はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

3月8日 do not play in time 【完結】(^^;;

 パフォーマンスの出来は、どれだけ運動能力があるかでなく、どれくらい身体という資源を生かすか。その生かすことの後に年齢が加わり、経験の下地が厚みを増して洗練したものになる。
若くして才能を開花させるアスリートの多くは頭の回転が早くて自分の世界を作る発見のサイクルも早い。
この自分の認識「我」の世界を選り取ることが「我」の構築をしていくことで、その完成度がパフォーマンスを決定する。
何故そう言い切るかと言うと、全ての表現者は自分しか表現出来ない、と言うところから始まるからだ。
我の構築を始めるのには、勿論個人差がある。早くから始める利点を見出す子がいれば、自分の可能性を限定する気がしてなかなか踏み出せない子や、他に目移りする子も多い。
どれが良いとは言えないが、持って生まれた条件と育った環境を生かすことを考える必要はあるだろう。
ところが学校教育というシステムは生かすことではなく殺すことを教える。
どんな資質にも見方によって良い面悪い面がある。 「正しい・誤り 」に置き変えて、間違いを正すこと、正解を記憶することの訓練を高校までの成長期12年間も続ければ「正しい答えを記憶する」単純さに依存するようになる。
その訓練が何にでも当てはまると思い込んでしまい、正解が得られないと不安になる。
この教育が作り出した社会、例えば今のマスコミを見ればよく分かる。
安保法政や原発に対しても誰に向けての正しい意見かで各紙面が分かれているだけで、政府に正しい答えでないと政府がクレームをつける。企業に対し正しい答えでないと企業がクレームをつける。判断に迷っておかしな自粛がまかり通り、叩ける側面は容赦無く叩く、個人の一時の判断ミスが社会的な致命傷になる包容力のない社会だ。
その情報を事実と認識しがちな社会は生きるのに必要な感覚を殺す。
その社会の泥船に乗って、より暴力的なものが正解になる時代でもある。客観的評価の世界では、いずれ沈む泥船のうえで如何に上手く漕ぐかに血道を上げる。
陸に引き返すことも、木造の舟に乗り換えることも出来ずに戦々恐々と漕ぎ続ける。

映画「イミテーション・ゲーム」はドイツのエニグマを解読したコンピュータ、人工知能の基礎を築く天才数学者アランチューリングの話しなのだけど、彼は同性愛者として有罪判決を受け41歳で自殺する。
その頃アメリカでは弾道を計算する高速計算機が量子力学の基礎概念を形式化したフォンノイマンによって作られ彼はその後原子力爆弾開発のマンハッタン計画にも参加している。
彼等の頭脳によって時代は飛躍的な変化を遂げた。
道具にすぎない機械が人間の身体を遥かに超える労働力を持つようになったのだが、言い換えれば戦争によって道具としての機械が進化し過ぎ、人間の身体が持つ領域を超えてしまった為に抑制出来ない事態を生じた。人間の生み出した機器が脳に中毒症状をもたらし生理反応を支配してしまうような混乱した世界を招いたのだ。
チューリングノイマンも戦争の中で創造した天才だが、その抽象的数学世界が現物化したした時、確かに世界は変わった。
抽象的世界の合理的論考が積み重ねられることの難しさは、一つの世界の個性を選択すること認識の世界を選択することでもあるから、その土壌が何の花を咲かせるのかと言うことの影響は大きい。個人の成長と同じ構造である。

抽象は記憶の骨組みのようなもので、如何様にも世界を構築出来る。
数学は身体が内包する構造の範囲だが、その身体構造が身体感覚の認識を超える外部世界を作り出す設計を持っていた事は注目すべき命題になるだろう。人間の表現能力の多様性の中に身体的、生理的な把握力を越える表現が可能であることを示した事は今一度立ち止まって考える必要があると思う。

