はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

気の働きと結界から、丹田

のそのそと自分の身体を修復し、長いこと放置して忘れていた感覚も少しずつ戻そうとする。

そこも新しい実験をしがてら、いろいろ考える。

 

新型コロナ騒ぎに思うところは、7割方過剰な恐怖心で、SNSや、ワイドショーの煽り方を見ているとウンザリする。

知り合い議員の記事など見ると、その意味の無い残念情報オンパレードに微笑ましいほど。

支持者の為、頑張ってますよ感満載の演技をするよりは不必要な収入を削るかポストを削った方がいい。

あっちを立てればこっちが立たずだろうけど、僕は今回初めて安倍さんに同情しました。

そんなウィルスを利用したイメージ戦略を都合良く使っている人は多い。

 

でも、人は恐怖心でも死ぬ。

 

多分来年からは2月になるとインフルエンザで非常事態宣言、五月まで自粛になるはず。

それも平和で良い。

平和で良いけど、そのツケはすでに発生している。これに地震水害と続けば、この程度でヒステリックになった人達のメンタルや身体はどうなっていくのか。

さらに数年、今回のコロナが可愛いかったな、と思い返すパンデミックが起きる可能性も十分ある。

それに国際的にも新たな争いの種も撒かれた形だろうから、そこは心配。

まぁちょうどいい恐怖心てなんだ?って話しだけど、生き残る為の本能と言う感覚なんだから必要だとしても必要以上に盛るのはあかん。

 

じゃないと、この先もちませんよ。

経済も疲弊して、次の災害が来た時の余力が無くなっているんじゃないの?

 

なんにせよ、自分で考えて、自分で責任をとる。そういう現実を生きていかないとならないんだと自覚した人も多いとか。。

 

そんな中で、未だに身体を意識で変えると言う観念が残っているのに溜息をつきながら、これは馬鹿と鋏は使いよう、と言い聴かせる。

どう意識を使えば、非意識の感応が起こるのか?

うまくいくと何処に旅立っていた丹田さえ感応によって戻ってくる。

実験のなかで得心したのは〈身体は、感応によって生を支えられている〉と言うこと。

これはちゃんと生きてみようと思えば、それだけで相当な修練が必要な事。

例えば今なら、都内の電車に乗るだけで気管支あたりが細かく泡立つような感覚がある。

誰かの怯えは伝染し、まともに同調すれば二週間の自宅待機となる。

だからと言って、感応を拒否するのは、即ち生に背を向けること。

だいたい自分が生きて感じる事にしんどいものはいっぱいある。

だから生き抜く為の修練 すべきことの第一は、自分の身体を感応によって支えてみることだろう。

その基盤の上に職業や生活があるので、日常は多様な感応体験の選択によって、下手くそなカラクリがギクシャク回るように動いている。

 

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この感応の選択において重要なものの一つ、「結界」の話しを続けよう。

それは自分のテリトリーの内側を表すと同時に「身体の輪郭」に対する観察の深さも含まれている。

ここでの輪郭とは感覚的な身体の形。

 


最近人の形ってことを改めて考えさせられる出来事があって、その影響から調子を崩していた。

その渦中にいて抜け出すのは容易じゃない。

全く繋がりを持たない点と点が入れ替わり、集中と拡散の波が現れたり消えて行ったり、

人の実体とか自我と言うようなものは、波に呑まれた木っ端のように見える。

木っ端は自分の意思によって流れているつもりなのだけど。

その中で、時間の感覚がないと人は狂っていくんだなぁ・・と、

勿論痴呆も統合失調症も症状の中に時間配列の混乱を見ることが出来る。

これは退屈な日常の中にも既視感として、いわば未来の安定を得る為に予知したと解釈されることもあるけれど、しばしば自分の内側と外側の間にある皮膜は希薄になり、自我は危険な状態に近づく事と関係している。

ちなみに、こんな時「丹田」は自分の外部を明確にし、正気を保つ手助けをしてくれる。

 

