はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

音楽以前・精神の人類その一

最近グループラインでやりとりしている内容を、短くブログとしてまとめてみたいと思いますが、最初は西洋音楽の古典と現代の違い、宗教的問題、そこから西洋の宗教と日本の違いは何か?と言う大きすぎる話題から始まりました。

しかし、「からだ」についての話しとエクササイズは難しいので、ここでは省略します。

音感となると、言語表現のシステムから国民性に影響してくるし重要ですが、僕は苦手なので省きます。

古典と現代に加えて東西の問題をサクッと一言で言うとなると難題すぎるし、ドイツを中心にしても近代となると敗戦やゲーテの周辺からヨーロッパを観ることになるだろうし、宗教とは何か?と言う問題も日本人には理解し難い。

そこら辺はそれぞれが現地なり書籍なりでコツコツと理解していくしかないのだけれど、我々の中に根付いてしまった構造主義とか、仕組みと言ったものが、近代西洋の影響であったことを差し引いて見ないと、東洋に位置する我々自身を知らないまま比較の主体にならなくなる。

しかも演奏家人口は、中国、韓国が巨大化しつつある中で混沌としてくれば、演奏の評価はますます難しい。

文明も文化も違っていながら、近代に形だけ西洋の真似をして誤った日本の文化的退廃。

グローバルスタンダードをアイデンティティの放棄と勘違いした政治指導者達。

様々なミスリードが、悲劇を生み出している事の背景になっている。

 


しかしそうして精神の表現が時代に飲み込まれれば、抜け道は「からだ」にしかない事がますます重要度をもってくる。

 


先ずは東洋、西洋と言ったところで、実はそれ以前の原始時代には地球上を様々に移動していたご先祖様達の生活を考えることは有効ではないかと思う。

今もボルネオなどの東南アジアや、アマゾン、南米など、都市生活とはかけ離れた我々とは別の生活を選択した兄弟達の住む地域がある。


我々の先祖も西洋の国々もまた、そうした森の民だった。

文明と言う都市生活を築き始めたのは集団生活の安定と戦争、病の蔓延などが理由と言う事になっていますが、その背景は何だったのでしょうか。

当時我々の選択したものが、そもそもの都市生活=脳化社会の種になっている。

文明の歴史において未だに原始的な生活を営む森の人々より、我々の方が「良い生活」であるとか、文明生活の方が豊かであるとか、賢い選択だったと思っているけど、選択しなかった人達の理由とは何だったのでしょう。


現代の文明を営む我々の側、この脳化社会を形成している知性が太古の昔、安定を要求して都市化への道を辿り始めたのは明らかです。

それが精神病を量産し始めた現代は、文明も失敗に終わったと言うことでしょうか?


精神的安定は、我々の都市生活をアスファルトとコンクリートで埋め尽くし、病気の基準と対処法を決定し、膨大な石炭、石油、電気エネルギーを消費する資源乱費社会を生み出しました。

飢えや寒さに苦しんでいたご先祖様に比べてはるかに安穏とした生活かも知れませんが、代わりに私達は「からだ」を見失ったのではないでしょうか。

自然の移ろいや危険に対する反応は鈍くなり、からだが教えてくれていた生の実感も、細かな適応も、生存の為の勘も鈍く沈んでしまいました。

そもそも国民の身体、生命、財産は国が管理すると言う極めて不自然な脳化を目指したのだから、都市化には人体も人工的な改良が施せなくてはなりません。

そのはじめに徹底して、からだと自然の繋がりを断つプロセスがありました。

しかし、依然としてからだは無くならないし、人は死にます。

宗教もそれに応じてからだを完全な意志で封じ込めるスタイルに変化してきました。

つまり、社会が成功や富と言う他者に比較した成功物語を賞賛している間に、宗教は自分が存在している事の実感をselfやmind中心にして、成長の物語にする方向です。

普通の生活の中には、死は滅多にありません。

この死を扱う仕事を宗教が引き受ける事になりますが、そもそも宗教は葬式が仕事じゃない。今の葬式坊主だって江戸時代からの習慣です。

この日本の近代化以前、江戸のからだや文化は世界を見回しても特異な発展をしたようですが、僕たちからすれば想像もつかない人々でしょう。

我々は死という自然現象を社会から切り離し、人間の「からだ」と言う自然現象の管理出来るところをいじくり回すうちに、からだは操作し、支配すべきものと言う欲望に沈んでしまいました。そうしてからだは自然現象から精神現象に変化していきます。