頭脳の肥大化は身体を置き去りにする。

その頭脳の可能性を戦時中に開花させた天才が現れ、言ってしまえば男性的な破壊衝動と創造性の結びつきの中に咲いた徒花が近現代の文明社会の航海図を描いた。
そこからテクノロジーの進歩、大量殺戮無人兵器への進歩は肯定されるようになったのだから。

数学的可能性を飛躍させたチューリングノイマンの頭脳は優秀だったと認めるが(なに様!?)、チューリングの功績を秘匿したイギリスと、ノイマン達の功績を担ぎ上げてIT時代の中心となったアメリカでは、僕はやはりイギリスの理性を正しかったと信じたい。
理知の進歩には人間的な感覚による抑制と選択によって生み出して良いもの、悪いものの判断が必要だろう。
制限や枠組みを取り払う事が命を計りに掛けた戦争であれば仕方ないが、それでも勝つことに見合う犠牲は払う事になるものだ。

ちょっと抽象的なものいいに過ぎたので、現代の戦争から生み出された世界とは違う可能性を持った別の抽象的世界の表現者と比べて欲しい。

岡潔さんと言う数学世界に重要な概念を打ち立てた方がいる。
私事だけれど、僕は数学(も)ダメで、絵を描くのが好きだったせいか図形問題を勘で解く他はちんぷんかんぷんで早々と挫折した。この岡さんの「情緒と日本人」を読んで挫折は早計だったと思った憶えがある。
岡さんによると数学や算数を学習する準備は発育の過程にあって、それは確か中学か高校で始めれば算数から数学の全教育過程は三年間で終わると書いてあった気がする。(別の著作だったかも)
その岡さんの言葉に「計算も論理もない数学をしてみたい」と同級生に話したら冷やかされた。という話がある。岡さんは計算も論理もみな妄智であって、数学の本体ではない。と言う。
これならわかる。
「上達」とは何かを考えていた時、ふと気になって手に取った本が森田真生「数学する身体」。
その中に岡潔を引用して丁度良い一文があったので拝借。

数学者ヴェイユが日本に岡潔を訪ねた折、2人は互いの研究を振り返りながら多岐にわたる話題を交換した。その中でヴェイユ岡潔に「数学は0から」と言うのに対して、岡潔が「0までが大切」と切り返す場面があったと言う。

岡潔の象徴的な数学の本質を捉える逸話だ。次に「情緒と日本人」から引用する。

主客二分したまま対象に関心を寄せるのではなく自分が数学になりきってしまうのだ。
「なりきる」ことが肝心である。これこそ岡が道元芭蕉から継承した「方法」だからだ。芭蕉が「松のことは松にならえ」と言い、習うと言うのは「物に入」ることだと言ったのもこれである。
道元禅師は次のような歌を詠んでいる。


聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水


外で雨が降っている。禅師は自分を忘れて、その雨水の音に聞き入っている。この時自分というものが無いから、雨は少しも意識に上らない。ところがある時、ふと我に返る。の刹那、「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが本当の「わかる」という経験である。岡は好んでこの歌を引きながら、そのように解説する。
自分がそのものになる。なりきっている時は「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。「有心」のまではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。


これは「上達」が何を示しているか、とても良くあらわしていると思う。
自分を消した時に松になってるのか竹になってるのかわからないが、それは集中しているものが決める。
その集中というのはイメージで作ればその質を得る。例えば号泣会見の野々村議員を強くイメージしてなり切れば、胸の内に野々村議員が宿ったようにちょっと錯乱気味の感情を体験出来るだろうし、小保方さんも体験出来る。


