この世界に最初に鳴り始めた音は今も聴こえているのかも知れない。
身体の奥底の方で。
と、たまに耳を澄まして観る。
十二畳の部屋の壁から向かいの窓にいる蚊の羽音がはっきり聴こえていた頃、音楽が聴けなくなり長い間興味がなかった。。。実は。
その理由は今になって分かったけど、それでも感覚がもっと深まるなら、始まりの音も聴こえて来るんじゃないかと思ったりもする。(注 厨二病ではない)
十五年程演奏者の身体を観させてもらって、感覚的な問い掛けにちゃんと応えてくれる人が多いのは、有り難い事だった。
そこにはプロの身体と、アマチュアの身体、学生の身体があるし、学校によっても身体の傾向に違いがある事を随分前に書いた事がある。
それは集注の置き所によって変わって来る。
プロは早くからプロだし、アマチュアはずっとアマチュアで、それも集注を何処においているかの問題になるから、その集注を変えられないとアマはずっとアマのままと言う事になる。
それは学校の先生も同じ。自分が弾くことは出来ても教える為に必要な集注の仕方は別にある。
しかし、芸事は学校教育には相性が悪い。
それは学校教育が感受性を育てるようには出来ていないし、身体、感覚、意識、情緒、言語などの扱いがほとんど未開拓なせいでもある。
また、それぞれの生徒の今何が育っているかも関係なく、画一的プログラムに沿って四年で終わる事もある。
例えば教師が教える事は出来なくても、その弾いている身体を生徒が感じ取れるなら、生徒の身にはなる。
聴き方の癖、弾き方の癖、これは誰にでもあるけれど、それ以前に耳じゃなく身体で聴いている事に気づかせる必要はある。しかしこれも本人が自分の癖を乗り越えていかなければならない。
聴いている音しか弾けない事を分かるところからはじめ、生活が音楽の中に入っていく。
生徒の側とすれば、どれだけその世界にのめり込むか、集注するか。それから感受性の深さを育てているか?と言う問題になって来る。
この世界をどう感じ、経験して来たか?
どれだけ学校教育にスポイルされずに来たかと言う事が、生徒のベースになる。
例えば体癖は快感が居着いていると言う事だから、変化しないといけない。変化して様々な感覚を見つけ体験していく事が必要になる。
だけど、大抵は弾くための体を固定してどの季節も、どんな条件でも同じ身体を使おうとする。
この身体の傾向が追い詰められると、そこから解放されて次の身体、感受性に移行し感覚領域を拡張していく。
しかし学校のシステムの中では、生徒側はなかなかその余裕を持てないし、その身体と感受性に合わせた曲から追求していく訳にもいかない。
自分達が評価されて来たようにしか、他人の演奏も聴けなくなる。更にその印象(自分の癖)と自分の弾き方を一致させ、結果聴く音と弾く音の間にズレがある事に気付けなくなる。
つまり他人の評価、客観的な音しか聴こえてこないと言う事になってくる。
もう一つの問題は、時代に押し流されている自覚。
音楽の評価ポイントが、人間的であるより機械的演奏に置かれるようになったのは、産業革命以降の価値観の変化が行き着く先に行き着いた結果。
異文化に飛び乗った形の日本人が土台にすべきは、日本の音楽だったのだけど、既にそれを聴く耳を失っていたから、佳いの基準が分からなくなっていた。そこで他文化は良いものと短絡する。
でも最近の学生を観ると、とうとう新しい時代に適応する世代が現れてきたのかもしれないと思う事がある。
新しい世代は明らかに僕たちとは違う身体になっている。
教育を放棄されたゆとり世代のメリットに上手くハマった子達なのか、大谷世代と言うか、音楽教育の未来を、良い方向に持っていくかどうかは、この世代が決めるのだろう。
だけど、どんな世代でも深い人間への目線が名演を生むのは変わらない。
人間的である事と、機械的である事の問題は「録音」を発明してから始まったと考えられている。
近年「可聴域」と言う余計なものが設定され、更には気軽に配信を利用出来るようになって、ますます体験がなくなって来た。
付け合わせになっているヘッドホンの音では、脳が活性化しないと言うのも、身体に無関係な音楽の雑音化と言える。
そうした問題の根本は何かと言ったら、「音の常識」が間違っていると言うか、音楽の産業化による洗脳が為された事にある。
