はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

雑感3・・身体の記憶と魂の記憶

近代において人間の感覚世界は、実証主義の暴行を加えられ続けてきたと言って良いかもしれません。

主観性を否定すれば、それは個人を否定する事になりますが、平均的な人間像、平均的な数値を設置することで、個人は数字に置き換えられてきました。

それが今社会で反動が出始めているグローバル社会の、表面的な均質化を推し進める公式のようなものだったのですが、これは数の観念のギリシア的な面しか見ていないからです。

この数学を人間を対象とした客観性に利用することはできるのでしょうか?

自然数学とは何か?アインシュタインと並ぶ天才と評されたインドの数学者ラマヌジャンの生涯を描いた「神様がくれた数式」で、数学者G.H,ハーディが王立アカデミーでラマヌジャンをこう推薦します。

「神の御心でなかったら、方程式などなんの意味もない。それは純粋数学の根拠とするものではないか。我々は絶対的完璧さを求める無限の探求者に過ぎない。公式は創るものではなく既に存在し発見し、証明するのを待っている。」

この数学は東洋哲学的な生成の0を可能にした知性のあり方へと転換するよう促す場面です。

経済合理主義の数学も現代民主主義の数字も医学の数値もこの文脈に反しています。

自然界にとって人間は自然の一部として計算されなければならないのですが、そこにはロゴス的な平均値は存在しないのです。

この「神の御心」は敢えて言えば、集合無意識に置き換わります。社会的数理は集合の無意識、つまりそこには個人が無い集合無意識があるだけになります。そこから読み直してみると数値を使うなら公理、公式を発見し、使い方を変えなければ、グローバリズムの単純に数の多いのは力だと言う暴力の論理になります。

集合の無意識が社会数学の対象ならば、今の社会もこれからの社会にも、なんら個人的責任を負う主体は無いと言う見方から始まるでしょ。

だから、国のトップが誰であってもどうなっても、彼の責任ではないし彼が国を変えるわけでもない。

公式の部分に配役された人間がいるだけになります。

個人に平均も正常も異常もないところから多様性を育てていかなければいけません。

主体無き行為自体(或いは意識)も、発見される事を待っているでしょう。

 

ロゴス的な数値化以前の個人の世界は国が管理できるものではありません。

大雑把に分かりやすく対象化した人間そのものについて、我々は何もわかってはいないのです。

いくら本を読んだところで、客観情報を編集し、モデル化し、新たな観念を作るならまだましで、その先はやはり人間性抜きの身体に続いていくのが透けてくる。

その人間を考察する上で、どの深さで人や世界を見て行くかはまず大きな問題です。

生命圏は複雑な変化時間の複合のなかにありますが、当然個人の中も同じだけの複雑さ広がりを持ちます。

例えば人に触れて同調してくると、懐かしい匂いを感じることがよくあります。

それは、その人が匂いを持っているのかなぁ?と最初は思っていたのだけど、あらためて考えてみると、自分が失った記憶、無意識の中に沈潜していった記憶の感覚なんだと思うのです。

今の子供達はどうなのか知らないけど、歳をとるとだんだん身体が活き活きと感じる時間が減ってきます。

同時に一日が早く過ぎるようになってきて、一年があっという間に終わります。

すると今度は身体が体力の減衰過程に入って、過去の蓄積された疲労や、怪我の痕、病気治療のツケが表面に浮き出てきます。

 

うちによく来てくれる方がいて、このYさんの来訪は一月に10回を越すこともあるのですが、

「もう脳卒中で足が麻痺するのは困るから」と暇潰しがてら弁当を持ってやって来るw

Yさんに手を当てると、いつもあっという間に一時間きっちりで終わります。

途中時間を確認するまでもない。

20分経過したくらのつもりで手を離すと、ちょうど一時間になっている。

この方の一日はいつもあっという間に終わります。だから、睡眠もちょっと変わっていて、一日20時間くらいのサイクルで回っているようです。

なのに、客観的な一日は24時間なのだから、ちょっとズレてる。

あんまり辛そうだと、たまにそこら辺を調整するけど、自分が立ち止まって周りの風景が過ぎて行く中を、のんびりと進んで行けばこうなる、そう言うタームの場所に焦点があるのかもしれません。

客観的に70年生きていながら、実際は少し短めの人生になるんだろうけど。

だけど、思い返してみるとYさんの身体に触れて匂いに出会うことがない。

 