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発端になるのは退屈だけではない。

身体はある危機的状況を予知した時に、その犠牲の代行として頭にある配列を乱すことがある。今回は、こちらの要素が強い案件だったのだけど、一度壊したものは治るまでに相当な時間がかかる。

また、周りの人々の出来事とも同調して変化のタイミングを誘い出すので、容易なことではない。

 

予知したり自我が脆くなって他者に干渉されたりすると、精神的な事で苦しんでいるのだから、心理的な方法や精神的な世界に解決を求めようと考えがちになる。

ところがそれを精神の問題とする大枠は当たっているけど、精神には実体がない分泥沼にはまる危険性がある。


だからほとんどの場合、精神的問題には身体からのアプローチの方が早い。それにしたって転換するタイミングを見出すのは結構難しい。今まで多くの精神系の本を読んで来だけれど、頭に集中を持って来る本が多い。

内田樹さんも著者の中で「脳は人間的尺度を超えた荒誕な想念をいくらでも生み出すことができるが、脳が身体の一部である以上、それらの活動は、ほんらい身体固有の規矩に従うべきなのである。」と述べておられ、養老孟司さんは日本の文化史を身体主義の没落と心理主義の勃興ととらえておいでだと言う。

近代都市は身体を追放し、全てを心理に還元する。そこらへんの批判はお二人とも一致するし、大枠ではその通りだと思う。

(詳しくはお二人の著書を読んでいただきたいのだけれど、ただし、お二人とも学者さんでおいでなので、知識を時折不用意に観念的に使ってしまう部分がある。)


精神的な問題解決を心理や精神世界に求める危険性は、この頭の無制限さにある。働き方に輪郭がない、規矩がない事の問題になる。

 

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いらん話だけれども、近代を細々と生き残っていた身体主義が心理主義と対立する関係をあらわにしたのは、ニューエイジ運動が日本に広まってきた頃だから60年前後であったと、仮定しよう。

その頃はもう日本人にとって、「身体とは何か」がわからなくなっていたし、心理も自然主義私小説にすら劣る、取るに足らないものだった。

それに危機感を覚えた連中が、中間に位置するように見えた催眠や宗教的技法、甲野善紀さんが「裏の体育」と呼んだもの。あるいは中国武術などのブームを作り出し、それらの裏ではカルロスカスタネダのフィールドワークや、エサレン研究所のような場所で、古来の技法と近代科学を混ぜ合わせたような軽い魔術の類や、ボディーワークを生み出していた。

それらは今に至るまで改編されて行くことになる。

当時チベットは中国に侵攻されてダライ・ラマは亡命し、パラマハンサヨガナンダはアメリカに渡り、これらの世界でも国境が取り払われて、一般の我々も足を使えば情報を辿れるようになりはじめていた。


そうした時代の中で、確かなものは自分の身体の探求だけなのだけど、頭もその身体の一部分には違いない。

問題は、その頭がどういう働きをしていて、どんな規矩の中で使うものかと言う事。

意識や心理はどんな枠組みで働いているのか?と言うことであって、構造分析からの対処療法はなんら本質を捉えないと言うこと。

そして、今、この体験は何に属しているかを確認できる事だった。

体験の第一は同化性だから、余計なものをアースしたり、ブロックすべきものはブロックしたり、分解する技術が必要で、その修練無くしてはある意味異界に取り込まれる危険性がつきまとっているものなのだ。

この危険を頭は増幅する。実際よくあるパターンは学生時代のフィールドワークは良かったのに、学者になってから、どんどん頭デッカチになっていく惜しい人。

その中で、キチンと意識化して身体性を保持している人もいる。

多くのスピ系は頭の整理に奔走しているけれど、これはその時点で既に危険な領域にいる。

だからと言って、気功やヨガ、武道などの経験が書かれた本を見てみても、頭でっかちな著者はいる。

だから、何をやるかじゃなくて、どう生かすかの問題。その稽古は本来日常で充分だ。

日常の生活の中に稽古すべき事は充分にある。修練しなくてはならない感応、同化の素材は充分にある。

そこに音楽や、武道、料理、手習い事の対象を具体化するのは構わない。

感応拒否と感応過敏の間を充分に広げなければならない。

その中に我々の伝統や、文化の中身が浮き出てくる。

 


