はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

フェミニズムと芸達者

社会における性の問題はとても難しい。
女性差別?(資本主義の問題)に関しての話題に犯罪行為は別にして、行き過ぎた社会的自意識は過剰な反応をおこす。
こういう複雑な問題についてこんなところに書くのはアホだけど、そう言うシーンに出くわして怒りのオーラ満載な火の粉が飛んでいるのを観るのは良い気分じゃない。

ある人が整体の本を読んで「これだから男は!!」と憤っていたのを忘れられない。
そこには男も女も感受性の偏りによって不自由になる旨、心の可動性を取り戻す事が肝心と言う様な事が書かれていた。
しかし彼女はトリツクシマモナク女性の生理的特性が身体的に男性とは違う為、心理的な面でもこんなに違う。よって互いが理解する為には譲歩が必要と言った話にスイッチが入ってしまったのだろう。
自身の性の鬱散の性問題に向けてある事の屈折現象である。
かと思いきや、社会的格差に憤る女性を見ると「だから、女はバカだと思われるのよ」と迷惑そうに醒めた目で呟く女性達がいて、側で見ている男性陣は怯えて目を合わせないようにするしかない。
個人的には大いに暴れて欲しいと思っているのだけど、しかし、性の問題は危険で、社会的な制裁に男性は必要以上に怯える。
それによって社会全体が完全崩壊するのは良しとしても、若い男性にそういう部分を見せないでいて欲しいと控えめに申し上げたき次第、出来れば冷静に受け止めて頂けるとありがたいのである。

男女平等を考えるのなら、無論女性が活躍しなくてはいけない社会に向けられるのではなく、「生き生きした活力」を持てる社会について考えるほうが有益な事。
医療費問題や老老介護、各種遺伝子操作、格差社会、教育に至るまで幅広い問題の核にあるものとして掘り下げてみなくてはならない。
雇用機会均等法ですら企業側の反応によって、多くの昭和的家族を葬ったが、それは性と言う生命活動全般の根源が、社会集団の形成において何を引き換えにしたのかと言うもっと深い問題でもあった。
表面的に見れば、女性に有利な学力社会を勝ち上がると、男性が作った会社社会が待っていて、男性と同じ事をしろと言われ、出来なければ女性だからと言われる。
反乱を起こすならそこにある縛りを断ち切らなくちゃいけない。
この縛りがなんなのか全く分かってない。
問題に対する「反応」としての心理的側面について言えば、心理的問題であるが故に本当の不満は、当人が怒りを演じているそこに核心はない。

家庭と言う小さな集団の中で見てみると、大抵、妻が計算出来れば旦那さんは尻に敷かれている。あるいは強そうな旦那が妻に弱いのは芸能界を見てもわかるが、皆幸せそうだ。
こうした相性もあるから世間は無事平穏に来たのだけど、最近は男性側のタイプが極端に偏って来ているのが気がかりだ。
社会を見ればそれこそ、昔の鎌倉や室町あたりで、女性だけの荘園つまり国があったり、政治的な権力を実質的に女性達が握っていた時代の特色を考えてみると面白い。
その時代女性の権力を支えたのは「家の存続」という概念であり、先祖と子孫を繋ぐ「今」に社会的な価値をおいていたので、当然女性が産み育てる子供の重要性が、現在とははるかに違うアイデンティティを持っていた。
そこには男性達と同じ様に身分格差も生じるが、男女の格差という点では賢く処理がなされる。
マッチョなプロレスラータイプの社会を手懐ける、北斗晶な地位をもつ女性達なのだ。・・ちょっと違う?
そう言えば維新政府を支え人脈を操っていたのも鹿鳴館大山捨松じゃないですか。それから津田梅子も面白い。女性には女性の格差に対する「戦略や活かし方」があるのでしょう。
そうでないと社会全体を取り替えない限り現在の問題も変わらない。
こんな議論はいくらしても終わらないし、千の法律を作っても、最後には男女とも去勢された遺伝子と人工受精社会に行き着くだけなので、終わりにしたい。

整体協会などは八割が女性ではないかと思うけど、感受性面で叶わないなあと思う面が多々ある。
たまに物凄い知性だと感じる女性がいて、話してみると、大抵学校教育にスポイルされていない。
彼女達は自分の感性を深める事で、知性を積み増しているのだから、初めから知性のありかを知っていて中高生の頃には老成した世界観を持っている。
何より生き生きと自分の能力を発揮しているのが素晴らしい。

整体協会に馴染みのある画家中川一政は「死んだ絵はダメだ、生き生きしていれば画面は汚くてもいいのだ」と言うような事を書き残しているが、これを「気韻生動」と言う。
ついでに中川一政の絵について言うと、「芸術は爆発だ!!」的な全面運動性に溢れた生命力がありながら、様々な空間を含んでいる。
最晩年の薔薇の絵などは、鑑賞する側との自分を観る目の勝負!って感じで、最後は「これが明治人か!」と感じさせる深く強い芯にまとまっていく。

昔日の文化的時代では性の格差なんて問題にもならなくて、「佳い」ものは佳いと評価されてきた。
室町から始まる芸の世界には本来性差がない。だから女形や舞があるのかもしれないが、そんな世界は基本的に「男」の文化「女」の文化と言う議論自体が馬鹿馬鹿しくて、佳いものは佳いで終わりなのだ。

