はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

運動考・・その弐

野口整体の世界は、身体現象を徹底して炙り出そうとしますが、その実際は身体の一つ一つのキーワードが、経験を重ねるとまた、違う角度からまるで別の姿を持っていた事に気づかされる連続です。それも何年もかかるタイムスパンで一つとか…

その点は一般社会で通用するカイロやマッサージなどの身体観ならば、技術、知識の習得、あとは年季の積み重ねでスタート出来ます。
それでも、そのうち不思議な事に、身体を相手にするのは知識や技術が結果を出すんじゃないんだと言う事を思い知ります。
面白いところですが、最初は体力があれば結構、思った以上の効果が上がるものなのです。
でもそれは何かの技術を振るったからじゃないんじゃないかと分かり始めた頃には身体にいろいろと溜まっています。
よく町にマッサージ屋さんができると始めは元気な顔で呼び込みをしていますが、一カ月もすると黒い顔で立っていて、一年もしないうちになくなってしまうのがそれです。

人の身体に触れると言うのは、「身体」が複雑で互いに向き合っているものの何か知れないところから始まります。

身体の今は何を自覚しているのか、何の状態にあるのかわからない。

互いに出会っているところだけが信用できる身体で、それすら変化しています。

自我は安定した身体を保持してくれるものではなく、99パーセントは不安定なもので、僅かな不変部分が個性の存在を支えているようなものです。
例えばこのブログだって、仕事の合間に書きますが、同調した影響がよく出ます。だから、次に読んだ時には何でこんなものをアップしたのかわからない。
奇跡的に上手く書けたと思ったら、無意識に消してしまう。

そうした不安定が生きて活動していることでもあります。

問題は響きのこもった場所、生きている事に参加しないような不変な、ある意味安定したところです。

音楽であれば演奏する一曲の中に必ずこの音があります。

この音をどう扱うかが曲になるかならないか、どんな曲の印象を与えるかのポイントになります。

これは支えとか中心とか、そんな安易な概念ではないでしょう。

先日僕の作ったヴァイオリンの肩当てを渡した子が、次の日「牙を抜かれたようだ…」と言う感想を送ってくれました。
どんな状況か想像して笑ってしまいましたが、人ごとではありません。
肩当てがうまくハマると我の能動性を消してくれます。我が消えてくれれば、こもった音は響かない場所として受動的感覚の中で工夫し、追究することがはじまります。

相手を感じる心も芸術の美を感じる心も同じ受動の心、識別する自分がいない心です。

その曲を美しくしようとする努力、上手に演奏しようとする努力に芸術を生み出す演奏はありません。
曲を芸術として心に受けとめること、美を感じる心の全身体化することを求めなくてはなりません。

感じるということは、対象との分離がない全面的体験で、見て美しい体験は、見たもの全てが美しい。
それは何かの隙間から生まれてくる瞬間、観ている知覚、聴いている知覚の純粋になる。

この心を臨機応変に見つけ出せる事が出来ないかが僕の課題でもありますが。


つづく