はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

個の生存 と 種の存続

正月に実家に帰ると母親がぎっくり腰をやっていた。
忙しい年の瀬に動けなくなった母親に参っていた父親は「待ってました!」とばかりに、「お母さんを整体してくれ。」と言う。
「いつも通っている整体指導者のところに行ったのか?」と聞くと「1度行った。」と言う。
それがどうもご不満のようで、「去年亡くなった指導者ならば一度で歩いて帰れたのに、今度のはダメだ!」と言う。
おいおい。。。
とりあえず「(彼は)腹を押さえただろう?」
そう聞くと、「そうだお腹をやった。」と言う。
通常整体のセオリーでは、ギックリをやって一週間以内に腰を触る事は無い。
腰自体が壊れるのは稀で、腹部の硬直から来ているか、頭の問題が多いから、腰から手をつけると悪化しかねない。
しかも話を聞くと母親のぎっくり腰は何度も繰り返している。
これは前の先生が簡単に治してしまったからだ。
自分で治したという自覚がないと腰痛は繰り返す。
「治せ治せ」と言う父親に、「半年もほっとけば治る。」と答えてみたものの正月中恨めし気でいられるのも鬱陶しいので、大晦日と正月の二度整体してみる。
見たところ手を付けれるのは右足の指の間だけ。つまり排泄の鈍りから来ている。
これで腹部の痛みは取れ、腰の1点だけ痛みが残っている。
父親はもう一度やれ、と言うのだがそれは、「わしが困るから痛みを取れ。」という意味なのは明白。
(正月なのに酒も飲めないじゃないかブツブツ←本音)
「たまには自分が家事をしろ。」と父親には言って無視することにする。

二週間程して、そろそろか?と思い電話すると「やっと治った」ですと!

待つと言う事は大事な事で、今の人はなんでも早い事が良いことだと思っている。
病から自分の身体が回復していく過程や、大きな打撲が、毎年違う形で身体に影響を与えるのを見れば、もうその打撲は自分の人生だって事が分かるだろうに。

そうなると今の医療に於ける治癒系がサービスに主眼を置く症状への不満を抑える為のものならちょっと立ち止まって考える必要があると思う。

そもそも生存における「病」とはなんなのよ?

例えば、そろそろインフルエンザの予防接種が始まるが、予防接種を受けても受けなくてもインフルエンザに罹る人は罹る。
人間の身体は長い歴史の中で、様々な病に感染しては抗体を作り、次の世代に伝えて来たし、生活環境に適応する強さを求めて来た。ウィルス自体、生物と非生物の中間的存在だけど、我々の遺伝子もほとんどそうしたウィルスで出来ているのだから、もしかしたら抗体反応の適応要求のようなものがウィルスを呼び込んでいるのかもしれない。だとすれば予防接種のある限りインフルエンザが強くなり変異し続けるのも頷ける。

種の存続の為に死や病が必要なら、個体がその為に苦しみ、また個の苦しみから逃れたくなるのは何故なのか?
その必要性と個人の苦しいという反応、不必要と思う感情との溝について考えても仕方ないのだろうか?

例えば最近になって魚も痛覚を持っているということが分かってきた。
痛覚がないと当然それが害になるものなのか、生存を脅かすものなのかの判断がつかない。
この前みんなで話していた時に、LUPISIAのお茶は何故渋くない?と話題があったけど、植物が渋かったり、苦かったり、熟さないうちは固くて食べれないのは害虫から身を守ったり、種が成熟する前に動物に食べられてしまったりしないようにという種の存続のための選択。しかし動物側に苦いとか、渋くてまずいという苦痛が無ければ意味がない選択になる。
苦痛にも色々あって、人間には肉体的痛覚や痒みの他に、意識上の わからない という苦しみ、食べれない、負けたくない、わかってもらえない等々自己保存に関わっている感情は多い。