本来の芸の世界は、性以前のもっと根源的な世界にある。
意識や精神の身体現象が生じる以前から生まれてくるもので、鈴木大拙に影響を受けたジョン・ケージが自然の音を追究しようとしたのも、この根源への直感によるものではなかろうかと思う。

先日の事もそもそも表現の形式において、性が見え隠れするのは芸の世界に入っていなかったのだと改めて実感させられる演奏だったけれど、整体でも古典芸能の世界でも性差を消すことを「型に入る」と言う。
男の入り方、女の入り方に多少の技はあるかもしれないが、完全に集中している世界へと入っている状態は縁起を調和させる方向が誘われる。無意識、無自覚のゾーンに入っているような「極平凡」な体験。
本来なら「能」の世界で自覚的に芸とされてきた「自然」もそこにあるのだろう。

芸術に必要なものは何だろうと考えた時、たまに「いいなぁ~~」と思える演奏がある。それらは大抵、戦争で国や故郷を失ったり、大事な人や家族を早くに失った人達、あるいは全部の録音がいいわけじゃないけど、視覚を失った辻井伸行だったりする。
大観や中川一政も戦争を知る世代。
バルトークフルトヴェングラーにしてもギトリスやグールド、ラフマニノフにしても戦争を経験した名手は多い。
一度戦争で国を焼かれ人を失うと元には戻らない。
そこには失われたものへの集中がある。
大切なものが消えてしまう。
それは体感する自分自身が消えてしまうことを現す。
失われるということ、芸術、芸能の生まれ出る子宮のようなものかもしれない。
ウェブ社会になって昭和は失われたし、昭和になって明治は消えた。明治になって日本は消えたし、弥生になって縄文は消えた。
大事な人や場所を失って情緒は生まれる。
故郷を失ったジプシーの音楽はヨーロッパに広まり、国を失った黒人音楽はアメリカを虜にした。

まさしく「気韻生動」を術として。

失われたものへの追憶が、奪った者を虜にする。
集中の世界に入る事は、失われた時間の世界に入る事でもある。
それはそのまま身体の機構から映し出されたものだ。

「死」と言うのは何なのか?
芸術芸能で「死」は性の向こう側にある。
現実は性が死に逝く人生時間を先導する。
中川さんに「画の見方」と言う名文がある。
「・・・人というのものは其人の心の深さだけしか見ることができません。深い心の作品を見るにも自分の程度だけしかわかりません。いつ迄見ていても良い絵というのは、自分の心が成長して行ってもまだ奥底のわからぬ絵のことです。自分にとけぬ謎のある絵です・・・」
わかるところから見始めて、考えないで見ることだと言う。
感じるものはある。でもそれは自分の成長、自分自身に向き合ってきた深さによっておこってくる事で、それが作品に追いついているかは別の話。
分からぬものは魅力となる。
其人の心の深さが、「死」と向き合う事で形成される面があるけれど、最近若者死因は自殺が一番多いとか。
本人が死ぬのは、周りに自分の死へ向き合って欲しい要求がある。
自身が向き合うのではなくて、他者に向き合う事を要求する。
子供は誰でもそうでないと生きてはいけない。過剰な性の発育過程にある表裏の現象。
こちらは「性」の過剰な表現で誰もが通る思春期の身体の問題だ。
性が枯れて自死に向かうのはそれではない。
心の深さは、その性を失い、自分の大切なものへの喪失、死への深い理性が働いて練り上げられるものだろう。

去年お世話になった人が亡くなる際、病院で付き添わせてもらった。
亡くなる前日、鳩尾が緊張してしばらくすると、頭に上がってユラッと影が抜けていく。心臓が止まったのはその一日後の事。
しかし、心臓と言う臓器の一つが止まっただけで、体はこの時点で死んだのか、一日前に死んだのか未だ死んでいないのか?
身体にとっての死は、いつも考えれば考えるほど「身体」の実在と思い込んでいる輪郭を朧にさせる。
そして実存が消えた時に動き出すものがある。
絵を見た時に、目を閉じると動き出す。
音楽を聴いた後に動き出す。
大切なものを失った時に動き出す。
人が死んだ時に動き出す。
望みは忘れた時、叶った時に動き出す。

世界は消えてきたものによって動いている。
日本の文化はその先、言葉にならない世界との同化で形成されてきた。
そういえば、色気や粋な男女は何処に行ったのだろう・・・


と言うわけで?男女平等。には技がいる。文化の成熟がないと男女平等の意味すらわからないのだ。


追記
楽譜は絵の様に観るものらしい。
見た時に身体の中にあるものだと言うのはわかる。
それで、何人かに絵と楽譜でやってもらうと、身体で読む子は初めての楽譜を読みながらその先の展開まで運動で読める。
絵をみるとかなりダイナミックに運動する。
K先生にも本人に気付かれずに試して見たら、流石に綺麗な運動の中に入る。
そのうちAIが作曲とかしちゃう時代が来るだろう。
その時生きた楽譜か死んだ楽譜か判別できない様だと困ると思う。
その頃作曲がなんなのか誰も分からなくなっているだろう。
「死」の音楽の世界はごめんだ。