はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

運動考・・その弐と参の間(願望問題)追記

「場」を作る
例えば僕が会うインドの人達は精神性に偏っているけど、今や一般的なインド人像は優秀なエンジニアやビジネスマンだろう。彼等は極端に精神性と物質科学に思考が分かれている。
文化の違いということはあるのだろうけれど、どちらにしても上丹田中心でそこから始まる体系を得意にしている。
その彼等の文化的特徴はIT社会と相性がよく、いまだに階級意識が強い。これは相補する特徴だろう。
とにかくなんでも極端で聖と俗、富と賤、生と死がゴッチャになってシンプル。ルールの無駄を嫌う癖にルーズ。
国土が広い為インフラが整備されないのもあって、ラーマーヤナの時代かよって場所に開いた口が塞がらない程近代的な空港があったりする。
全世界がインド人化すれば面白い。

ミュージック・ビデオなんかの逞しい女性を見るとまだまだインド人はバイタリティに溢れてる。

一方で精神性の方は極端な意識の極致で、変容したり、形成される完全意識の世界。意識を変容させる為の身体技術、身体の雑音を取り除く方法にベトナム戦争以後の世界が注目した。
あれだけ大規模に一つのエクササイズへ向けて世界中の人間が集まるのは異例の事だろう。
僕がはじめてインドを見たのは約三十年も前になるけれど、街は変わってもあのバイタリティは変わらない。インドは生活空間を洗練する事とは無縁な世界で、行き当たりばったり、国民みんなB型捻れで、昨日の意見は今日は違う。
生き神様があちこちにいて、寺院も祠も乱立し、人々はすぐに神に自分を投げ出して運命に身をまかせる。
だからか、奇跡の数もお伽話並みに多い。
その奇跡が起こるメカニズムまでヨガの中に定型化されている。もっともほとんどの人は、先を争って拝み倒すだけみたいだけど。

意識問題では昔から願望を叶える法則とか、幸運を引き寄せる技術みたいなものが大衆受けしていたけれど、ちょいと考えると、これはおかしな話ですよね。
願望は叶ってしまうから問題なんでしょ?
今の自分は願望の叶った結果ですよ?
大抵こう言われると???って反応をするんだけど、「じゃあ一点の曇りもなく貴女の理想とする自分の姿を思い描いてきましたか?」というと、やはり今の自分を想定してきたわけでしょ。
アバウトな想定の範囲内にいますよね。
幸せで願望通りの自分を想像するのはとても難しいですね。
だいたいそれを本当に望んでいるかというと潜在意識までクリアなのか見ないとならない。
どう育てられ、どんな反応をしてきたかを見ないといけない。
何かのパフォーマンスを行うならば、その身体と精神性を想像出来ないとならないし、他のどんな願望よりもそれが第一か確認しないとならない。
そしたらね、願望は叶っちゃうから問題なんでしょ。

ただただ何か練習すれば上手になるわけじゃない。
勉強すれば賢い人になるわけじゃない。
良い人ならば幸せになるわけじゃない。
意識する前に実現しちゃうから困るんです。
現実は細部まで意識出来るところを優先しているようです。

もう一つは一人一人の願望が社会を形成するのだとしたら、その社会が理想的なものとなるような自分のあるべき姿を誰が想像出来るのか?
個々の潜在的な多様性が一つの有機体の様になってる社会の中で、自分の自分に対する意思決定がどこまで反映されるのか?
個々の多様性は歴史の中で背負わされた経緯もあるでしょう。
だから今の貴女が貴女であるのは貴女の責任ではないし、あの人が貴女にとって悪人であるのは、あの人の責任ではない。

こうした意識の膠着した部分は皆んなが持っています。

しかし逆に自由もある。
自己が消えた時の調和です。
と言うか、本当のところは今の自分が抱えている状況の中に、本心から望むものは既に用意されていますよね。

丹田は勿論生理学的には存在しません。
位置的には脳下垂体の前辺り。
ヨーガの「身体は意識が支配する」と言う考えは、意識に従属する身体像で、複数の意識層に付随する身体が、それぞれに存在する。
この唯意論のような考えは、中国の神仙道も同じで、今のITの元に易学の数理が応用されているように、どちらも世界を客観的にバーチャルなものと考え、体系化され、体験するように作られている。
ITはその意味で外部化された意識で、それが昨今の浅薄なポピュリズムを生んだなら、我々の意識とはその程度のものだと認めなきゃならない。



つづく


追記
人は生まれてくる時にいくつもの香りとして生まれる。
その香りをどんな音にしようと、どんな枠をはめようと、イメージ化していこうとも、その香りは変わらず、その香りを良い香りに感じさせる事に生きていく方向性がある。
互いの香りを、良い香りと感じられるような混じりあいかたにする場を作って来たのが、室町時代から江戸にかけて花開いた日本文化だったのだと思う。

明治はそれを粉々にしたが、咲いた花はいつかは枯れると言うことか。

日本文化はなるほど、戦乱に幻滅した庶民から公家衆の中に生まれた。
敗戦後の日本にはそれがない。エコノミックアニマルを生んだだけで、それは国家の主権の為の動機を含んでいた。

それは決して良い香りの混じる場を作ろうとするものではなかっただろう。
文化は国家や戦乱に幻滅した個人から、個人へと向けて生まれてくるものだから。

今のこの国の香りは嗅ぐに耐えないと言い残して一人の評論家が死んだ。その死には多くの意味で悲しみを感じる。

昔も今も意識が身体を御するまでの知性は、国家の前では自死するものなのか。