はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

武満徹と技術化の試み

武満徹のエッセイにこんな一文があります。

「音はたんに機能としてあるのではない。世界では、生きるものの全てに固有の周期(運動)がある。目にみえるものと、見えないものと。音もそうだ。音の一つ一つに生物の細胞のような美しい形態と秩序があり、音は、時間の眺望のなかで、たえまない変質をつづけている。

・・・略

鳥の啼き声を自然の環境の中で聞く時には、人間は他の自然の音(雑音)をも、鳥の声と同じ価値のものとして聞いてしまう。自然の環境のなかでは自然の雑音は聞く行為を妨げるものではない。むしろ、無数の響き合う音たちが、聴く行為をたすけている。自然の音の生き生きとした様相と変化は、音が完成を必要としない実体として、空間における共存関係を持つからである。

西欧的体系の外にある音楽には、極めて自然の状態に近いものがある。

邦楽の間拍子においては、音の(短い)断片的な綴りはそれ自体完結している。耳に聞こえるそれらの音の出来事は、間によって関係づけられ調和を志している。この間は、演奏の偶然に委ねられて、動的に変化し、そこで音はまた絶えず新しい関係の中に蘇っていく。

このような音楽においては、演奏家の役割は音を弾くだけではなく、聴くことでもある。

演奏家は、常に間(空間)に音を聴き出そうとする。聴く事は発音することに劣らない現実的な行為であり、ついにはその2つの事は見分けられなくなる。

・・・略

構成的な音楽の規則に保護された耳には、また音を正しく聞こうとはしない。痩せた自我表出に従属する貧しい(音楽的)想像力には、音は単に素材の領域の拡大や目新しさとして聞こえるに過ぎないだろう。」

 

本棚に突っ込んであった、「武満徹エッセイ選」を取り出してパラパラとめくっていくと、さすが昭和一桁、その音楽の見識も観察する力も、言葉に書き落とす知性も素晴らしい。

武満徹を有名にした「ノベンバーステップス」を書く羽目になった経緯も面白いのだけれど、作曲の中で邦楽に出会い、葛藤し、相容れない西洋音楽と邦楽をそのままに聴いてもらおうと決意した背景。そこには世界に出て行く為、音楽家として日本人が背負っていかなければならない大事な事がいくつも書かれている。

上記の一文は最初に開いたページに過ぎないのだけど、まだ若かった小澤征爾と共に西洋音楽とどう向き合い、何を苦悩していたのかよくわかる。その悩みには、多分音楽の勉強をしている人たちの糧となるものが多いんじゃないかと思う。

ど素人の注釈は必要ないと思うのだけど、最近は本を読む習慣の無い子も多いし、勉強会で試してみたことや送ってくる録音にも関係のある問題がいくつかあったので、身体と感覚の視点から少し思うところを書いてみたいと思います。

 

最初に、「音の一つ一つに生物の細胞のような美しい形態と秩序があり、音は、時間の眺望のなかで、たえまない変質をつづけている」の部分から。

この時間は勿論我々が作り出した過去から未来の時間軸を指してはいない。

この変質は「今」の中で形態を変え秩序を生み出す。

本文には「常に間(空間)に音を聴き出そうとする。」とあるが、(空間)は編集上いれられた言葉で、「間」の解釈は重要だ。ここはむしろ(時間)の間であるべきだと思うのは、些細なことの様だけど、弾いている側の認識で間を空間と解釈すると安易に時間の流れ、ビートを狂わせてしまう。重心も上がってしまい関係性が空想になっていきがちになる。

これは何故かと言うと、時間を軸として空間設定してしまうと、過去向きと未来向きの矢印が生まれ、現在と言う一瞬に集注出来なくなってしまうから。

でもこの観念の仕方が一般的なものなのは、男女それぞれに含まれた性差を生み出す問題にも置き換えられる身体現象をモデルにしている。

問題はモデル化すると複雑なので、ここは〈現在〉つまり「今」と言う意識では逃げてしまう一瞬の性質から考えて見よう。

 

