はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

ミイラ的な日常へ・・音に取り組む

教室の予定
6月18日25日
7月9日23日
桜丘区民センター
9時半から



土曜日に、前々から機会が無いだろうかと伺っていた稽古場の音楽研究会を聴けるという告知を見つけ、その教会に行ってきました。

その会は、ほとんど生命の秘儀を共有する秘密結社の音楽会と言う趣きです。

それは自然に音の発生してくる瞬間に立ち返り、作曲家の音符の世界を仲立ちに、人間と音の関係を楽しむ濃密な時間。

演奏者と観客の個性が調和する一点に向かって同じ集中感を共有するように試みられる奏法。

通常のコンサートとは丸切り集中の方向が違い、一時間の枠の中で音楽を生み出し始める現場から展開し、場内全体が音楽に溶け込んでいきます。

演奏者も観客もほぼ老人会か(失礼)という年齢層が、良くも悪くも確かに文化と言える時間をもたらしているよう。
一般的な「上手に弾く」をすっぱり捨てるところからして難しいこと。
これから先、長い時間が必要かもしれないけれど、内観者としての厚みが増すほどに、表現者として熟していく可能性を感じるのは正直羨ましい。
つい最近、「音と言うものがわかってない。もう音楽研究会はやめます」とか言っていたD先生の指導力に恐れ入る。

そもそも音楽の前提には根本的な問い掛けがある。
観客は音楽が始まる前から音を聞いている。音は聴こえている。
この世界もまた、ずっと昔しから音を聞いている。
人間は地球に受動的に生かされ、生きているのだから、聴いている今に乗る受動性から音楽ははじまる。音を聞いている身体は既に受動性の中にいるのだから。

そこが近代では怪しくなってきた。
世界には様々な音があって、それを法則と言う理知で整理し、記号に置き換えたものが、例えるなら永谷園の味噌汁だ。
お湯を掛けたら本当に元に戻ってるのか?
大勝軒のラーメンを機械で乾燥パックすれば、お湯を掛ければ元のラーメンになるのか?
と言う話し。
それが再現する事だと思っているから、音を支配出来ると勘違いする。
その背景にある、地球を能動的に支配し始めた近代の観念で音楽を始める事が、迷いを生んでいる様に見受けられる。
それはある意味、自己の存在を否定すること。
我々は、その否定すら己の意思なのか怪しいくらい受動性の中にいる。虚しい抵抗を試みても混乱の中に呑み込まれるだけなのだ。。が

ラーメンが乾燥した時、抜けちゃったのはなんだろうか?

魂なのだろうか?

人間だって乾燥してミイラになる前に魂抜けちゃうんだから。
ところが、この前モーガンフリーマンの「魂は存在するのか?」を見ていたら、いろんな学者が出てきて科学的にあるとか無いとか。。

総論としては「科学は無いんだな」と思いました。

「魂」があるとか、無いとかと同じ次元で科学もまた曖昧な観念らしい。
それを証明するかの様に、学者達はある時は魂と呼んだものを意識と言い、精神と言い換え、心と呼ぶ。
その曖昧さ、識別能力の欠如が人間を分析する能力の欠如そのもので、彼らが扱う「魂」と言う記号の曖昧さであって、有る無しを論じる以前の問題ではなかろうか?

アントニオ猪木が「闘魂」を背負った時、男の子はみんな根源的な闘う男の格好良さを見たように、ラーメン魂にはラーメンを追究するオヤジの執拗なまでの執念を感じ取り、吉田松陰は「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
」と怨念を記し日本を丸ごと破壊した。

それらは、ちょっと大雑把だけど、なんだか人間としての勢いを感じて格好イイのだ。
(ちなみに大和魂本居宣長の「やまとごゝろ」は別ものである。)

