はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

音感以前・精神の人類その2

知性とエソテリックの比重は様々な形で民族カラーに合わせて溶け込んで来たけど、知性の前提は意識が個々に制約される不自由さを望み、社会的秩序が必要だから作られているのだから、リミッターが解除されると前提は無効になった世界が現れる。

こうなると宗教もイデオロギーも必要ない。

それが上下型傾向の希求するものではないだろうか?

確かにヨーロッパの理性は絶対的な知性へと向かって秩序の正当性を前提にし、自然は無秩序で人間の理性は自然に対しても責任?があるかのように思考している。

それは知性の制約、言語の万能感の中で許された自由に過ぎないのだけど。

この活動が芸術の足枷となって西洋美術や音楽を作ってきた。

これは否定的な意味ではなく、型枠なのだと考える。

 

門外漢が一応メチャクチャザックリ書いてみる。

西洋芸術の各時代背景をある程度考えるなら時系列の教科書的勉強じゃなくて、民族とか自己というものをどう解釈してきたのかと言う問題になるだろう。

西洋哲学について中学生の時に最初に買ったのが、ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」で次が「内的時間意識の現象学」だったから、なんだこれなら道教思想や、インド哲学でいいじゃないかと、その時夢中になっていた気功の実践的なプラクティスが優位であるように短絡的に考えてしまった。認識能力を上げないで理屈をこねても仕方ないと考えていた。

けれど実際はニーチェの前にドイツ観念論崩壊後のショーペンバウアーはヨーロッパの歴史的人間像を否定し、仏教の方がマシだと言っている。もっとも「意志と表象としての世界」を30才で発表するくらいだから、西洋の思想家はみんな若いからかもしれない。


西洋の古典と現代について考えるなら僕の興味はシュタイナーやヴィトゲンシュタイン、ジョルジュバタイユから、キワモノのアーサーガーダムやウスペンスキー、などの変態的知覚と伝統的プラクティスの関係の互換性について考えるくらいで、西洋思想史をいちいち読み直して説明し、何故キワモノが出てくるのか?ここに書くのもやってはみたいけど、暇がない。


西洋の精神遍歴は日本人から見れば、全く別世界になる。

17世紀啓蒙思想の勃興する時代、人間や生命にそぐわない科学の合理的見方に当然危機感を感じていた芸術、宗教文化が、人間の力を最大限に表現しようとするバロックの集大成と言われるバッハを世に出した。

バロック芸術の遺伝子はルネサンス人文主義ギリシア音楽の復興を受け継ぎ、「もの」の精神、空間的な処理の仕方に王権を象徴するような多用と対比、荘厳さの演出に傾注する。

が、勿論ギリシャ神話の影響は大きい。

紀元前15世紀と言われる古代地中海世界におけるギリシャ神話の構造の上にローマが作られたことが土台になる事も含めて、ユダヤ教キリスト教ミトラ教、善と悪を広めたゾロアスター教などの思想上芽生えた観念について考えておかないといけない。

バロック時代の啓蒙思想が科学的な見方をする土台は神との契約だったのだから、王権と神はここで分離し始め、迷子になった市民の意識を巡る観念の形成から思想文学は複雑で異常な社会的情熱の社会構造改革、革命、戦争の時代に向かう。

これは世界の音楽史の中に観るならかなりマイノリティな特徴をクラシックに与えた。


高校生になった頃、「内的時間意識の現象学」を読んで見ようとしたけれど、勿論そんなもの時代背景も分からず読めるはずもない。

実際時間自体は単純だ。二次元のベクトルに意識行為のピンを打ち込んで、ベクトルの角度を変えられる主観的な時間と、惑星の運動による客観的時間を元に認識している。

フッサール間主観性を中心に現象学を思索するのだが、面倒なのは西洋の観念哲学が流れを追って見ないと、どうしてこの時代にこの思想家が出てきたかが分からないところだろう。