一つ一つの音の周期性は、そのまま感覚の持つ時間のこと。

例えば朝焼けに照らされた建物の赤と、薄くひかれた雲ににじむ陽の光と影、その背景に流れてゆく青空の空気に感動する時、僕らは自分の中に沸き起こってきた情動の中にいる。

情動の中では僕たちの感覚は感動に集中して、雑念の出所を隠してしまう。

その時、私と言う入れ物は、一瞬前の過去にも一瞬先の未来にもない。

この「今」にいる時、人は美の中にいる。

それがどんな感覚で身体の何から生み出されてきたか発見出来れば、周期性は捉える事ができる。

音楽はこの今を選び、作り出す技術といっても良いと思う。

この時間は生命固有の周期から生まれ出るのだから、空間と見える身体が実は時間で形成され、それは外の世界と響きあっている。と言う身体観で捉え直さなければ、実際に技術化する事が始まらない。

分かってくれば、例えば少しの重心や締め方の工夫で、身体空間を変形させ、周期を選択する事が可能になってくる。

それは一曲の時間を区切る事の工夫になる。

 

そしてそこに起こる音楽上の変質とは、異なる周期間の運動で、その主体になるのは〈今〉という時間的集注。それは遅くも早くもなく、重くも軽くもなく、長くも短くもない周期の「間」の運動。即興の運動する空間でもある。

この一周期が終わり、次の周期に移る間が速度の断層を生む。

周期自体は生み出される音の速度感になる。

速度感には空間的な運動性と、この周期性の気の運動がある。

実は感覚を観ると言う観察行為と、感覚の働きの変化にはタイムラグがない。

集注の深さはタイムラグを消してしまうのだけど、これは意識と働き〈気〉の間にある驚くべき関係性だと言える。

これにより通常意識と気は混じり合わない。磁石のSとSのように弾いてしまう。つまり同じものの異なる形と言う事だ。

これが、個人の中で同居できないから陰陽の太極が形成される。

だから、タイムラグがあるとすれば「間」と言う一つの独立した現象が、意識の働きと気と並んで同格に現象を作っている。

と言う事は、今と言う時間集注は意識の集注では無いとお分かりになると思う。

ここにあえて(空・間)という注釈を入れるとすれば、それは色即是空の空と響き合うだろう。

 

「自然の雑音は聞く行為を妨げるものではない。むしろ、無数の響き合う音たちが、聴く行為をたすけている。」

この自然の雑音は邦楽の楽器でいう「さわり」の思想へと繋がっている。

人の集注は雑音があって生まれるもの、困難があって深まるもの、「さわり」があって自然へと近づくものなのだ。

武満徹も「さわり」は女性で言うと昔は生理をさしたと指摘する。その生理があるから子供を産む事ができる。つまりは生命を生み出すものを「さわり」の不思議と言う。

ここでさわりが生み出すものは、聴く集注である。

音はすでにあり、そして流れ続けている。そこに乗り、降りて、また別の流れに乗る。聴く集注とは〈貧しい想像力〉の介入を許さない。

演奏者にとって、この集中により発生する感覚はそのまま発生、発音の音質に当たると言う受動性と能動性、〈聴くこと、発音する事〉の分けられない現象がある。聴くことと、発音の〈間〉によって演奏者は音の断片的綴りを持ちこみ、偶然の中で変化し、絶えず新しい関係の中で蘇って行く。

こうした音楽世界に、武満徹は「自我表出」を戒めて括る。

自我を相手にする余地の無い時間の中に入る事は音楽世界の出発点であり、最終地点でもある。

この事が西洋音楽、東洋音楽の違いの以前にある人間の営みに発したものである以上、互いに交流し、新しいものを生み出すことができる。

日本人の流儀の名残を抱えた武満徹小澤征爾西洋音楽に向かって行く時、この音楽の深い眼差しを捨てることは無かった。

 

前回、音楽センスの自覚、無自覚について触れたけど、話しを難しくしたくなかったので、ここから少し武満徹のエッセイを借りてボソボソ書いていきたいとおもっています。