つまりカップラーメンには腰の強い「勢い」が抜けているのである。
ミイラに勢いがあったら怖いけど、音楽会でカップラーメンを食わされたら客としては怒るのである。

生まれ持っての才能の有る無しはほとんど関係ないと僕は信じている。最初のボタンは教える側、音楽教育の問題だ。
しかし実際に教育は出来るのだろうか?
音大を卒業したら多くは音楽教室の先生になる。そこで自分が経験した葛藤を生徒に投影しがちになるのだけど、そこは注意深く抑制した方が良い。
実際に自分が思うように弾けなくて葛藤してきたのは、受けた教育と自分の受け取り方によって潰してしまった自由な可能性だとよくよく分かっていながら、やってしまいがちだから。
子供達の、今、育ちつつあるものを育てる。には如何すれば良いのか?それは聴き入れるところからはじまる。それから、その時々で何が良くて、何が駄目なのか判断の目安を手伝ってあげるくらいで、それは既製の教則本に一ミリも依存してはいけない。
その子供の僅かな可能性も潰してはいけないし、触れてもいけない。今あるものがどの様に変容して行くのか誰にもわからないのだから。
教えるという事は否定する事じゃないから、生徒と先生の関係で力を振りかざしてはいけないよ。

そうすると、例えば音楽に対する観念の問題は大きい。
日本の音楽教育以前の和楽器の世界と西洋音楽の教育の違いや、インド音楽ガムランアルゼンチンタンゴの世界だって違う音感を持っている。
今はそこに電子音の世界が加わったのかもしれない。
それを西洋音楽のまな板にのっけて評価するとして、その地域や特徴の差異を作っている観念が生まれた背景を理解することが必要になる。

例えば幼児教育の中に西洋音楽の観念として、絶対音感を身につけさせる保育園がある。それを見る限り絶対音感は後天的に身につくものと言える。
本当に耳の良い子は、お母さんのお腹の中にいた時からいろんな音を学習してしまっているから絶対音感にならない。と野口先生が仰しゃっているのだけど、日本人の音感はこの時の自然音の豊かさをベースに作られてきたものと思われる。
とは言っても昔と違い、母親の耳に入る音は、車の騒音だったり、ゲームの音だったり、モーター音だったり自然の音とは言い難い。
私達が囲まれている音の世界と、一昔前の世界、バッハやヘンデルが暮らした時代それぞれに生活音のベースが違う。その時代、時代の音程を探すのは意味がない、強いて言うなら現代は雑音が多すぎて音程の識別に対する要請が強まったとは言えるかもしれないが。
しかし、これは客観的な話だ。

主観的には既に身体が受容している音の世界に乗っかって音を探せればいい、そうして音楽の始まりとともに世界をめくっていくのだ。

幼児教育が示すように、耳慣れた音を西洋音楽の観念に当てはめる事は可能だ。ただそれだけでは、伝統的な記憶を含めて固有の音に対する要請「魂」が抜けてしまいかねない。
音研が示すように、文化のベースになる感覚の追究が、観念に縛られた音楽性の違いや、才能の有る無しに対するレッテルを『無効』にする。
教育によってスポイルされてしまった「魂」を取り戻すことが出来る。それは長い道のりだけど、今の野口整体が指し示す方向でもあり、そう出来ると信じている。


近所にお気に入りの店が二軒ある。
一軒は和食で、もう一軒はイタリアン。
惜しい処がもう二軒。
僕はグルメじゃない、どちらかと言うとナッツをポリポリ食べていれば面倒がなくて良い。それじゃ飽きるから食べに出る。

身体の快適さと食事について考えた時に、自分の身体にとってベジタリアンでいるのがあっている人もいれば、フルータリアンもあり、イヌイットのように肉しか食べない人達もいる。
こうした違いは理屈を言えば、どの時代、どんな環境に生きた遺伝子がスイッチONになっているかで、身体に合う食習慣を決定する。らしい。。