自分の無意識に沈んだ知っていたはずの匂いは、人の身体に触れてお互いが集中出来ている時にやって来る事が多い。

それとはちょっと違うけど、朝、窓もドアも開けて陽が入ってくると、その陽の陰になる部屋の一角で懐かしい匂いを感じる事もある。

そんな日は気分がいいし、仕事に集中出来る。

Yさんの生きている時間の流れは、反対に拡散的なのでしょう。

 

人間は他者や世界に映った自分を観て、私を認識します。

だから、私とは誰なのか?と言う問い以前に私と言うものが存在すると思っている事自体が人間の特異性になってきます。

もう少し言えば周りにいろいろな運動特性を持った人がいるから、私もいろいろな運動が出来る。と言う事になります。

子供が親に似てくるのも、身近にいて一番自分を認識しやすい相手だから、その運動が強く現れると言う事です。その元は生後すぐの親子関係で、生後三ヶ月以内は子供もまだ母親と同化していますから、母親の身体を変えれば同時に子供の身体も反応する現象から始まります。

運動の特性だけではなく、呼吸も脈も感覚質も全てが周りの人たちとの関係で変化していく。もっと大きく見れば、自分のパーソナリティも世界全体の流れの中で導かれたもので、自分の勝手になるものじゃない。

その配役としての自分を綺麗に生きるのを整った人生と言うのか、時々壊しながら、リズムを狂わせながら生きるのを人生とするか?どちらをとるかもまた、予め決まっているのでしょう。

運命と言うまでもなく集団や人間関係の中で私の居心地、身体のリズムは調整されていく。

ただ僕のみたいのはもっとイレギュラーなものなんです。

身体となった記憶は、匂いを通して思い出す事ができますが、それは、そこに優しい記憶しかなく、その匂いを求めて幸せをさがす、そんな習性が人にはあるからでしょうか。

D先生は楽しかった記憶は忘れられて身体になる、と言います。子供の頃の楽しい記憶は栄養になるのです。

残酷なようですが、生まれたばかりの新生児にも既に愛らしさの多寡があります。それは産まれ方が決定する気質の部分だけではなく、持って生まれた何かがあるでしょう。

進化論的な認知過程の話し以前にある、身体と意識の間に起こる根本的な結合の強度の要因と言っていいかもしれません。

身体が幸せな匂いであるのに、魂の方は悔いを記憶として纏っているからじゃないのか?と思っています。

 

匂いで懐かしく思う時は自分の無意識の感覚で、その記憶が身体ならば無意識とは身体です。だから日常で身体を感じることはほとんどないかもしれません。

だけど匂いなく、何もかも懐かしくなる場合があります。そんな時は、昔の人の感覚が入ってきているのかもしれません。

懐かしいと感じているのは自分ではないと認識するのはなかなか難しいのですが。

しかし、その昔の人にも強烈な香りを纏った人達がいます。考える上で大事なヒントになるのですが、その「祀り」ということについてはややこしくなるので、また別の話にします。

記憶にはどうも、持ち主が生きていようが死んでいようが関係ない働きがあるようで、身体を持たないものだけが自分に他者性を持つと言う事になってきます。

生きていても身体のない人は大勢いると思いますが、過去を生きた人の想いも同じようなものです。つまり身体が無ければ時間の循環の中に働かせ、触れてもらう事が出来ないために生きた時間を持つ人に憑る。でもそれは我々が通常の自分自身を知るためのファンクションでもあります。

時間と言う「運動をしている」と「していない」身体観これが雑感の最初のテーマ、身体と人間性の長い時間考えてきた問題です。

その身体以外には、個人など自然界にとってどうでもいい。

自然界の中の人という立場からグローバルに見た時、人は数量でしかないんでしょう。

でもそれはギリシャ的ロゴスに縛られているならどうにも身動きできないまま淘汰される対象でしかありません。

その意味で社会のグローバル化はヤブヘビです。

グローバルな自然界と、社会のグローバル化は人間の生存に対して自然界が敵対する脅威になっていくだけで最悪の相性でしょう。

それが、我々の信仰する西洋思想ならば、身体は自然界に属する別の原理、この対立の外にあると言えるでしょう。

 

整体ではいくつもの周期を語る部分があって、産後の骨盤周期から、体温の周期、気の周期、打撲にもそれぞれの箇所によって周期の違いがあります。

それは波と呼ばれます。

脈にも呼吸にも波がある。

丹田にも重心にも波がある。

生まれた時にも死ぬ時にもまた波がある。

一生はこの波の複雑な多周期の中に始まり終わります。

ある波は打撲によってズレたり止まったり、音楽のビートも波なら、複数の異なる波が異なる波の人々によって、異なる性質を発し、異なる波で受け取りながら、時にはその波を転じ、重なり、間を作り出す。