最近は「山界」と言う山に暮らす人々の出会った不思議な体験の本が売れているようですが、似た話しは世界中にあります。

急変する自然現象に今、世界中が翻弄されていますが、ほんのすこし時間を遡れば、峻嶮な岩山や、深い森、音の無い湖に想像力を働かせて伝説を作り、精霊や竜、魔物や悪霊を想像し、その物語では人が動物や魔物に変わり、動物が人の言葉をしゃべる。

そんな物語が世界中で語り継がれていました。それは異民族の侵入に対して表現されただけではなく、人間の意思ではどうにもならない自然現象を恐れの対象と自覚しているからでしょう。

つまり、精神や意識を都市化に適応するように押さえ込もうとしても、想定外はなくなりません。

そこで、魔術を科学に変えて世界を説明し、都市化をより加速しようとします。

結果、現代社会では魔物や精霊は科学に討ち滅ぼされてしまったように思い込んでいますが、そんな事は出来るはずもありません。

精神的安定の全体性には、オカルト的な精神世界が必要で、原子力テロリズム、詐欺から戦争まで手に負えない現象もセットになって含まれています。


そもそも生命とはなんでしょうか?

 


楽器を操る運動の感覚全ては自然界に存在します。リズムや音程、速度や終わり方、余韻の作り方も全てです。

身体は自然界を模倣して作られているようなのです。

日本人には虫の音が情緒あふれる音として感じられる。自分と虫の間にはっきりとした繋がりとしてはたらきます。

岩山の間に吹く風の音からは太古から吹き続けている風の音を感じます。

その時、身体は感じるように変わっていきます。


からだを発見する視点は、この感覚の出所にありますが、それは後に話すとして、先ずは精神化した身体と自然界をこじつけて見ます。


例えば自然界と身体を置き換えて見てみましょう。

冬の入りは身体の水分、乾きの時期でしたが、海がそれぞれの河川から流れ出る水の混じり合う関係性の場所だとすると、河川は身体の血流やリンパ、汗腺に相当します。


病にあたるのは、河川から流れ出る湾岸の環境変化だとしたら、漁村の貧しくなったり、豊かになったりする生活を表しているでしょう。

簡単に言うと肌荒れや、アレルギー反応といった事態に相当すると言えます。


沿岸の生態系や、災害は川から流れ出る栄養分、生物の交流、水量によってきまります。

体内環境と同じですね。


ところが近年、日本中沿岸漁業は次々と干上がっています。

勿論そこには魚たちの餌がない。水質も悪いと言う問題があって、その元は森がなくなったって事ですね。


戦争中森の木を伐採し過ぎて、地すべりは起こるし、水害が増えた。そこで戦後建設省がダムや堰、発電所を作った。

うちの祖父の家も、台風の日にその堰に溜まった岩で潰されかけ、近所はほぼ全滅しましたが。

ダムが出来たことで土砂が川底から溜まってくるし、河口の形も変わる。餌の昆虫がいなくなるから、サケやマス、ハゼなどもいなくなる。更には生態系が貧相になればワシや動物達も餌がない。

動物も虫も居なくなって生命が行き来出来なくなれば森は死ぬ。

回遊魚のサケは、最後に生まれた川に帰り産卵して死ぬ。それがコケやプランクトンの栄養になり、虫が食べ、その虫がサケの餌になる。

森にはそんなサイクルが張り巡らされていた。

ところが、都市化した人間はその生態系の中に自分達がいることすら気付かず、無造作に手を入れてきた。


森の生態系も林野庁主導の痩せた杉林は暗いだけでほとんど栄養を作り出せない。

生命もいないから、死骸を分解して栄養にすることも出来ない。

これは、そっくりそのまま身体の中で起こっています。

林野庁の植林は、身体では薬品による体内イオンの偏りですね。

林業なんかは、森を壊すだけ壊しといて利益が出ないから、輸入しようと言う事になり、台湾やインドネシアの森を伐採してほとんど日本が買い上げた。

結局ほかの国の生態系まで壊しちゃったわけでしょ。

勿論二酸化炭素問題もあります。

他にも携帯などの希少金属を輸入する為、日本企業は世界の非難を浴びながら黒人奴隷を使ったり、逆にアメリカは発癌性の禁止農薬を使った食品を日本の子供達に食べさせたり、在来の種子を遺伝子組み換えにさせたり、もうぐちゃぐちゃです。

これは自分達の身体が海や森のように他者の身体と繋がっている現象そのままです。


現象の関係があれば潜象の関係もあります。


例えば、海の汚染は性の異常と繋がりがあります。

女性には月のものがあります。

月経ですが、満月は身体の作用が強くなり、新月には感情や精神作用が強くなります。

それは潮の満ち干き、重力作用と言われてますが、出産もこの満潮、干潮のリズムに引っ張られますね。

生理作用は海のリズムに同調していますが、同時に音楽的にはリズムを正確にするには耳や頭が狂っていればダメじゃないですか?