これは栄養学には矛盾する。

与える食材の科学を無視して受け取る身体の相性の問題になるからだ。
それはつまり悪い食材も良い食材も無い、食材と身体の相性や関係性で食を選択することを意味する。

しかし、良いことばかりを厳密に選択すれば、行き着くところ必ず破壊的な事態が訪れる。
だから、たまにはカップラーメンで身体に危機感を与えるのもいい。

でもここまでは随分条件的な客観性に依存している。
食べられる食材と食べる身体。分けて分解するなら
ニンジンはニンジン、コシヒカリならコシヒカリ、料理は誰が作ってもレシピが同じなら同じというのが前提。
じゃあ、遺伝子操作や、放射能汚染された物がまじっていたとして、悪いものと言わないのかと言うと、実際に身体が受け入れているかどうかを判別出来れば良いのだが、それは食材の活力と同化する感覚があるか無いかで決まる。
食材でも遺伝子でもなく、食の経験、どんな経験をしながら食べているか、どんな経験が食の良い体験と言うのか、と問い直さなければならなくなる。
それは勿論、満腹感やグルメと言う話ではない。良いものは「同化」出来る。悪ければ「同化」しない。
身体が敏感になれば、料理を作る人の体調や、精神状態まで食べ物にくっついて腹に収まるのだからたまらない。
食べて右足が重くなったり、怒りっぽくなったり、経絡が一瞬で硬直することも。

とか言いながら夜中にコンビニにふらふら出掛けて、新作スイーツとか買ってしまうのだ!
甘味断ちを掲げながら、工場生産スイーツを買ってしまうのはオバマ大統領と安倍総理の広島訪問にも似た理屈である。

しかし料理人は己を消さなくては本物の料理を作る事は出来ないのである。

音楽と同じだ。

その「良い」と感じる感覚について、ある人が「それを良いと言うなら演奏も生活も全て変わりますね。変わらないとそう感じるのは無理ですね」と言う。
確かに先ずは身体に「気持ち良い」が基本。だけどそれは感覚的に受け取ったものを識別して気持ち良いことではなく、対象がある種、我が身の裡に活力として生きた時・・生きる力にとって良いと感じたものを基準にしなければならない。

そう言う意味でも随分前から、食べて不快な食事が増えた。

外食だからかもしれないけど、スーパーに行っても食材を見てドンヨリした気分になる。

数年前整体仲間だった富士宮で農業をやっている棟居さんに、採れた野菜のセットを送ってもらったことがある。

それは衝撃的だった。

その活力が溢れ出る根菜類にびっくりしてしばらく部屋に飾って眺めていた。
そこにあるだけで元気をもらえるような野菜。これぞ人間が大地から恵んでもらえる幸せだ。
東京のスーパーに並んでいる食材はカスなのか?と思ったものだ。
それが年々酷くなる。

それでも分析した化学式?から見ればほぼ同じ筈。

先日チベット医学の学校、日本人唯一の卒業生と言う人の講演会を聴きに行ったら、時間いっぱい炭素やケイ素、薬の化学式の話で、電気的な偏りをコントロールするのに自然の生薬と石油で出来てる医薬品になんの違いがあるのか?と言う。
彼曰くチベットでは採取する労力と作成過程に薬草の力があると言う話しだった。

確かに化学の側から見れば、有効成分とやらを取り出して効率良く大量生産した現代薬は元素マニアからはたまらないらしい。
人の身体が飲んだ石油を如何するかは別として、道具として楽しむには面白いのだろう。
彼の著作を読んでチベット医学も伝統ではあってもその本質を失い、文化が残ってないことが知れる。
自然界には人間の病と言う現象に対応する生薬がちゃんと存在しているんだよ。と言う他は生命回路と意識の構造上こうすれば病んだ人間にはならないよ。という教えはあるのだが、一般的な医師が扱える部分だけなら、時代遅れの医学だから現代医療を取り入れましょう、という方向になっているらしい。
余程の観察眼を持った高僧でもない限り生きた医学として再生することは難しいだろう。
生命回路と意識の構造に対しては、心があってはじめて生薬が作用するのだが、その心が失われている。
そもそも何故医学が宗教なのかと言うと、大雑把に言えば、人の病や死に干渉することで、その因子を消滅させることは、個人には不可能だからだ。
歴史をひもといても病は人類が生存の能力を高める為に必要として来た部分がある。
もともと個人の問題ではなく種族としての問題なのだ。
確かに現代の薬品を使えば病根は身体の奥深くに凍結されたり身体の治癒力を抑制することで発症を一時的に抑える事は出来る。
しかし病根自体がなくなるわけではない。
一方、針や整体では、ほとんど施術者の側に病根は移る。
見ていればわかる。早死にしたり、家族の一人に患者から貰い受けた病根が集中したり、だんだん暗く不安定になるから。
そこで昔のジャーマンは生きている人以外に委託した。
今も一般に神と呼んでいる観念の中にここら辺の複雑な構造は生きている。