だけど、それじゃない。

集中しようとする意図を持った自分すら消えて集中しているもの、自然に属している身体から発生するものを「無心」と解いている。

頭も勿論身体の一部だが、頭という部分は肥大化するより身体性の付属くらいの割合がいい。
数学的発見の多くは論理の積み重ねだけでは到達していない。
彼等にとっての数学は自分の空想世界の中で、抽象的な対象とともに生きる自由を与えてくれるからこそ魅惑的な世界の鍵である。例えばポアンカレ予想微分同相はそのまま感覚世界にあるからこそサーストンは四次元世界の三次元多様体を把握出来ただろうし、ペレルマンが証明したのは自然界に起こる出来事以外を消去するという方向だった。勿論数学の苦手な僕には何と無くイメージすることくらいだけど、これがギリシャ数学の本質なんじゃないかと思う。
例えばアインシュタインが間違っていたとしても現実は間違いとは証明しない。事実としての証明を選択する。
チューリングは親友の死が彼の人工知能への夢となり、フォンノイマンは子供の頃集中すると壁の亀裂をジッと見つめていたという。彼等が見ていたのは表面に現れたその奥、向こう側の世界だった。彼等の直感はそこから現れてくる現象を選択し、「正解そのもの」を選択した。

岡潔との違いを説明するのは難しい。難しいが岡潔は留学先でこの数学世界に対する意識の違いに気付いて日本的方法を見直した。

それは頭脳の肥大化が身体を置き去りにすることへの違和感ではなかっただろうか。


これは音楽の世界にも言えることなのではないかと思う。(実は、あまり音楽については書きたくないんだけど)
多分音楽の世界にいる人にとっては「釈迦に説法」で余計なお世話だろうから、興味のなかった人への紹介として、またはつまずいた人達、生活に追われて諦めた人に少しお節介で話させてもらおう。

見ているもの視点のある位置の感覚が音に出る。
そこで「無心」は音楽になるのか?と言う個人の日常が問われる。
我の消えた無心の身が音楽になるか?
追い求める世界の無心の境。
古来から芸は自分を消したものだ。

才能の有る無しを判断する前に、とことんやって出来ないと、現実から逃れようとして足掻くだろう。
その度、それが限界なのかと問い続ける。
本当の限界を超えた時に「わたし は だめだ」と認めることが出来るだろう。その時何が起こるのか見てみた方がいい。

ネットで見つけた記事。読んだことのある方も多いと思う。丁度書置きたかった事を、簡潔に情熱的にギトリスが語っているのを見つけたので追記する。

「新世代の若き同僚達よ、君たちには、自分自身に成る勇気を持ち、リスクを進んで背負い、自分のまたは他人の録音のコピーになど成り下がらないよう、是非ともお願いしたい。心理的・技術的な制約から脱する為、そして、演奏に於いて創造を成し遂げる為に、努めて楽器に習熟されんことを。君の内なる声に耳を澄ますこと。それは直接に君の心、君の魂につながっている。君が感じていることを伝えるものこそ、君自身なのだ!そう感じないものならば君ではない。覚えていてほしい。クライスラー、ティボー、カザルス、またはカラスらが奏で、歌った「間違っていて」しかも美しい音が、千もの「正しい」音より価値があることを。そして、衛生的に正しい、病院の治療のように正しい演奏が、必ずしも健康の印とは言い難いことを!」

彼の演奏には賛否両論あるし、ギトリスの演奏方法は本人が語るように本人だけのものだ。自分自身になった結果なのだけど、そこに読みとれるのは、あらゆる分野に於ける創造性の真理。

全ての人がこの世界の多様な表現であることは言うまでもないだろう。

あなたが表現者なのではなく、あなたは世界の多様な表現の一つなのだ。

「君が感じていることを伝えるものこそ君自身なのだ。」と言う言葉は「感じていること」=世界 と「伝えるもの」=自身。

つまり君の心が世界そのものとなるまで深く深く耳を澄ませろ。
そこから伝わってくる世界が演奏に於いて創造を成し遂げる。


と、解釈する。

そこでギトリスに何が起きたのか少し気になる点について記したい。
あくまで一つの個性に対する僕と言う個性の解釈は、はじめて彼の身体感覚に同化した時、脊椎の5番から9番まで泡立つ感覚に驚いた。

