はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

リアリティに触れること


   「常識を疑う事・・・紀元前の医術」


人類史の中で今の自分達を考えるととてつもなく特異な異常事態だと、やっぱり結論してしまっても良いのでしょう。
その中心は生態系の破壊、と言うよりは経済至上主義に呑み込まれた共生思想とか、行き過ぎた科学や合理性、色々な視点があるのでしょうけれど、中心にはいつも個人の心と身体の問題があります。
それは社会問題の始まりと終わりにおいても。

  人類の脳とか意識はその発生から大きく変化しているんだよって話にはそれこそ何百回となく触れているのに、そんな壮大な時間の問題より今この身体と心の問題でしょ。と ,目を背けてしまい想像してみることを面倒くさがっていたな、と思い直すことがありました。
  もともと数字で想像する事も覚えることも苦手ですから、人類の発生が例えば500万年前と言われると、ほーそーか~ …終わり。なんですけど自分の人生が四十年だとしたら1250000回生まれ変われる。
 やっぱり実感わかないですね。
 西暦始まってからを1とすると2380回。
目の前に5000万円の札束があって、自分の人生が40円と考えると分かり易い。
日本だと弥生時代が終わってから1800回。。
まあそこじゃないんですけど 。
 問題は人間が病を問題とする以前に自意識の発生或いは変容があったはずで、それが意外と最近の事だなと思ったわけです
ヒト属の発生がおよそ200万年前として、歴史に病と治療の登場するのが2500年くらい前。
生老病死を課題にしたお釈迦さんが産まれる前くらいの事。ヘロドトスが歴史において王の病が神殿?を作って癒えたと記述している頃からの話ではないかと思います。(立ち読みなので曖昧)
その頃ペルシャゾロアスター教がおこり、インドにおいてはアーユルヴェーダがその100年程後に、医学の父ヒポクラテスもそのすぐ後に生まれます。
そして500年後にヒーラーイエスキリストが生まれますから、この頃人類が初めて病と直接対峙したとみて間違いないでしょう。

病は前1000から前500年の間に西アジアから各文明に広がります。
農耕社会がもたらした食生活と人口過密がその原因とされているますが、戦争や交易による文明圏間の交流によって拡大する病と社会の間に相互依存の関係も生まれました。
当時の各部族間に生まれ始めた感染症の流行と免疫の確保は、地域の人口をコントロールしたり農耕集団が余剰産物で地域防衛の為の武装集団を雇うなど、病と免疫のモデルを社会に適用し、他の部族と交流することで免疫を持っていない部族に新たな病を感染させるなど戦略的部分もあったようです。それが時代を降れば植民地時代に、多くの先住民族が滅ぶ元にもなりました。
日本でも大陸からもたらされた病は脅威となり鎌倉期が終わるくらいまでは社会を不安定にさせる要因となっています。

少し遡って紀元前4000年にメソポタミアギルガメッシュ叙事詩で知られるウルク王朝が興ります。
シュメール文明自体は前9000年頃から登場したとか、5000年ころから居住したとか言われ人類の最も古い文明です。イラク戦争で知られたサマワがこのウルクの首都でした。最も早く生まれた文明の一つが21世紀初頭には最も遅くに成立した国家に蹂躙されるとは、切ない話です。叙事詩の主人公ギルガメッシュは実在したウルク5番目の王で伝説化の過程でとても興味深い大洪水の話しが盛り込まれています。
ギルガメッシュの話に出てくる大洪水は前5000年頃の事でしょうか?その頃地質学ではヨーロッパが隕石の落下で大洪水にみまわれたと言う話があります。聖書や各文明の神話からして何度か大洪水はあったようですが、同じ洪水を指しているのかは定かではありません。
叙事詩と聖書の大洪水の記述がどんな経緯で関係したのか複雑のようですが、創世記のノアの方舟の話しと同様な記述があります。現在の研究では5000年を前後してメソポタミア全域に大洪水があり(旧約聖書の箱舟が辿り着いたアララト山は古アルメニア語ではマシウスと呼ばれ解説によればこれはイラン高原西方のピル・オマル・グドルンで、前257のベロッソス版ではアルメニアとなっている)その後、前2400年頃ウルク第二王朝ではじめて国土の王という概念が発生し、戦争においてもはじめて都市の破壊が行われます。
この洪水前後で王の在位期間に大きな違いがあります。文献通りならとんでもなく長命で研究者は検証に四苦八苦して来たようですが、洪水後しばらくは我々の常識的な寿命を前後し、前1000年頃には常識的な寿命で落ち着きます。
ちょうど疾病が文明社会に広まる頃の事です。日本では縄文から弥生に移行する頃の事。多くの移民が海を渡って渡来します。疾病とともに。
ここらへんの歴史ロマンと言いますか、多くの謎について興味は尽きませんが、今回の問題は人間のどのような変化がこの社会の変化、今の文明の骨格を作り上げたのか?あるいは病の多種多様化は人間の変容とどう関係しているのかというところ。
社会学的にはいろいろな指摘があるけれど、その社会を選択した人間のメンタルの部分を想像してみると、例えば我々が縄文人のメンタルを想像出来ないどころか、江戸時代人のメンタルも理解し難いように、紀元前の西アジアとなると更に困難かもしれません。
しかし、現時点では「トンデモ」かもしれませんが、それらの理解は当時の生活状況、食生活や住環境、風土といった外部環境だけでなく、どんな身体性がどのように対応していたかを知る糸口として、我々の遺伝子の中に当時の疾病と免疫の記憶は在るわけで、マインドの中には200万年前からの情報が在るわけですからアクセス出来る人間がいてもおかしくはないのです。