整体だと、受ける側にも生命と身体を見る目と洞察力が必要不可欠になる。
まぁ半分はそこに影響される。
じっと自分の身体に起こる出来事を見つめる力が、整体の出来、不出来を決める。徹底して自己責任の中に洞察力が深まり、「整う」事のクオリティを決める。
正直そんな出会いは滅多にないので、昔は自分の体力と寿命を使って無理やりやっていたけれど、、まぁその話しは難しいのでやめておくとして、同じ「受動性」にしても集中する、しない、何に集中しているのかで、起こる身体的な出来事に雲泥の差を生んでしまう。

・・・詳しい話しは書かないけれど、本当は全ての「医学」観念が
根底の在り方から恐ろしく違っているんじゃないかと思う。。体験してきた事から考えるとね。。

人間の身体にとって病や打撲がどう癒えていくのか、成長とは何が起こっているのか、出産に於ける様々な働きはどのように経過して行くのか、個人差はどうして生まれ何に起因しているのか、老いて死んで逝く過程でこれらがどう作用して行くのか、純粋な老いとは何か、自分達の思いや思考や意識は何故存在し何処に流れているのか?といった人間観がまるで抜け落ちた社会での常識的対応が、薬や医療に対してどことなくぽっかり穴の空いたような違和感を覚える理由なのでは無いだろうか。
それは生命体としての理が曖昧なままに依存している違和感だろう。

生命力を生活力にすり替えて、曖昧さは社会に依存する。
例えばパソコンやスマホは人体にとってとても破壊的で深刻なダメージを与える。
胸腺や甲状腺脾臓、どこに何れだけのダメージを蓄積するかは人によるけど、苦痛としては真っ先に頭痛を訴える人が多い。もう街中ネット環境で逃げ場が無いから鈍くして生きていくしかないけど、酷いのは頭痛薬を毎日のように服用するのは常識とか。

彼等は生命体としての理が曖昧なままに対処している違和感を知らない。
道具と機械に同化して自分や周りの生き物を捉えるようになる。

スーパーの野菜に元気が無いのも勿論、遺伝子操作されたり農薬や土壌の問題等いろいろあるだろう。
最近では赤と青のライトを使って年に七毛作だとか。その野菜は本当に生き物なのか?
クリスマスにどれだけの鳥が工場生産され殺されるのか?
ペットとして飼われた生き物には自我意識が生まれる。家畜として生まれた鳥や豚に自我意識が無いとは言えない。
この前の3月11日の深夜、TBSで今の福島を映していたけれど、二人の元作業員へのインタビューを行っていた。二人が甲状腺ガンから何度も手術し、ボロボロな身体に嘆くシーンはいろんな意味て深夜枠でしか許されないのだろうと思ったけれど、もう一つショッキングな映像は遺伝子変異を起こし始めた家畜達を捕まえて次々に殺処分して埋めている映像だった。
家畜であることから解放され、のびのびと生きる牛達を追いかけ回し、すでに何千頭も殺されている。彼等は不良な機械部品ではなく人間と同じ命を持った生き物だ。
理由があまつさえ食べるではなく、政治的な隠蔽であるならやめた方が良い。

この狂った世界で正気を保つには、芸術の力が必要なんだ。