同時に演奏は意識による身体構造ではなく感覚による身体世界であることを知ったのだけど、それによって彼の演奏は全てが「喜び」を感じさせる。
愛と寛容を感覚的メッセージとしてその独特の奏法に乗せることが出来る。
(追記・演奏の上手下手を決める要素の一つにボジションの意味を生かすことが出来るか否か?という問題があります。手の平の感覚が何処につながれば上手くビブラートが掛かるかは、上の泡立つ感覚の場所に関係している。それが分かれば何故肩に置いて一見無理に見えるポジションで弾くのかわかるだろう。)

彼と僕との間に隔たりはない。その同化作用を喚起しやすい胸から染み入る理由を考えてしまう。
94歳のロシア系ユダヤ人、活躍し始めたのが第2次世界大戦中。ティボーの家に匿われ名前をイヴリーに変えてナチス占領下のパリから脱出するが、ロンドンでも空爆に見舞われ、九死に一生を得る少年時代を送り、デビューする。
多くの同胞が死んでいく中、演奏能力が彼自身を助け、生命力、生きる為の感覚をフルに使わなければならなかっただろう。

しかし彼の泡立つ感覚は自身と無関係に降り注ぐ災厄、いわれの無い恐怖を、溢れる生命力で演奏の力と変えてしまったことを物語る印のようだ。
この感覚自体「血」に関係する。音楽用語でアパショネートと言うらしいから、あながちずれていない。

もう一つ日経のインタビューでギトリスがテンポ・ルバートについて語っているのを抜き出してみる。

「テンポ(tempo)というのは時間(time)ということだね。そしてメトロノームはインタイムに演奏しない(metronomes do not play in time)・・・。
木野  ああ、一見するとこれと全く違うように見えるピエール・ブーレーズなんかも、彼が正確なテンポ・時間を保とうとするのは、ポリリズム(複数のリズムが同時に進む)を正確に再現するためであって、音楽的な柔軟さは決して失おうとしていないわけです。生きたテンポ=時間として一定の周期性を保っている。
ギトリス 軍隊行進曲みたいなテンポが正しいと思っている人がいるかもしれないけれど。それは全く違う。
音楽として生きているテンポが音楽として正しい、とても自然なことだと思うのだけれど・・・」

テンポには生きているテンポ(時間)と死んでいるテンポ(時間)或いは死んでいくテンポがある。

生きているテンポと言うのは音楽家には当たり前のことだけど、音楽だけにあるのではない。本来の禅問答はこのテンポによって悟得しようとする試みだし、絵画や書、例えばその運筆の速度感で有名な良寛さんも生きたリズムで勢いのある書を生む。

生きていると言うことは勿論自分の中にある。この場合皮膚という薄い自分の膜を透過して交流している外界の全てを含む。自分の中に生まれる共演者の感覚もふくんでいる。
そして生きているものには固有のリズムがある。或いは固有のリズムが感応する。その生きた感覚を表に引きずり出す為にはリズム=時間を扱うしかない。
確かに最初から勢いがある身体状況ならそこに乗せれば良いだけだから簡単に見えるが、いつでも勢いに乗せるには技術がいる。

例えば僕のように楽器も持たない素人がリズムの原理を知ろうとすれば、一番分かりやすいのが脈の観察になるだろう。これは上記の泡立つ感覚と表裏の世界でもある。これには強弱や形、深浅に組み合わせが多様にありそれぞれが臓器の状況を示す。

脈は規則正しく打ってはいない。その脈の元を辿るとリズムの原初の感覚がある。その微かな感覚をリズムに変えて脈を打つ。
表に現れている規則性一息に四脈は手首の脈で見れば六つの脈のハーモニーで、その元は異なる深さを示す感覚領域のランダムな運動だ。身体はこの複雑なハーモニーを繰り返すことなく一定に保ち続ける。
これは意識してやろうとすると複雑すぎて上手くいくようなことじゃない。
だから、勢いのあるリズムを生み出すには、勢いのあるリズムを見つけ出すしかない。それには頭を使っている内はリズムに感応しない。
頭にはリズムの感覚がないから。