 疾病が登場すると同時に病は生存スタイルにおける問題の反映または具象化されたものとみなされました。同時に医療技術や思想も生まれます。
ちなみにアルプスで発見されたアイスマンは前3300年頃生存したものとされています。
アイスマンの「背後や脚には刺青の跡があり、その位置は胃?嵜、三焦?嵜、腎兪、崑崙など腰痛に効果のあるツボの位置と一致しており治療をした痕と推測されている。」腰痛を疾病とは言わないが、高度な治療法があったと推測されている。
ただし、これについては、「神代文字」の治療家、片野氏が著作の中でその有効性を実証されているようだが、ある種の祭祀を行わないと効力を発揮しない。そこにツボや経絡と言った考えがあったと断定するのは早計だ。しばらく実験した結果、有用性は疑い無いが祭祀を絶対的必要条件とする形態で、治療法としての概念で行われたのか疑問に考えています。
前500年前後はまだ祭祀と医療?と言っても文明によって主に体質観察によって人間理解のスタイルに違いがあっただけのようで、仮にアイスマンの技術が医療であったならヒポクラテスは無いだろう。。と思いますけどね。。後世に残ったとすればユナニ医学かアーユルヴェーダ。祭祀と医術を切り離したところでアーユルヴェーダのように生活指導と宗教儀礼が混在していたでしょう。 (で、実際の話、病に霊障と言われる現象の占める割合が極端に増加している現代日本は、治療家にとっても命に係わる切実な問題なのですが、前500年頃治療の技術としての祭祀は現代人の我々が考えるより遥かに現実的だったでしょう。もしかしたら我々は病の発生時点から病を紐解くにも、本当はかなり見当はずれな視点から人間を捉えて、身体症状を理解しようとしている可能性があります。。

 人間に対する観察、理解の視点に限っては時代を追うごとに単純化、簡素化されていき現代に至ると言った印象です。
その病に対する思惟は、本来人間にはこんなに多くの病苦は無かった筈のものというかすかな記憶が背景にあったでしょう。文明社会はせっせと病気を作り出し、経済を活性化し潤わせる為に利用するマニュアル作りにも成功しました。今や病は自己表現の一つの物語として利用出来る程次々に登場し消費されていきます。
そんな文明の友を、いつまでも我々の文明と切り離された人類共通の敵という認識にしておいて良いのかな?という話です。

 ある老夫婦のご主人が癌を患って数年、次々転移しているのだけど、最初の癌が末期に差し掛かった時、愛犬が身代わりに癌で死んでから一旦落ち着きました。しかし働きながらホルモン療法を続けるうち別の癌が進行しいよいよ元気を失います。  
ご婦人は元々医療従事者だったこともあり薬を大量に飲ませれば回復すると信じたのだが、かえって呆けが進行し介護に負担が倍増しました。 ところが、いよいよご主人は食べれなくなり薬も吐き出してしまうので薬を飲むのを諦めたところ、かえって呆けはなくなり、普通の会話が出来て排泄も自分で出来るまでに回復する。
 そうなると納得いかないのがご婦人の側。長年溜まった旦那への不満から高血圧の薬を飲むのが日課だったのだが、看病を始めて膝が痛くなり心臓に対する薬の負担は日に日に増していたところ、ご主人が薬を止めて負担が減ったものだから不満の反動が自分に返ります。 病院で医師にこれは珍しい症状です。一刻も早くペースメーカーを入れなければならない。と言われた途端寝たきりになりました。医師に自分の過大なストレスを認めて貰えたのです。もちろん入れれば元気になるでしょう。
そのご婦人と医師、医薬品の関係は通常信仰と呼ばれるものです。西洋医学と同化していると言えるでしょう。