これは精神世界のから身体記憶の問題を紐解かなきゃならない。
ただし理解したいなら、って話だけど。
ついては、長いので別の機会に。

今回はちょいとお遊びで考えてみる。
自己保存の人類の夢と言えば不老不死になるのだろうか?
苦しみが無くなることは不老不死とイコールなのか。
例えば癌細胞はテロメア再生を活性化させた不老不死という事になっているけど、自分が肝臓の細胞なのか肺の細胞なのか見失って増殖し続ける。個の病や死を否定する事は細胞レベルでも個体の秩序を崩壊させる象徴のようだ。
その癌細胞が抗生物質の濫用で招き寄せられるものでもあるなら、基盤にある体内外の莫大な数のウィルスや細菌、寄生虫等との共生関係を否定した末の、生命維持の過剰適応かもしれない。
あるいは人類の個体数維持の為とか、遺伝のバグが多くなった為とか。
何れにしても病が共生関係への働きかけなら、否定しないで適応し直すのを待つ「体力」が大切になる。
しかしこの「体力」自体を解明する学問は無いようだ。単純に筋力でも無いし持久力でもない。病に対する強さなら老人の方が免疫はあるし、集中力だって体力だから自己修復能力だけでもない。
構造分析の対象になる明確なメカニズムがありそうで無い。
身体を生かしている重要な要素が解剖しても、遺伝子を解析しても何処にも見当たらない。それどころか、共生の複雑なシステムに知性が参入する事は今の科学が一万年発展し続けても不可能だ。

生物学がヒトゲノム計画の幻想を打ち砕かれて、人間は機械じゃないと認識したことでちょっと面白くなって来たのに、アメリカでは兵士の脳を司令部のシステムと繋げるようなサイボーグ計画が進んでいるのだから呆れる。
人類はまだ自分達がどうやって発生し、何故生きているのかも知らないのに、僅かな知識だけをコントロールしようとする欲望に勝てない。

例えば先週「ドクターG」?とか言う番組(名医?が出題する患者の症状を研修医三人が当てると言うクイズ番組)を久しぶりに見ていたら、再現VTRで先ず腰痛を訴えた患者がやってきます。
触診すると肩甲骨左下が痛い。筋膜に生理食塩水を入れても痛みは取れません。患者は三日前に発症し前日釣りにいきました。最後のヒントは左肩上げれば楽になります。
さてなんでしょう?


答えは頚椎ヘルニア。

はい神経ブロック注射しました。
おわり。です。
サイボーグか!!

いやいやなんで頚椎ヘルニアになったの?え?麻酔で終わりなん?大丈夫か!
この番組何回か見ているけど、他の健康番組があなたも何々病かもしれませんよーと不安を煽るのに比べて、良心的ではある。

例えば、昨日来た友人Aさんは暇を持て余し、いつもあちこちが痛いと言っている。「膝の外が痛い!脇腹が痛い!」ほっとくわけにもいかないから、膝に触ってみる。
直ぐに頭の鬱血だと分かるから、「ほんじゃ、パソコンゲーム止めるならとったげる。」
と言ってみる。

まともな人なら直ぐに病院へ行き検査をしてもらうだろう。
医師には歳ですからとか、痩せましょうとか言われて痛み止めをもらう。そのうち視界が悪くなってきても眼科は「異常ないです」と言う。
実際摂取した薬物が後々何に化けるのか?それが自分達の化学の外にあるから分からないのか?自分達の化学が作り出した物質の働きは、化学の認知する外に働くのだとしたら膨大な追跡研究が必要になるし、多分コントロールは出来ない。

だからと言って整体が医学的に正しい診断をするとかそういうものでもない。
自分の身体に対する責任の取り方は医学でも鍼灸でも整体でも押し付けて済むものではなく、常に世界の中の自分が選択して来た自分の立ち位置のようなものが大きく作用する。
誰かの協力を仰ぐとしても、それは自己の身体と云う楽譜を奏でる演奏者が伴奏を依頼するようなもの。
ソリスト自身が楽譜を読み込まないで演奏出来るわけがない。
二人の演奏者の息が合うことが必要だ。

書店に行けば、この症状にはココ、この病気にはこのツボとか、腰痛はヤンキー座りで治るとか、全身麻酔で痛みは消えるとか、薬害あって一利無し、お経を唱えて楽になる、とか、自分に自信が無くなった時は本屋の棚を見に行くと気がぬける。
整体関連の本も便利さをアピールしないと売れないのかもしれないけど、そんな便利なものじゃない。と言うか全く便利なものじゃない。
名人はすぐ治るとか、何でも治せると思っている人は多いけど、見てればほとんどが心理効果だろう。
だからといって騙してるわけじゃない、その心理的な誘導が本人の身体を回復へと仕向ける。
それの究極なのが人類の夢、不老不死ってなんなのか?の話しに繋がって来るんだけど。。。
まぁそれは興味ある人は分かると思います。
多分「心」とか「精神」ということに直面した事があるなら、自分の「身体」の扱いは選択しているでしょう。
実はここが一生の終わり方の分水嶺かもしれません。

他人の手を入れるとしたら、今日の話しの流れで言えば「個の生命維持」と「種の存続」の間に触れる者の立ち位置はあると言えるかもしれなません。
どうやって生きているのかとは別に、どう生きれば良いのかの問題に取り組まないとならない。それはどうして生きているのかを個と種の間に捉えていく、前回の話しで言えば「死体は個で実体は種」になるけど、仮説を考える事ではなくリアルの発見を積み重ねることにあると思うのです。

