はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

思いでは繋がらない・・よ

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今朝(29木曜)仕事がキャンセルになってのんびり昼からの準備をしようとFBをみたらイザイホーのドキュメンタリー上映中の記事が!ほとんど脊髄反射的に飛び出して見に行きました。
この映画は1966年に撮影された久高島の生活と祭祀を記録した貴重なフィルムです。
もしかしてと思ったら、やはり岡本太郎が訪れたのも、この時だったのですね。
少ない農地と漁業で600人の人口が血族結婚という原始的共産体制は尚真王の頃に確立したノロによって結束している古い共同体です。
久高島における神の原義は母親であり、子供や夫の守護者になる儀式とみなされていました。この儀式も近代化の波と人口減少により、次の12年後の祭祀を最後に途絶えています。
この映画に映し出された空気は僕に日本社会が締め出したある一時期の空気を思い出させてくれました。
人が何の飾りもなく素顔で生きていくことに向き合う共同体がある時、共同体内側の生活に意識が向いている限りは個としてのシンプルな要求に向き合う以外を必要としないものです。その自分の身体は共同体と同化しているから。
それが久高島のように若者が島を出て行くようになると、あっという間に生活や地域文化は崩壊してしまいます。或いは拡大して日本を例にしても外に向く目は日本がかつて経験したような開国か攘夷かという選択を経験することになります。これは小さな単位も大きな単位も同じ。個人の身体に置き換えても同じです。
開国の結果日本には日本文化を身体化した日本人はいなくなりました。
当たり前ですが、江戸時代までは共同体が身体であって、個人というあるいは近年増えた消費者という身体は存在しえなかったからです。
その為に新たな文化的プリミティブな身体を模索しつづける「なにじん」だかわからない状況がこれから先も、何世代にも渡って続いていくことでしょう。
それでも身体は共有する基盤を持ってこの国土に生きています。春になると皆一斉に花粉症になるし、秋になると身体がしまって来ます。

今時期になると、もう骨盤が開いて来ていて身体は春を迎えます。
その準備にお腹の真ん中が出て来ると骨盤が柔らかく開き始めます。
こんな季節の変わり目は、怪我や骨折の多い人にはしんどい時期でもあります。
平日昼間に近所の茶店に行くと、年配の方同士で接骨院や整形外科の情報交換をしている場面にしばしば出くわします。年配の方達が集まる時の定番な話題ですが、皆さん楽しそうです。
こういう話題だけは、皆共有することが出来る、世代間共同体が出現します。
身体というのは1人になることが苦手です。常に誰かと、何物かと同化してこの世にしがみついています。孤独感に満たされて一人になれた時は、かえって深く他者と感応してしまいます。自分の生死までも手放すことが出来た時は、生命の基盤になっているこの世界と感応してしまうのですから、本当はどんなジェスチャーも記号も同化から目を逸らすものでしかあり得ません。他者から見た自分に依存する部分や自分の見ている自分は、常に間違っていることが空間を共有する前提です。
腰が痛いわね~で出来る刹那の共同体は記号同士の交流程度の価値でもちろん何の問題もなく親交をあたためるには良い話題ですが、これが大きくなると大変です。
中東三国を悪の枢軸と言ってしまえば、そこで生活する人達全てを悪で括ってしまい、テロの犠牲になったアメリカという二つの記号の関係は戦争という答えにしかならない構図に似ています。お互いが自分と他者に対して間違った視点でいます。
自分の身体をネタに出来るお仲間同士は楽しいのですが、自分の外部対象に対するレッテルが共有されると、しばしば異物排除に思考が向けられます。
ただこの外部の観念が、他者とは限りません。日常の普通な私と不都合な私に分けられているからです。この小さな共同体の場合、不都合な私に対する正義の戦い記号で共闘する仲間です。
身体は不都合によってしばしば生活や、人生の過ちを教えてくれます。もし、風邪を引いたり腫瘍が出来たり、肝臓が腫れたり化膿したりしなければ、気が付いた時には棺桶のなかでしょう。熱が出なければウィルスは頭にまわってお陀仏でしょう。でもそれらはもう一人の自分です。
もし、突然癌を宣告されたらテロにあったようなショックを受けるかもしれません。そんな時速攻焼き払うのか対話してみて自分の過ちを教えてもらうのか、共に生きるのか、選択肢はいろいろあります。焼き払うしかないは自分の身体を記号と見ているからではないでしょうか。それをブッシュレフレックスといいます(嘘です)
そんな記号からは文化的プリミティブな身体の発見には至りません。

春の恒例になる古い打撲を感じる目は、自分の身体を見つめる目が過去の傷を見ている目を見つけ洗い流してしまいたいと思っているのでしょう。
過去の記憶は身体を見る角度によってその経験を想起させるようです。身体経験の記憶は身体自体にあります。
それに気付く事で新しい春を迎えたがっているようですが、直接的に打撲を見ているわけではありません。
見る見えるとはいったいなんでしょう?
自分の身体を観る視点の構造が、外部の世界を観る構造に写し出されているように思えます。