例えば読書の中にも簡単に入り口がある。

いろいろな人の本に目を通すと、行間が身体の集中は何処にあるのかを教えてくれる。

だから、野口先生の著書を読めば身体が整う集中も生まれる。

対して、野口整体を独学で学ばれたとおっしゃる片山洋次郎さんは胸の集中ですね。

松岡正剛さんや内田樹さんなども胸で頭の良さを表しているのに対して、面白いのが河合隼雄さんの腹。

ところが少し時代を遡ると内田百間中島敦などは腰で書く。

これは、時代の教養や風習の変化と言わざるを得ないでしょう。

ただ、同じ腰でも女性が書くとこんなに違う、と言うか祈り(念?)とはこうしたものか、と感じさせるのが石牟礼道子

もうすぐ著書「苦海浄土」が映画化され封切られるけど、この思いを伝えられるよう祈るばかり。

 


現代でちょっと面白いのがスピ系なのに腹や骨盤の集中を表すKanさん(クンルンネイゴン崑崙気功)ですね。

この方とは、ちょっとドトールでお話しした事があったのですが、その時に野口晴哉操法を受けた事がある。とおっしゃっていました。

ぶっ飛んだ体験をとても平易に語るのですが、スピ系は嫌いと仰る通り実はかなり難しい事を書いてあります。

 

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こんな時代に大事なのはやはり基本的な上虚下実。

これが自然界に起こる災害や疫病に対抗する手段です。

人間の身体が自然界の中で生き抜く為に選択してきた機能を抜きにして、災害対策を行ったところで、働きを使いこなせなければ功を奏さない。

怯えや恐怖は身体の判断力を鈍らせるだけです。

上虚下実、つまり下丹田のある下っ腹を充実させて、鳩尾を緩め、頭に上った血を下ろす。この使い古された身体の正常化システムを、今一度見直すべきでしょう。


この上虚下実の基本訓練としても有効な立禅にはいくつものコツがあります。

その一つが会陰です。

この会陰の作用については、今一つピンと来ていなかったけど、今回コロナ騒ぎのおかげと言うか、結界内である仕掛けを作って腑に落ちた。

それはもう一つの謎、太極拳の最初の立姿〈無極とう〉が何故北向きなのか?という問題の、更に根源的と言うかタオイズムの高度な段階にある惑星と丹田の関係を結ぶ階梯、そんな事にも繋がっていると分かってきました。

例えば木星に角度を取ると、胃のあたりの気が動くけど、今冥王星が近い位置にあるので選択が難しいとか。。


会陰から丹田には重力の垂直なラインを通すのですが、足の中を通す場合は踵の前に一点入ってくる場所があります。

そこから入れても地気は丹田で止まるようになっています。そこに上手く北からの磁力線を交差させると、外の輪郭の欠けが修復されます。


天地人を三才というけれど、昔の人は人の身体を資源として使い切らければ生き抜けない条件もあっただろうし、今の我々がそれを単なる思想と片付けるのは早計なんだと言うことがわかってくるのは面白い。

実際に丹田と惑星の間の修練をしていた知り合いもいたのだけど、その時は前段階までしか体験していなかったので理解出来なかった。僕の知る限りここら辺はそこに至ったところから自分のやり方を発見しないといけないんじゃないかと思う。

 


まぁそれは些か行き過ぎでマニアックな面があるので、普通には丹田が使えるだけで充分。

この丹田にも集注と拡散があり、合気道などで使われる円の結界は拡散を意味する。

集注は四隅を取るとき必要で、形の違いからみればまた複雑なお話になります。

 

 


今回はこれにておしまい。

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