勿論メリットもあるけれど、そのデメリットを充分に知らないと、音楽産業は終焉を迎える運命にある。
例えば僕のところは、複数人だと施設を利用するけど、個人的なレッスンはカラオケボックスを利用する。
カラオケボックスは換気音がうるさくて、周りの音や廊下のスピーカーも賑やかだし、昼間は楽器練習に使っている人も多くて、隣りはサックス、その隣りは声楽って日もある。
今までも雑音と一緒に弾いてもらおうと、時には山の中で、時には公園で弾いてもらったこともあるけど、それは元々自然界の伴奏者が音楽家だと考えるから。
西洋音楽は神の伴奏だと言うかもしれないけど、やはり、身体で演奏するのだから自然界に属する身体を優先としなければならない。
例えば静寂の音を体験した事はあるだろう。
趣味の庭によく置いてある〈ししおどし〉は、落ちて来る水の重さで、竹が岩に打ち付けられ「カポン」と音が発せられる。
音によって、かえって庭の静寂さを感じ、楽しめるよう工夫された遊び。
静寂さは雑音が無いとこととは無関係で、余韻の響きが深ければ深いほど、雑音は溶けていく。
カラオケボックスの騒音の中でも、音の深さがノイズキャンセル現象になる事がある。
これは音について考える切り口として、面白い。
一般的なイヤホンのノイズキャンセリングは雑音と逆位相の波形をぶつけて音を相殺する。
が、これは頭の感覚が雑音だらけになって、気持ち悪い。
音を周波数としてみれば、この発想が単純に生まれて来るのもわかるけど、この数値化された性質は、数値と言う見方から音に対する観念を限定する事になっている。
前回話した眼の視点、外、中、奥はそのまま聴こえる世界にも連動していて、例えば、iPhoneである人の講義を聴きながら、その音の響きに合う金属を鳴らして倍音を発生させると、共鳴現象でiPhoneの音量は勝手に大きくなる。(あまりやると壊れます)
逆にヴァイオリンを弾きながら奥に入っていくと、雑音は中から奥に入る過程で実際小さくなる事がある。
雑音の音量に集中していてもはっきり変化していて、弾く人が浅くなればその瞬間に雑音も大きくなるし、演奏が終わった瞬間音量が上がる。
これは別にヴァイオリンに限らず、ピアノや他の楽器でも同じ。
普通に考えれば、聴く側が、弾く人の集注世界に同調して雑音を聞かなくなるからとも言えるけど、雑音に意図的に集注していても明らかに変わっている。
そうすると、弦の周波数の中に逆位相の周波数が含まれるのではないか?と考えれるかもしれない。が実際、集注の深さは周波数で表されるのか?と言うことになり、音の性質上その可能性は低い。
もう一つが集注の感覚的深さは、物理的に影響する。音量は深さによって克されるとも言えて、同化されると捉えた方が正確かも知れない。
例えば手を叩くだけにも、下手な叩き方と上手な叩き方がある。
響きの良い音が良いと感じるのは、空間的に広がる音だからで、逆にしょぼい音は響かないし、飛んでいく音に方向性がある。
つまり空間が障害として感じられるのがダメな音。
神社で柏手を打つけれど、清浄な空間は音が広がり、穢れがあると音が届かない。
穢れを祓うのは柏手を一回。空間の穢れに向け、上手に打てればそれで空間は清浄さ、空気の流れを回復する。
その時、高音は奥になっている。
逆に外の音になると、くぐもった音に聴こえて響かない。
つまり空間に障害のない深さの音は、空間を清浄にしていく、空間の性質は深さによって変わると言う事です。
これを感覚空間の位相性として観ると、一種の次元干渉とでも言えるかましれないが、この世界はそんな歪みだらけです。
(最近下北沢が有名みたいですけどw)
例えば奥の世界では、弓矢の名人が的に矢が当たってから矢を放つと言われる感覚もわかる。
兎にも角にも、晩年いつも奥の世界を観ていたギトリスのように、深い味わいのある演奏を聴きたい。
そんな演奏者が増えなければ、これからの社会で音楽は必要とされなくなる。
そんな危機感を演奏者には持ってほしい。
もし音の感覚を追求するなら、その音は世界を清浄にしていくだろうし、延々と響き続ける。
そこに入っていける集注を、皆んな追求していけるはずだから。