身体に不調があってもついていけない。他の演奏者やホールの環境にも作用される。

身体全体の問題ですが、主に系統としては性のエネルギーの扱い方、創造性に関する事になります。

その繋がりは性の問題、出生率とか、男らしさ、女らしさ、性病といった問題にリンクしてくる同調性があります。


カバラでは、人を樹に見立てました。

地上に伸びる大木も全ては根っこを深く広く伸ばし大地に根付く事で命を生かしています。

全ての樹木はこの一つの地球と言う地に根付いていると言う意味で命の根源は一つしかないと言う事を表しています。

人間もまた一人に一つの命ではなく、一つの命に繋がることで生命活動を行っていることの象徴です。

身体の直立二足歩行の軸線もまた、樹木のように一つの命に繋がる事の象徴でもあるかも知れません。


それが人の認識作用の理解の仕方でしょう。

生の流れが河川、生命が樹木だとすると、精神はそこに暮らす人々の関わり方や、林野庁環境庁などの自然に対する認識と政策にあたります。

彼らが弄る(いじくる)その海の水は世界中繋がっているし、森一つなくなっても、生態系は世界中に影響し、人の暮らしに影響がでる。大気汚染などでよく分かりますね。人は環境にしてもからだにしても病を得ないと、その関わりが自覚出来ないのかもしれません。


それから、深さ。

いつも現象に現れた不都合や病、つまり河口付近の災害ばかり観ていると眼が浅くなるけど、上流に遡って森との繋がりから、地球上の生態系まで視点を持っていけると深くなります。

その感覚は感じただけでは力になりません。

だから、左の腿がしゅわしゅわ感じたー、じゃ力はないので、生命現象を表す場所につなげる。その時「観る」と言う作業が入って変化運動を生み出します。


自分達がやっている事の、それ以前に何があるのか?を考えれば技術を積み上げる事が出来ます。


例えば、みんな初詣に行くと合掌して柏手を打ちますが、実は神道では合掌した時指先の高さを上下に少しずらします。

合わせた手のずらし方で、お腹に全体的な丸みを帯びる方と、偏りが強く出る方があります。

簡単なところで、手を打ってみると分かりますが、耳を感じたら、お腹が丸くなる方は片耳になり、お腹がずれる方の音は両耳になります。

つまりずれた方が両耳にちゃんと聞こえます。

 


ちょっとディープな話しです。

認識する。理解する。と言うことを求めた時、実は〈耳〉が止まっています。

逆に耳が運動していると、理解と言う事に焦点を合わせる事は出来ません。

これは、認識や理解が視覚的な空間性のものだからで、その連続を時間と認識していることを示しています。

アニメだと一秒間に最低7枚の絵がないと動いて見えないと言いますが、おそらく一秒間の7分の1の瞬間に視覚的なシャッターをきっていると言う事です。さらに7分に1回集中の波があるとも言います。