 現代人はインスタントに慣れてしまって身体まで便利で楽な方に扱うのが当たり前になってしまいましたが、一番便利に思っているのは医薬品業界や官僚の側でしょう。
 身体は一体何に属しているのでしょう?
江戸時代後期の蘭方医の話がよく漫画や小説になっていて、大抵漢方医は悪者になり、更に時代を遡れば病に罹った若君や姫を祈祷で治そうとする話が滑稽と嘲笑を誘うような書き方をされています。
その時代に迷信がなかったとは言えませんが、たぶんに「生き方」をめぐる病と医術の観点の相違でしょう。
同じ治りました、も両者では違う身体とその後の経過になりますからね。
 果たして便利でインスタントな病と治療の関係は正しいのでしょうか?いや、正しいなんてないですね。ただ人間に対する観点が異なる結果を生み出すだけで、どちらが正しいではなくただ異なる観点と結果があるだけです。
 そう言えばこの前のNHKスペシャル?で腰痛の80%は腰痛は怖いとか、直ぐに医者に、とか手術でないと治らないと思い込まされたもの、と言う実験をやっていました。(思い込みが無くなると腰痛は消えるという)
被験者の半数はヘルニアは一年も経てば勝手に治ると教えると治ります。次に残りの半数ほどは動かさなくなった腰をストレッチなど動かすと治ります。ここで85%が治っています。
ヘルニアはほっとけば治るけど、手術をした腰はその場所が運動しなくなるし、実際本当の腰痛は二割くらいだと思います。そしてその二割は腰痛を治すと厄介なことになります。
 この話も思い込みが現実を作る。という身体観の一種です。思い込みを提供する側が作った身体に患者さんの反応した結果が、現実の腰痛という実体があるように見せかける。最初は医療ニーズを増やそうとして宣伝したのだけど医療保険負担が増えすぎたので、医療費破たんの前にネタばらしをしてみたらこれまた極端に患者が減ったという。ニュージーランド?でしたっけ?とても面白い社会現象です。

例えば、僕は鼻の問題をもって生まれたから、何れ心臓に関連してご臨終となる可能性は高い。これが所謂寿命です。これまでの打撲の頭頸関節や骨折、蜂に刺されたり事故をしたり、それらの問題が出る時期、必ず心臓が異常を起こす。人生での出来事はその意味でも連続している。
例えばアトピーの人は治まったとしても目や腸に問題を起こす。最後はアトピーの元にある肝臓の問題で終わります。その間、出来事は肝臓に集約される形で連続するでしょう。
上の腰痛の例で言うと八割は治してよいが、残り二割はその身体の来歴から慎重になった方が良い。それは病全般に言えます。

東洋医学と西洋医学の違いの一番の違いというか問題点はwikiにもありました。
wikiにこの指摘が在ることに少し驚いたのでそのまま引用させていただきます。
以下引用
通常医療は、自然治癒力を活性化させることを最も苦手としているとアンドルーワイルは指摘した。 通常医療において使われている概念はせいぜい「免疫」や「恒常性」であり、ふつう医学事典に「自然治癒力」という項目は存在しないといったことは定方昭夫の文献でも指摘されている。 さらに言えば『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』の記事でフランツ・インゲルフィンガーが「医師がかかわった病気のうち85%は、”自己完結的”(実は医師が関わらなくても、自然に治癒してしまうもの)である」と記しているように(西洋医学では言語化自体ができないでいるが)実際には人体には明らかに「治癒系」と呼べるものが存在している、と指摘されている。結局、西洋医学は「循環系」や「消化系」や「神経系」などの系については理解してそれを言語化できているにもかかわらず、その同じ西洋医学が、治癒系については全然理解しておらず概念化・言語化すらできていない、ということなのである。例えば医学事典でも「治癒系」という項目すら立てておらず、西洋医学では医学校(医学部)の履修内容でも「解剖学」「内分泌学」「物理学」「化学」などの科目は存在するのに、現に明らかに生体に備わり存在している、病気からの回復を実現しているしくみ(系・システム)について教える科目が最近までただのひとつも存在していなかったと指摘されている。西洋医学の教育体系では、治癒系がひとつの統合されたシステムとして教えられていない。治癒系のごく一部の機能が(例えば免疫などが)、バラバラの科目の中でバラバラに教えられているにすぎない、というおかしな教育体系になっていると指摘されているのである。