例えば最近話題の諫早や何処ぞのダム、沖縄の埋めたて、動物の乱獲や放射能汚染は種の存続に関わる「罪」で、ベッキーの不倫なんて生物学的には種の存続において正しく、嫉妬と言う感情において「罪」とされているだけで、あらゆる立場で罪の前提になる嫉妬になんのメリットもないと言うだけの話。

種の存続が個の生存の優位にあるように、種の罪は個の罪の優位に立つ問題だろう。

例えば気功(風水、仙術)の世界に五穀断ちと言う一定の期間米や麦などを食べない習慣がある。
これは、早くから農耕文明に対するアンチテーゼとして身体を追究する者に啓発するところがあったのだろう。
五穀断ちの意義は体内に寄生する三尸と言う蟲を殺すところにある。
三尸は天帝にその人間の罪悪を告げ寿命を縮める、あるいは欲望を起こさせることで忌み嫌われたようだ。
これは明らかに世界で最も古い農耕文明によって寄生虫や細菌との歴史を積み重ねてきた中国人の病源に対する考え方が反映されている。
およそ一世紀前に微生物病元説が定着して医学の世界は目覚ましい成果を挙げた。
と思っていたら免疫系がバランスを失って炎症性疾患で悩まされる。
先進国におけるアレルギーや喘息の急激な増加は衛生改革が完了し数十年後に始まっている。
この時間差は母体の免疫機能の不備が子供に影響を与えるまでの時間だが、母体が充分に多様な微菌に曝され適用性に富んだ免疫システムを構築出来なくなったことが問題だ。
整体では廃動萎縮と言うのだけど、一般にアレルギーや自己免疫疾患を免疫力の攻撃異常と捉えるが、これは免疫反応を制御する能力的衰えが原因で喘息や炎症性の疾患を招く。
現在では様々な病気に受胎時の母体の状態が関与をしていると認知されているが、衛生面を強化するのではなく多くの動物に触れるなど微生物環境の多様な感受性を取り戻し、自然の免疫系を発達させる必要がある。
母乳に免疫抗体が含まれている事は知られているが、幼児期に発症する皮膚病などアレルギー反応は新生児期に彼らが求めている遺伝された異常を補う闘いであり、妨げないことだ。
赤ちゃんの舐める行動もその一つ。多くの微生物を取り込み免疫制御機能の発達を促す必要がある。

その発達の前提に胎児期から出産、新生児期間の肝臓への愉気を行なう。
我々は先祖たちが築いてきた体内生態系を失ったが、まだ悲観する必要はない。
人類は病に対し様々な抵抗を試みるが、自分達の生存形態の変化とセットになって病の形態も変化する。それに対し「抵抗」の概念自体を変えなければならないのではないだろうか?
生存形態に変化をもたらす生存の為の「知性」に対する「抵抗」が進歩と言う思い込みの正体ならば、知性の在り方を変えなければならない。
その知性が求めるゴーギャンの「人はどこから来て何者でどこへ行くのか」と言うような問いに答えがあるとすれば、世界の側から見た我々、生存することを世界の側から承認してもらっている我々と言う視点だ。(これは前回の上丹田の認識でもある)

本当は承認ではなく祝福と言う感覚なのだけど。

この感覚で文明の根本的な命題は全て消滅してしまう。
何故なら「私」を取り巻くミクロの世界から宇宙に至るまで、言語や記憶による構造が作り出した幻想の世界だからとも言えるが、そんなことより世界の側に苦しみや痛みと言った感覚が無い。自己保存の自己と言うものがそもそも無いからだろう。
通常我々の活動の中に自己と言える要素はほとんど無い。
あってもごく僅かな部分で、ほとんどが意識構造や生理的な構造から来ている。それらは自己の外部だ。

世界の側から見たとき間違った人間の行動はない。
だから人は間違う。
残念ながら僕はこちら側に戻ってしまったけれど、時折思う。
人間の自己保存は苦痛、苦悩によってもたらされ発展、創造されて来たけれど、それは何処まで行っても苦痛というものの延長に過ぎない。
本当の罪は戦争することでも不倫することでもなく、政治や経済の合理性が同じように祝福され存在する他の種を圧殺し種としての自殺を招く行為でもない。
人は世界の視点はおろか、他者の視点にも立てない存在である限り罪を弾劾する。
我の認識と罪の認識は切り離せないことだと。
そして世界を逆恨みする。

それでも世界は祝福し静かに見守るけれど。