例えば単純に身体の各部分もリズムを持っている。試しに両腕を突き出して、両目で手首を均等に見るつもりになる。瞬きのリズムを早くしたり遅くしたりすると丁度手首の感覚がハッキリするリズムがあるだろう。

同じように肘と肩をやってみると「はやい」「中くらい」「遅いに」分かれるだろう。
ようはなんでもいいから、その場所にある固有のリズムを見つけると、「ピッタリ」という感覚がある。ボーイングが遅ければ遅いリズムの箇所、単調であれば表面速度を使っているだけの話。

また、こんな事も言っている。

「考えることだよ。経験を「内的に」考えること。
―― これは音楽の教育に限りませんね。
そうだね。考えなくなっている。とても危険なことだと思う。情報が多すぎると、かえってゼロに近づいてしまう。「情報」は「経験」と言い直してもいいね。(注、情報は経験の錯覚、自分にとって未だ経験にあらざるもの)経験が多すぎると、かえって1つも経験しなかったのに似てきてしまう。

・・表層的な経験が多くなりすぎて「裏切り」が起きてしまう、ということ。
個人が内的なパーソナリティーを裏切ってしまう。
自分が自分自身を裏切ってしまう社会。今、世界中で、多くの政府が、市民に情報の「爆撃」を加えているね。
21世紀の今日、人々は「あらゆる種類の沈黙」を聞くこと、立ち止まって思考することを止めつつある。これはとても危険なことだ。」

ここで考えると言っているのは感じ取ること。経験している内的な感覚、感情、葛藤を観察すること。

ギトリスの話は一貫している。ネット社会、情報社会の最大の問題はこの観察によってだけしか得ることの無い知性というものが低下することだ。

知性は本や「正しい情報」などの知識からなるものではなく自分の経験、心の動きを無心と有心の揺れ動きの中に見つめていく事で生まれる。
沈黙を聞くことは、良いことも悪いことも耳を澄ませて聞くことで、良くも悪くもなく整うことに導く。
自分が下手だと思い込んでいる人は、意識的に上手に弾こうとするだろう。
けどこの意識がくせ者だ。
始めて自転車に乗ろうとすると始めは乗る経験が無いから疑いがある。前後には車輪がついて安定しているから、左右のヨロヨロしたバランスを上手にとれるように正しい乗り方の情報を集めれば乗れると考える。

けれど意識的にチャレンジしているうちは上手くいかない。練習しているうちに身体のほうでコツを掴むと乗れるようになる。そこで始めて、正しい情報を提供してくれた人のアドバイスが指していた正しさを知る。この部分を言いたかったのかと。。

大抵コツは意識に隙間が出来た時、身体の作業が浮き上がるように作動する。
そこではじめて意識的に慎重になる必要はないとわかる間もなく乗り始める。
意識の隙間にある沈黙を聴く事が必要だ。

自分の聴いている音だけが楽器の奏でる音になるのだから。

そこを「努力すれば出来る」と解釈すると間違える。意識的に努力すると言う行為と同時進行で身体の作業つまり目的達成の為の感覚が発生する。そちらを見つけようとする方が近道だ。

「あらゆる種類の沈黙」の中にはパーソナリティとして条件付けられたものがある。先祖の記憶というのもその一つ。

日常の生活のなか、それらの反応が感情となり身体の生理的な変化になり、これは自分のキャラだから、と思い込んでいる部分も自分の世代で色付けしたものではなかったり、よくよく観察していると変化する時にわかる。

