はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

運動考・・参(無知のメモ)

僕が自分の身体にこだわる理由は、産まれてすぐ鼻で呼吸をする事が出来なくて以来20年病院でのウンザリする治療に付き合わされ、薬の副作用に悩まされてきたからかもしれません。
結局親元を離れると同時に病院から解放されて、16の時に独学で始めた立禅を本格的にやるようになって三カ月、右足の小指の角度を変えた途端に鼻の骨の位置が変わったのが衝撃的な体験でした。
それから自分の身体は自分で治すと決めて以来三十年医者に行った事はありません。
鼻はその時から徐々に良くなって来ますが、はじめの10年で単に身体の問題ではなく人間関係や性格、人生の選択、出来事全体に大きな影響を持っている事に気がつきます。
身体の通ってきた時間の道が空間の関係性を変化させ、同じ他者の空間と混じり合いながら、また変化していく。
その身体を疎かには扱えない。
それは無意識に直感をねじ伏せる事もあるし、無意識に生活の破綻を呼び込む事もあります。身体はその無意識領域であり、身体を追求するとは、その無意識領域に於ける体験が人生全体を少しずつ変えていくことだからです。
でもこれらが予めプログラムされていたかのように見える。鼻の問題が心臓の辺りにあり、その心臓の中にある生まれつき持ってる記憶に因子を見つける。それもロゴス的知性の故か?とか考えちゃったりして。
とにかく身体と意識を考えるのに、猜疑心は不可欠ですから。

わかる人から見れば運命とか、明日何が起こるとか、この出会いが何を産むのかとか、これらはどうも数学的な連続で決まっているらしい。
つまり、この日この時間に自分の頭上西側でカラスがカーと鳴いたことは、数字に置き換える事が出来、次の出来事に繋がっているのが現実的で客観的な世界だと言うのが、科学的「証明」の行き着くところです。つまり科学哲学って預言者を目指して始まっているからその精神は神の証明だったわけですよね。
身体にもそう言う面がないわけじゃ無い。身体の不具合の原因を遡れば原因は数学的に遡って遥かな太古の時代にまで行くのに決まってます。
交通事故にあったのだって、それは必然的な事で誰かに責任なんてあるわけがない。あくまで必然である。ってのが現実の客観的側面ですね。
出会う。何かの関係が生まれると言うのは数学的な易学的な必然性があるようだけど、それをどう感じてどうして行くかはある程度自由なようです。
それらの例はいっぱいあるのですが、書くのはめんどくさいのでご自分で見つけてください。
人は結局心の底でこう言った運命に支配されたがっているのかと思います。
どこか生きている事に不安がある。生きている証明を欲しがっているから、こんな占いみたいな側面で文明をつくるんでしょうね。
そのくせ表面的には自分は自由に活動してるぜと、生きている実感を求めようとするから破天荒な人間が何となく好きだし、英雄や偉人が好きですね。
でもそれも昭和までの話かもしれませんが。
このもうすぐ終わる平成って時代は人間の時代ではなく、バブルで自信を失って人間不信になったのか、心の底にある不安と不信の時代で、お金や業績の数字だけを求め、狂ったように科学思考に依存した結果の心無い経済の時代でした。
まぁ遊びがないと言いますか、本音にある不安が剥き出しの社会では人間は経済活動のメカニズムに支配されるんですかね。
次の時代は人工知能かな。
この先ず日本人の向かう方向として分かりやすいのは知覚の問題と言う事でしょうか。

知覚と認識、意識は別に考えなければなりません。けれど通常密接な関係にある為その人が知る世界は個別化された世界の一つです。
知覚と意識の一体化を信じているのが知識ですが知識と知識は組み合わせても編集されるだけで、そこに生まれるのは概念化された「合理性」だけです。
その合理性が知覚を殺します。

「知」の為に準備されていたのが知覚と言う身体器官ですが、現代社会の生活形態では当然「知」の求めに応じて知覚は切りとられる事になります。
「シンボル」が知覚を最大限に開く方向で世界を捉えようとするのとは対照的だと言えるでしょう。
知恵というものは、言うまでもなく身体からしか生まれません。
ところが、我々はその身体である無意識な領域にある知覚と言う身体器官を抑制しながら生きています。
知覚はその身体から知恵を見出す、抑制を外す働きによるのであって、抑制した知識で見えるつもりになるのは怪しがるべき事です。つまり見たい様にしか見ない事が可能になっているからです。
目は開いても見えない者もいれば、耳があっても聞こえない人はいる。それは、脳みそがあっても無能な政治家と同じです。

知性が生まれるのは自分が何かを知る瞬間だけです。
(だから、何を書いても誰かの受け売りです。整体について書けば師の受け売りになるけど、自分の体験の範囲で理解出来る事の確認です、~こう言うのは知性なんてありません)
その自分は名前でもステータスでも男や女でもなく何ものでもありません。全くただ観察し、発見し、時間の変容を知覚している視点にすぎません。
「私」という個がいなくなりそこに世界がある時だけ、もともとの調和が見いだせます。
整体と言う技術はその直接的手順になっています。
ただしそれは相手も「私」を全体に対する個別化された自己であり、自覚的投影、習慣、記憶による要求と恐怖を持った個人的存在として全体から分離しているうちは気が付くのが難しい。
「個」を変えるのは全体を変えると言うことになります。
言ってしまえば、人類と言う種の存続の為に個人はありますからね。。


つづく でも、しばらく空きます。

教室
1月27日
いつもの時間にいつものところ