東洋医学では身体観が診断と治療法を両立させているのに対して、西洋医学では診断と治療法が分離し、医師が病巣を切って取り除くか、治癒系への理解なしに反応で組み立てられた薬品を売り込む医療品メーカーに丸投げされている。
何故西洋医学の身体観では治癒系が生まれないのか?
アーユルヴェーダの根本にはこの仕組みをアートマンからの乖離と同化の現象と見る人間観が存在している。
アーユルヴェーダ自体が実は前五世紀にヴェーダ聖典)から医療を切り離そうとした試みだったのだけど、方法だけを分離させた事で衰退してしまう。
千年前に編集され始めたヴェーダから医療知識を切り離そうと言う発想が生まれた事自体に病巣の始まりを想像するが、ウパニシャッドを読んでみると、まあ、仕方ないよね、というところはあるから、ここはなんとも。。
アートマンからの乖離が病の始まりという考えはまた、都市生活の発生と共に思想と技術の乖離として表現されはじめる。
治癒系は何らかの接触からなるのだけれど、でもそれは病の構造的な仕組みを解析すると言うことではなく、具体的な物理の世界でもない。
 一個の人間の中に起こる出来事は、一個という全体から分離した世界だけでは解決できなくて、一個をとり出せばその一個の外にある理があって、それが決定的な影響を及ぼしながら、人間の行動やありようを取り仕切っている。そんな見えない真相の働き、身体のあり方の方に着目しなければならない。 
各文明の発生を宗教思考が支えるのはこの生存の為の同化の働きで、祭祀はそのリアリティに触れる為、多種多様な感覚質に触れることの表現技術の一つと言える。
別の見方をすれば一個は全体の現象を背負う。それ故に現実は自分を取り巻く人間関係の範囲に起こる出来事にいつもほんの少しの責任を負っていて、自分と無関係なものは無い。
同化現象そのものがアートマンの属性であるなら、自分に属するあらゆるものを剥がし、そぎ落とせば残ったものがそれなのだけど、その周辺に病と死の現象に現実的な対応をする為の現実的な技術も必要になる。属性の表と裏が複雑に絡み合った問題が生まれますから。つまりはまあ簡単に説明してしまいましたが、ここまでは紀元前の人間観に見られる事でも在るわけです。
ところが、同じ時代でも西洋医学の祖であるヒポクラテスの医学が生まれた背景は前6.7世紀の植民地開発によるもので、既に戦場に必要な外科学と創傷療法は前9世紀には存在したと見られている。この外科学と同様な合理的内科学がこの時代に必要になって観察し合理的に推論したけれど、4体液説を打ち出したところで治癒系を見つけ提示するところまでは届かず、神殿での祭祀の代わりに料理人を医学の源泉としました。
こうしたギリシア医学の戦場での合理性追求と言う遺伝子は現代にも通じ、広範囲な身体観に影響を与えています。

人間の理解を超える問いに対する答えを見つけようとして生まれた身体観と、戦場で兵士を効率良く使い回す為に生まれた身体観の違い。この2000年という短い歴史の中でどちらも生存の為に、なくてはならない試行錯誤が多くの人々によって繰り返されてきたわけです。
もし世界から戦争が無くなれば、その時は医術を含めて本当に人類が進化しているかもしれません。

 今回は前5世紀から紀元後の間におきた医術と病の問題に対して、救いとしての二人のセイントお兄さんが、何を問題として、どう答えを提示したのか?病の発症に深い関係のある人間の思考が、人間にとっての道具だった時代から自己認識と癒着を起こす過程の時代に、そこからの解放をどう示したのか?について書こうとしたのだけれど、長くなってほとほと疲れて来たので前編はここまで。。
小さなiPhoneで打ち込んでいるため読みにくい文章になったことお詫びいたします。
ちょっと休んで本文に随時加筆修正予定。

後編アップ未定。。( ̄(工) ̄)