はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

呼吸の原型?追加修正

古来から呼吸法を基礎として扱うことが身体追求の第一歩とする技法は多い。それはヨガから始まって東洋の身体技法、その多くに見られる。
呼吸を使って心を鎮めると言うことから、細やかな身体観察に至るまで。
その究極の形が胎息と言う呼吸の仕方になる。
胎息とは、口や鼻で息をしないこと、通常の呼吸が消えていることを意味する。
つまり生まれたての胎児が初めて自分の口鼻で息をするそれ以前の状態になること。

古の人達は何を求めて胎息に至ったのだろう。

呼吸を時間的に伸ばすと言う事は訓練をすれば誰でもできる。しかし、もしかして大きな勘違いをしていたのではないか、と思うことがある。

以前書いたことがあるけれど、ある人の脊椎四番にふと手を当てたくなり、手を近づけていくと自分の呼吸が消えてくる。そこに触れると口鼻の呼吸は全く消え、代わりに体全体が大きく脈を打つように動き始める。
呼吸が止まること自体は、心臓が止まっても止まる。
心臓が止まったことがある人には実感を持ってわかることだが、当然のことながら心臓が止まれば呼吸は止まる。しかし意識はクリアだし体も動かせる。
この時の経験で息を紐解くヒントがあるとすれば、心臓が止まった時、卵膜に包まれていた時のような感覚になることかもしれない。音も聴こえるが、その膜を通した若干くぐもった音だ。

心臓が止まっていることを除けば、心停止による呼吸の停止は胎児期への帰還体験と言える。

しかし胎息の場合は心拍が身体に全体化しているようなもので賑やかだ。
より胎児の状態に近いと言えるだろう。

整体では、俗に一息四脈と言うが、胎息はこの四脈のリズムで複数の波によって体全体が大きく運動している状態になる。 この運動が呼吸の代行なのか、呼吸が脈動の代行なのかと言うと、脈の方が元来呼吸であったということだろう。

心臓自体が泳いでいて止まったこともある。あの時、ともかく呼吸も心臓も止まった状態で約25メートルを泳いで上がり、人のいないところをウロウロ探して歩いたのだから身体は動いた。まるでゾンビだけど。
余談だが死亡確認後に脈が出たり、蘇生する例もあるので心臓が止まるくらいは特別なことでは無い。死は緩慢な時の中に起こる出来事で、医師が脳波測定で「はい、御臨終です」と言った時に突然死んだわけじゃ無い。酷いのになると、臓器移植の為に手術しようとしたら蘇生してしまったなんてこともあるそうだから、昔の人は腐敗するまで埋葬しなかったのだろう。

ある時期、他人との「同化」の焦点を見つけることだけに集中していると、そこに手を触れようとしただけで身体が分子状態で拡散し、手を触れた時には再構成され相手の身体になる。
しかし、この拡散感覚は面白いと思っていたら、いく日かして肉体と同化運動の内観体との分離疲労とでも言うのだろうか、ある日パタンと倒れた。
次に背骨からゴー~と凄い音がして何かが昇ってくる。そうすると蝉が脱皮する時のように背中が割れて内観体、エーテル体と言うのかもしれないが、生きている方の僕が脱皮した。
僕は空中に、完全な身体感覚の実感を持って浮き上がり、下の床には死体の僕が転がっている。
いわゆる完全な幽体離脱だけど、幽体じゃない。これは自分の実体だから実体離脱。
その後実体が死体と重なり合う肉体の獲得があり、しばらく実体と死体の領域がマダラに体感を構成し、少しづつ混じり合ってくる。

この実体離脱?は完全な死に近い。分離した死体の心臓が動いていたか、呼吸していたか知らないが、離脱した実体が呼吸を必要としていなかったのは事実。
しばらく浮遊した後死体と重なり合った最初の呼吸は完全な制約の無い呼吸だったのだから、やはり死体は呼吸しなかったのだろう。

この実体の方を自覚している間は身体の打撲跡も、歪みも感じない。身体のだるさもない。つまり、整体に近い。
ところが、死体である肉体と感覚的に混ざり始めると、骨折の歪みや身体の重さ、疲労を感じ始める。

心肺機能停止と胎息での違いは同じ呼吸停止でも「死体」の胎児期への帰還と「生存の実体」の胎児期への帰還と言う大きな違いになる。
そして我々は日常この死体の方を自分の実体だと思い込んでいる。
敢えて今風に言えば、他者と同化するというメカニズムが、生きている実体の方を起動する。
実は死体である肉体の方も、細菌やウイルスと同化して細胞を構成しながら発生して来た。現代はこの死体の研究ばかりして、この死体の医療を発達させてきたけれど、生きている実体のメカニズム「同化」の方が実は生存の研究には主題となるべきものであり、願わくば機械を見ながら患者と話すのではなく、医術の主題(古の名医がそうであったように)として同化を中心とした医術の発達を望む。