正月に松岡正剛の「観念と革命」を買ってパラパラとめくりながら、やっぱりドイツ思想史の重心ヘーゲルは読むべきか・・と思ったんだけど、何故か僕はヘーゲルが生理的にダメで、ページをめくる以前にヘーゲルの名前だけで吐き気がする。

我慢していろんな人の書評や引用を読んでも、読めないことはないし、多分読めれば分からないこともないと思うんだけど。。それでかえって精神現象と言う言葉に向かって捻れた部分はある。


と思っていたら、本当に脳梗塞になりかけて被りを取るだけで休みが終わってしまった。


その話はいいとして、ベートーベンもシューマンもリストも、ワーグナーマーラーも、思想と戦争の地政学的な激流の中で生まれた。

その思想は自民族文化中心に砦の中の主義、思想を喧々諤々しながら人間とは何かを哲学する。


古典的な形式が失われたのは、ウィーン会議が開かれた1815年からドイツ三月革命の30年余りの間と言われている。

ショーペンバウアーのせいかも知れないけど、ここでドイツの精神文化は瓦解し、宗教文化は力を失う。

このポップな時代にリストの超絶技巧が喜ばれ、文化の実体は過去へと置き去りにされた。

懐旧とプロパガンダ、借り物と愚直、流行が渦巻いた時代だったそうである。

この空気は日本人の元禄時代、明治、昭和初期に通じ、浅田次郎の「縁切り松」シリーズを思わせるような同情し易さがある。


この僅かな期間が西洋のイメージ全ての中身に当たる学生は多いかもしれないが、その時代、人々が何に疲れ、どんな思想を手放し、どんな言葉が流行ったのか?当時の人々にとってナポレオンはどう映っていたのか?マルクスは何故ドイツ人をやめたのか?

そこから他の時代の叙事詩を推考することは出来るかもしれない。


我々は生き残るために意識、無意識の双方で知覚したものを区別し、断片を縫い合わせ、知覚自体のフィールドを狭めようとする。

この為観察と理解を別にしながら、観察を深めることで世界との繋がりの原始的な起こり始めの場所に立つことが存在する事を観る、知覚を広げることになる。

というのが、意識以前の知覚から意識の在り方を見直すネイティブ世界の基本的な考え方なのだけど、西洋文明はそれらと一線を画していて、通常の成長の時間軸に付きまとう宿命的ペシミズムを主題として、共感から始まる芸術を作ってきた。

その一方では観念の選択肢を広げる学の在り方を追求してきたように見える西洋社会は、社会や人間に対する欠如を補おうとしながら、現実の革命には失敗してきた。

社会は間引きが必要な歴史を乗り越えてはいなかったから、歴史の断絶の度に地滑りが起こり、その連続が叙事詩を紡ぐ。


これらを大脳型の世界と言ってしまうのは簡単だけど、この中では意識の使い方と言うことに言明しているものがない。

技術やプラクティスにしていないのが問題たから「人々は西洋だろうが東洋だろうが、深く思索することなく、すぐに聖遺物に欲望の願掛けをする」とバウアーに言われてしまう。


ネイティブの伝統では「主観的な知覚と観ることが現実に及ぼす影響」の間にある〈繋がり〉を意識すると言う使い方、これだけが意識の使い方として重要で、この技術の深め方と、〈繋がりの意識〉による現実の共同創造者としての在り方により、ペシミスティックで有害な意識の場所を離れる責任があるとまで言い切る。


分かりやすいとこで言えば、こうした互いを現実の共同創造者と見定めた考え方の世界には、戦争やテロのような幼稚な行為は起こらない。

 

続きます。

 

追伸

バッハについては最近ちくま文庫から「マタイ受難曲」が発刊されていて、まだ読んでないけど、作曲の際に当時のバッハが参考にしていた資料などからイエスの受難をどう捉えていたかなどの研究がとても興味深い。

1.2世紀のグノーシス主義に入れられる福音書もあるけど、当時の世界観は17.8世紀にはもうかなり異端になっている。

けれど、グノーシスの内容が当時の世界観の一部を形成して、その後の神秘主義思想に細々と残ってきたことから想像するのは面白い。

次回そこら辺も・・