その止まった空間に音は在りません。

小さな声でぼそぼそ話す子に、耳の運動状態を体験してもらって初めて本人が「私は人の話を聞きたくないんです」と気がつく事もあります。

耳が止まっていて、人の声の響きを耳の外で遮断していたのに気がついたのです。

遮断していると自分も相手に声を届けると言う感覚にはなりません。

楽器を持つと、聴く人の手前で音が止まったり、聴く人の体自体が薄っぺらくなっていく現象となります。

人の話を聞くにしても受け入れるのと、ただ聞くのは随分違います。

意味を考え理解するには耳自体の感覚は止まったまま、中に集中が生まれます。

言葉だけを聞く時、聞きたくない時、耳は小さく、穴も狭くなり顔や頭の形自体が変形します。

そこには対象を受け入れるか、受け入れないかがありますが、音楽でも内容、意味を聞けば感覚的な音を聞けないと言う事です。


音を全体的に受け入れている時、身体は両側面から消えて中心だけが残ります。

左右空間とその境目に出来る中心の関係ですが、これは先の柏手で身体の左右をずらして音を中心に響かせる事の関係です。

息の長さもまた耳と関係し、中心の深さとも関係しています。

息が長くなる程深く、蚊の飛ぶような些細な音に対する集中も増していきます。


これは、友人と研究しているあるチップを使った実験で、空海が日本に持ってきた両界曼荼羅を研究した時の事です。


結界を作ってその空間いっぱいに曼荼羅世界を立ち上げます。

この両界曼荼羅は宇宙そのものを表わしていて、胎蔵界曼荼羅は裏の世界、金剛界曼荼羅は表の世界を表していることがわかります。

その曼荼羅の中心に視覚的集中の焦点を合わせようとすると、外縁に飛び、外縁に合わせようとすると中心に戻ります。

また焦点を合わせた対象は消滅してしまいます。

ピントを合わせるか合わせないかの薄い境目にこの世界は存在し、時間認識はこの境目にあるから流れ、その世界の空間に充満する生きた微粒子は神とか仏と表現するしかないエネルギーで満ちています。

この曼荼羅世界は表裏の世界で、そこには濃密な感覚が隠されています。


ちょっと整体的な話しですが、この世界を体験している時、身体の活点(生存状態を表す場所)は、すべてが生きた状態になります。普通はこんな事有り得ません。

完全に集中自由で肉体の癒着は解放され始めます。

この曼荼羅が誰のどんな経験によって作られたかわかりませんが、驚くべき世界を内蔵していることは確かです。


こうして自分の耳が普段いかに止まっているかがよく分かりましたが、本来の耳の集中感覚はそれ自体が流れていて、僕たちが自己認識=音を細分化しながら聞いてる事で阻害されているのです。


迎え入れるか、入れないか、意味に集中するのか運動に集中するのか、互いの関係をどうするのか、日常の言葉にしても自分の身体が迎え入れる事の出来る言葉と出来ない言葉があります。

デジタルの音はどんな耳で聞いているでしょう?

お正月に聴く除夜の鐘を、昼間に聴くとどんな感覚の違いがあるでしょう?


元々感覚は差異を感じ取るものですが、成長と共にあれとこれは同じ音、同じ意味と象徴作用を働かせ始めます。

でも、意味や違いの概念が無い赤ちゃんには、全てが異なる体験として感じられているはずです。


友人の話しです。

釧路のあるアイヌ集落では、山で遭難者が出ると救助隊員がそこらへんの婆さんを捕まえて、地図を見せ「遭難者はどこにいる?」と聞きます。

「ここだ」と婆さんが指を指すと、救助隊はその場所目指して急行します。

この時の地図はただの地図です。

婆さんは地図の山と実際の山を照らし合わせるまでもなく、言い当てます。

ただ地図の中に一点、人気(ひとけ)の違和感を感じ取るのは婆さんには何でもない当たり前の事です。

去年亡くなった集落の長の爺さんは全盲だったので、友人が障害者年金を貰わせるため役所に連れて行きました。

役人が視力検査をしましたが、全て当ててしまい貰えませんでした。

爺さんは、その役人の頭の中の声を聞いていました。


アイヌには、文字がありません。お金への興味もありません。後に何も残さないように死んでいきます。

これは縄文文化圏では当たり前。


世界各地で、先代の人類が暮らす土地に文明が入り込んで壊してきました。音感一つとっても、文明以前の人類はどれほどの差異を感じていたのか、想像できるでしょうか?

彼らが何が何でも大事にしていたのは、感覚の体験の豊かさでした。


武術の世界では、同じ北海道に縁のある合気道、その元になった大東流合気柔術に佐川幸義師範と言う達人がおられました。その佐川師範と弟子のエピソードを作家津本陽さんが「深淵の色は」と言う本にされています。

佐川師範の体術は武術家としては世界でも並ぶもののない境地に達していたと言われます。その境地への道のりには驚異的な鍛錬がありますが、その工夫の方向が実現したのは「自己を使わない」一切の意思も力も使わない体術でした。

その事に10代で気づいていたと言うのですから、武術家に成るべくして生まれてきた人は違います。

 


現代は情報化社会でイノベーションだとかITソリューションだとかカタカナばかりで口先ばかり聞こえてきますが、要は変化しないもの体験しないものを指していて、意識はそれに対する「定点」の役割にすぎません。

だから意識の対象にしている問題はいつも変化しない情報です。


達人とは真反対の方向ですね。


ただし、馬鹿と鋏は使いようと言いますが、いわゆる重力軸のからだにおける封じ方や、発見には役に立ちます。

それが何を意味するのかに続きますが、ここから意識の内と外、意識の殻の外に働く無意識世界の運動の話し・・

また来年。

 


皆さま良いお年を。