、心の本性と感情や思考を作り出す心の動きを青空と実体の無い雲のように捉えることが出来る段階で、説明は体験を破壊し始めるのです。

「先生は何年もかけて、心というものの本当の姿を探求しつくされてきた。無意識の底の底にはじまって、意識の働きの頂に至るまで、徹底的に踏破を行って、心の働きの全容を見届けてこられた。そして(心の働きの土台をなすもの)と言われる(クンシ・ナムシェ)の底を破って、限界もなくたどり着くべき底もない、存在そのもののまっただなかへ、大胆に身を翻しての跳躍を繰り返してこられた」

現代社会で心の探究というと心理学になりますが、学問的手法を捨て瞑想から直接的体験による力を得る方向も一部では発展して来ています。
これら一般社会で手にすることの出来る書籍から興味を持った多くの人達はスピリチュアル系セミナーなどのお手軽な、一般社会を逸脱しない程度の経済活動に取り込まれて終わります。
本物に出会いたいと願っていても叶う人、叶わない人がいます。
その意図によって辿り着く結果を仏教ではカルマと呼びます。この世界は「心」という宇宙の中で多くの生命の意図が絡みあっています。その無数の意図は心にオーダーが届けば現象化の方向に向かいますが、その過程で他の意図に絡み取られたり、他の意図を飲み込んだり、また裏技の儀式や契約により現象化への近道を通ったりします。それ故因の発生には行為より意識が重要になるのでしょう。
そして探究には邪魔する意図の無い社会、家族との関係は大きな力になります。
これは子供の育て方に書きましたね、、、あ、消したっけ。。

世界が殺伐として来る中、心の探究に向かう人々も生き続けるでしょう。
中沢新一さんにだから期待してしまう。
ヒマラヤに花開いた人類史の貴重な遺産によって経験した心と霊性の秘密を、様々な仕事の中から読み解けるように書き残しておいて欲しいと。
後に迷った人達がそこから心の体験を民族の寄る辺とする社会が存在したと知ることが出来る様に。
そしてその深淵に立ち寄ることの出来る、脈々と受け継がる場所がこの世界の片隅に煌き続け輪廻の旅人への指針となるように。