確かにこれは時間を作り出していると言えるでしょう。

ある時Yさんの脊椎四番にふと手を当てたくなり、手を近づけていくと自分の呼吸が消えてくる。そこに触れると口鼻の呼吸は全く消え、代わりに体全体が大きく脈を打つように動き始めます。

呼吸が止まるのではなく、そこに近づくほど消えていく・・

手をゆっくり離していくとまた徐々に呼吸が戻って脈拍は静かになって来ます。

この時の脈拍は、よく胎児の映像と共に心拍の音がながれるでしょ?あれをフルボリュームで聴かされている感じです。

しかも体感が最大限に脈打ちながら拡大縮小を繰り返す。

これが「胎息」と言うことか?!

どこがどうなっているのか?脈拍がひどすぎてしばらく頑張ったんですけど分かりませんでした。

もちろん十分くらい経っても息は全く苦しくありませんが、処理の仕方もわかりません。

そのまま一時間でも二時間でも頑張っていれば良かったと後になって思いましたけど。。

「吸い」と「吐き」の振幅が気管から皮膚呼吸に転じていく、しかも皮膚呼吸が呼吸を完全にまかなえる振幅を持っている。

これはもう普通に生理学的にはありえません。

生理学的に呼吸が止まること自体は、心臓が止まれば止まります。
心臓の方が先に止まってくれれば、息をしないのは苦しくありません。意識はクリアだし体も動かせる。
だけど胎息と違うのは卵膜に包まれているような感覚になることかもしれません。

心停止の場合、外部音も聴こえるけど、その膜を通した若干くぐもった遠い音になります。

整体では、俗に一息四脈と言いますが、胎息はこの四脈の中に含まれる複数の波によって体全体が大きく運動している状態になります。

息を止めると、息が止まるは、前者が意識の力で身体を統御しようとするのに対して、後者は感覚が先行してやってくる違いがあります。

その皮膚呼吸をしたのはいったい誰なのか?

観察する側とされる側によって、対象は通常の身体から全く別の側面に滑り込む事になります。

どちらも心臓を焦点にしながら呼吸の停止と言う現象をめぐる違いとして、生死の境目に近いところで発生した一つの時間の停止と運動です。

ここに人間の二つ目の原理が見られます。

一人の時、物理的な身体に変動が起きる。或いは作るものは比較的閉じた世界です。

この例にある「心臓が止まる」は心臓の時間が止まった、と言う事で、他の時間はまだ動き続けています。ですから、身体自体は動きます。

死の過程は時間を追うごとに動きを止めるところが増えていく、と言うのは正しくなくて、「時間を追うごと」は多時間の身体の中に、止まる時間が増える。

つまり身体の時間とは多数の振幅で、それが次々止まる事を時間を綴じると理解できます。これが整体の意味するところ、身体の多周期性と記憶の多動性、それから以前お話しした抽象化と身体の焦点の現れ方は光と影のようです。

 

 

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昔し話し

そう言えば思い出したんだけど、ある日うちにあった「あるヨギの自叙伝」が濡れていたんです。

本箱に並べて長いこと忘れていたから、ここだけ湿気が溜まったか??とか最初は思ったんですよね。

でも、微かに良い匂いがするし、油なんですよ。

で、干しときゃ乾くだろうと思って丁寧に拭いて干していたんだけど、どうも本の中から油が湧いてくるらしく、どんどんビシャビシャになってくる。

何度か拭き取ったんだけど、こりゃあ読めないと諦めました。

 

この話を教室でしたんですね。

そうしたらS君が僕に見せて下さい。と言うので、うちに来まして、「おーほんとだ」「ちょっと貸してください」と言って持って帰っちゃった。

それから二週間して教室に持ってきて「確かに本から出ています」と言って返してくれました。

本はなんだか前よりボロボロになっていて、輝きを失った。みたいな感じです。

「お前何したんだ?」と尋ねると

「乾かしたり、電子レンジでチンしたり、〇〇機?にかけてみたり・・」

電子レンジ?そりゃババジもビックリだわ。

貸した自分も甘いけど、畏れを知らないS君の行動にもびっくりです。

それからしばらくしてS君は辞めていったのですが、こうしたある種の不思議を否定出来なかったからと言って、何かものの見方が変わるわけではありません。

ドーキンスのような科学信仰の学者は、「科学的に正か否か〉が絶対で在ると言う人生経験で生きていますが、それを真理で在ると言うなら小さな宗教でしかないでしょ。

 

「雑感」おわり