僕は実のところ整体の一つのセオリーであるこの一息四脈に疑問を抱いてきた。
呼吸に負荷をかけながら、細く長い呼吸にして行くと、気功で言うところの亀の呼吸だが、一呼吸で60から100脈以上は数えられる。
続ければ脈まで緩慢になるのは確かだ。ただ、脈は脈で別に遅くする方が効率はいい。どちらにしろ体感の奥深くの「長さ」か、脈のリズムの組み合わせなど、より深い世界を探ることになる。
ただ呼吸に直接意識をかければ、鳩尾が硬くなる事はわかるだろう。これはいけない。
例えば当時それを脊椎行気と言うことは知らなかったが、より深い中心軸に息を通すほど、集中した息の移動は同じ脊椎の長さでも速度の遅い程長くなる。
しかし一息の息は口鼻の呼吸の長さではない。身体の脈と釣り合った息がある。
脈の方が元来呼吸であったと言うのは、漢方医が手首六ケ所で脈を取るように、身体の複数の機構に触れることだ。つまり呼吸は複数の脈を統合した要素を持つ。一息四脈は膨大な機構を背景に水面から顔を出したワニの鼻先のようなものだ。

興味深いのは、この呼吸、心拍にある種負荷を懸けること、病や修行、あるいは六種的体勢の中に強い同化感覚が生まれる事があることだ。これは前回の中丹田の話にも関係するが、一方で、いわゆるサードマン現象的なことから、霊的サークルにも見られる生死の淵にいるような現在形の身体というか精神になる傾向がある。
つまり、死者との同化だ。死者は肉体を持っていない為、常に現在進行形で過去がない。時間経過が恐ろしく緩慢なため記憶が変化しない。これは死んだ瞬間精神が時間経過のエアポケットに入り込んでおこる空間的な固定現象。だから一般には時間を要する空間移動がそれ自体には出来ない。しかし生きた人の身体に入れば時間の流れを獲得する。つまり彼らパーソナリティの現在と生きている死体の現在がかさなる。他人の身体に軒を借りた擬似的生存状態になる。

あまりこういう話しをすると怪しい人みたいなのでやめますが、死後の世界なんて無いと言っておきます。だいたいその言葉自体がおかしい。
基本死ぬまでが人生。死ねば一生は終わり。

記憶という働きを脳細胞が支えているとして、その細胞やシナプスのタンパク質もものすごい速度で死んでいったり、交換されて行くのでしょ?すると記憶はDVDのように再生されるのではなく、身体感覚にバックアップされたものを再生しているから同じ記憶のようで毎回少しづつ違っているのかもしれません。それに頭に再生されないバックアップ記憶もあります。基本的に頭にある記憶は解決済みのもの。首から下は過去に出来ないもの。或いは子供や他者に譲らないよう凍結したもの。身体感覚の中では丸い抽象形として入り込む死者の記憶や、自分は映写機の役割だけして観客になれない記憶もあります。

この身体は記憶を求めている。その理由は生物の進化選択から、最近の読み齧りですが、エピジェネティックな働きまで含めて正常な種の存続の為かもしれません。
もともと記憶は種の存続や維持になくてはならない機能ですから、個体を超えています。記憶が交配を繰り返し宿主を換えて寄生するような性質をもしかしたら持っているのかもしれないと言えば言い過ぎでしょうか?

実験室で行うラットの迷路学習実験とスピリチュアル系の大好きな前世理論は同じです。記憶と時間経過の規模が違うに過ぎない。
そう考えると、記憶に焦点を持ってくるのはとてもつまらない話しに思えてきます。
それは科学者がやればいい。
本当はもっと面白くて、全ての個の記憶は遍在しているのかもしれませんよ。


前回「その時の時間の向きが違う事だけがこの現象を構造化している。」と書いたのだけど、それは死体が過去に向かっているのか?私が過去に向かっているのか?
或いは、今回の話しの胎息の訪れは確かに意識の外、認識の外にある 身体 の出来事。
この身体が向かっている先を自分の中でもう少し整理して考えてみたいと思います。

記憶のこと、身体の分離の事いろいろありますが、呼吸器官に問題を持って生きてきた僕にとって呼吸の原型は今もって課題で、胎息がどうすれば再現出来るのか、その時本当は何が起こり、何を捉えて整体とするのか技術に出来るか長い間考えているのです。