文楽の世界では、弟子入りすると皆上方言葉で生活させられるそうだ。つまり文楽という芸能が生まれた場所の言葉だ。この音感の身体性が文楽を支えている。
日本人は英語が苦手だけど、幼少期にクラシックを聴いていると、習得が容易になるそうだから、音感の身体性による言語化の方法もある。
「運動と丹田のちょっとした事実」に書いたキリスト教の天使との同化を包む世界の空気は、教会の中で演奏されていたであろうバッハのミサ曲そのものの空気。
17世紀の教会の冷たく澄んだ夜に宙を彷徨うような。
その感覚は自分の身体性の中に組み込まれていますが、とてもリアルなものだ。
だから、逆にこれを再現する演奏になるよう大方の録音の不必要な音を削減して聞くのですが、少し当時と今との時代の差というものも感じます。
20世紀にヨーロッパも歴史の断絶を経験したのだろうなと。。


しかし本当に一つの音感が身体性の柱になるには最低三世代は必要のようだ。

東京で使われる標準語は身体性を獲得しないか、そろそろ獲得する世代が社会に出始めている筈だから、そんな世代がどんなリズムを持っているか社会の変化に現れる筈だ。

文楽が上方の芸能であることをやめた時、それは文楽ではなくなる。

橋下徹補助金を全廃してもそこは守らないとならない事を今の長老達はまだ知っているが、上方の若者が弟子入りしなくなる時が来れば終わるかもしれない。
がんばれー!

まあ文楽は良いとして、クラシックの世界に何を発見すれば良いのか、音楽に同化した身体の中にその音感はある。

長いけどもう少しだけつづけます。

整体は日陰の仕事で、日陰には日陰の矜恃と言うやつがある。

日陰者として日向を観察するに、如何に観察出来るコンディションと状況に持っていくか、これは重大な問題だ。
日向から見た日陰は真っ暗で何も見えないで一括りになるかもしれないが、誰もが日陰から生まれてくるのだから、この世の凡ゆる活動も日陰から産み出されるものだろう。
藝術というのは日陰から生まれてくるにしても、それぞれにその精神的支柱になる血統のような、時代を接続して連綿と流れる形式の魂のようなものがある。
これがないと、自由な創作が無秩序な創作になり、自由つまり時代に応じた即興性というものを失う。


この数年日陰の立場から演奏者になるかならぬか、微妙な立場の身体を観て、音楽を生み出そうともがく身体を聴いてきた。
まぁ音楽自体の製造過程、日陰から日向に出て行く境目を日陰から見ていたわけだ。これは音大の先生方が勿論現役で活躍されているわけだから、日向から手を差し伸べているのとは違って観ているだけに等しい。
だから、演奏を聴く時は初めて音楽に触れる聴手として曲について何も知らない、何が良い音で何が悪い音かも知らない、知識を一切増やさないで純粋に何が聴き取れるのかを専らにしてきた。(下手に理論とか曲想とかに凝り出すと極端にうるさくて面倒な奴になるのがわかってるから)

整体は音楽と共通する要素が多いので、僕にとっても思わぬ恩恵になったのだけど、例えば抜きの技術と言われるものはリズムによって身体に直接変化を与えていく。難しいのは昔と違って、現代人の身体がリズムに鈍くなっていることだろう。
そこで「ルバート」の問題に接続してくる。

フルトヴェングラーによるとテンポとは「相違する一連の諸要素のもたらす結果」と言う。
そこには、ホールの音響や聴衆との間に選択されるもの。表現された主題の性格に由来する要素などがある。彼は言う「テンポは作品の中に存している。それは作品の奥深い本質の中にあるのだ」
もし、指揮者や演奏者によって感じ取られた作品の外部からやってくるもの、つまり不用意な観念であればルバートをほとんど自動的に過剰なものにする。内面的な真実の不足が精神的な表出の認められるところで、虚偽として誤ったルバートの原因となる。

