はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

運動考・・弐と参の間の弐

自然の領域や不可知な領域に意識が踏み込むことと、身体を意識が支配することは逆に意識外の領域からの反動を強める事になる。
身体に埋蔵されている世界との接点を掘り起こす作業を身体を対象にして練り上げて行かないと、必ずインスタントな方法で刹那の感情体験に向かう。
必要なものは、身体観とその思想の深みの追求が、意識外の世界を含めた立ち位置を確保させる事だろう。
意識や感情を因果で読む事は出来るし、方法はいくらでも作れるだろうけど、縁起を知る事は出来ない。つまり自然が失われてしまう。
因果の辺、ロゴスだけの世界で遊ぶことが出来るのは、リアルな生活感が薄れているからで、文化が失われた証拠でもある。

例えば、空海密教がその発生したインドで直ぐに失われ、不空が中国に伝えた直後に消え、日本に渡って普遍的な意識の世界観を作りあげながらも一宗派に終わったのは、人間世界のやはり一部分を説明したものに過ぎなかったからだろう。イメージ的にはプラクティカルすぎる。現代的なセミナー系にも繋がる。
困った事に(感情解放スピ系ワークの中には注意して欲しいものがある)意識の世界で最近だとエネルギーワークと言うのが盛んだけど、これは手軽にその気にする手法自体が沢山開発されて来た。
仏教界でも僧侶向けにセミナーが開催されている。自分達のやっている事に別の角度からアプローチして檀家の悩みを解決することが出来ると喜ばれているようだけど、なんでも対症療法でインスタントに解決した気になるのは本質を見失うだろう。
いったい、悩みや病とはなんなのか?
それは創造の一部であって、文化を形成するエネルギーではなかったか。
昔はインドでもアーユルヴェーダがあり、チベットにはチベット医学があり、中国には中医学の身体思想がしっかりあった。その土壌の上に意識の技術がバランスをとっていたことを、考えないといけないと思う。

つづく