彼は芸術家とこうした周囲との闘争について「意識から、判断力とか趣味のあらゆる自然の機能の全ての明快さや確実さを奪い取ってしまう自己暗示と言うもの。これは、歴史の上からの知識です。私たちに私たち自身と言うものを説明しようとすることが、徐々に、芸術史や技術考察のひとつの任務になってきたのです。」と語る。何故この事が問題になったのかと言うと、バッハの時代にはまだ個性とか個人主義が存在していなかったので(日本も含めて全世界的に)、人々はその時代と環境に自然な結びつきを持って生活し、作品の根底に個人の側ではなく宗教的な世界の側から創造者となって産み出されたのが古典作品だからです。

「私達は儚い存在であると共に神の永遠不滅な様相という二つの面を持っている。」

日本人には理解しづらいかもしれませんが、神聖ローマ帝国に生まれたバッハからベートーベンやモーツァルト辺りの精神を表現するとなると、この感覚を見つけなければならない事になります。
(この部分上に書いた20世紀にヨーロッパも経験した歴史の断絶と関係してきます。)
そこを踏まえないと、技巧的なものがそれ自身の為に行なわれる時には全体の精神的統一が破られる。と語っています。

また、演奏技術の機械的と感じられる性質のものになる理由の一つは、課題を素材面の技巧的征服を目的とし、知性的な技術の発展を良しとすることから来るでしょう。
知能と神経だけで演奏する技能は演奏者の訓練によって身に付けるものですが、それが「藝術作品」を生み出す、或いは再現するとなると技能訓練から再現性に向かうなかで次の問題があります。
バッハやモーツァルトパガニーニの技巧の背後にある内面的必然性の表れとして統合される一作品を生み出すそれぞれに異なる方法は、現実を記述する抽象化の種類が違うという事です。この抽象化の内面的必然性には時代や様式との葛藤も含んで発見した表現の方法が含まれます。
そして発見は完全に受動性のものであると書きました。

この点数学者の発見の過程と似ています。戦争に利用されてきた話しを書きましたが、私のような素人からすると、人間性の表出である藝術に於いても人間としての限度を越えてはならない部分がある筈で、抽象化の扱いについて、古典の作曲には科学のような限度を超える必要は無かったのだろうと思います。
これは近代アート全般に言えることですが、枠を取り払った部分の技巧に凝ってしまうと全体としていびつな姿になりがちで、必然的に内面的な情緒を失います。
各作曲家の抽象化技巧を聴くことは音楽に携わる方々には当たり前の事、或いはトンチンカンな話しと受け取られるかもしれませんが、ギトリスから、フルトヴェングラーの言葉を借りて、実は日陰者の整体研究者として興味の共通するところを書いてみました。
「作品」を身体に置き換えれば(実際同じ意味ですが)僕が心得ておかなければならない事と共通するところです。


実は僕は 本来日陰の身体にある感覚というものが、これほど明瞭に日向の世界、音に反映されるもの、証明されるものだとはお恥ずかしい話し縁の出来るまでは知らなかったのです。
無論この音楽の身体性は古典から作品の多く?に癒しやまとまりを与える形式が展開され、時には論争の的になっています。(こちらから見れば)
ここら辺を書くのは日陰にあるまじき行ないなので、遠慮しますが、現実問題は昔と違って情報に溢れすぎている事が、皆の考えるよりずっと大きなものを犠牲にしている事です。24時間色々な刺激を受け続け、暇があればゲームをしたりスマホをいじったり。TVもラジオもなかった時代レコードも無かった時代の創作活動、あるいは一般人の耳、感覚器官の性能を想像できるでしょうか?
何もすることの無い時間がどれほど人生の多くの時間を占め、その間に創造性が膨らんだでしょう?
ここで登場願った人たちは皆、そんな時代の終わりに生まれた方々です。
僕としては技術と密接に関わる現代が抱える身体の問題に追われていたので、作品としての音楽そのものにはまだ手を付けていない、関連を整理していないので、これからまた数年、ぼつぼつと進めていくつもりです。
では皆さんもがんばってください。