はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

音楽以前・・精神じゃない人類その4

意識の使い方について見てきているけど、昔の日本が自己や意識をどう解釈してきたかは、「稽古」と言う芸道の思想に見る事が出来る。

そこにあるのは西洋思想家達が触れ得なかった、あるいは音楽家や画家が思想に対して語る以前に創作の可能性を求めた「からだ」と言う経験だったろう。

 


近代は精神が「身体」より優位であると思いこんできたし、現代ではその精神より脳が優位であると言われ始めた。

しかし、「身体」無くしては、脳も精神もない。だからと言って、実は何が優位と言うわけでもない。

翻って近代文明以前のネイティブやエソテリックの世界では精神でも脳でもなく、意識を「観ることと現実」の間に絞っていた。

その話しをする前に身近にある意識とからだについて、話しておかないといけない。

 


精神が優位と言う考えは、子供の躾が必要とする大人の事情から生まれた社会的要請だったと仮定して考える事もできるけれど、日本では昔から音楽や書、武芸などの稽古を躾に加えてきた。

其処は躾に含まれる大人の事情からの意識的な余分を取り除かなくてはならない自覚と接続していたのかもしれない。

この意識の働きを「はからい」と言う。

「はからい」は作為や意図の意味なのだけど、芸道においてはこの「はからい」を取り除くのが重要な現実との関係であることを教えてくれる。

 


普段使われているレッスンや練習と言う言葉は「稽古」の中では初心に属する。

西平正の「稽古の思想」はこの階梯を三つの段階に分けて分かりやすくまとめている。

 


レッスン・スキル習得

           ↓

はからいを取り除く=離れる

           ↓

生じる・得る

 


の行程で表わされている。

稽古は型にはまり、次に型により自由になり、からだがパフォーマンスを見出して、そこに始めからあったことに辿り着いてはまた始まる。

 


稽古は、躾にしては深い思想と深淵な学びがあった。

そもそも稽古はこの世の真理に触れる事を得る為でありながら、初めからそこにあったからだの生きる様により深くシフトする行程でもある。

 


例えばクラシックの演奏を学ぶ為に先生を求めて海外へ留学する。

その先生の癖のある演奏法を学び技術を習得する。

始めの段階ではこれは必要。

文化が違えば勉強する事も多い。

 


次の段階では習った事を忘れる。

世阿弥風姿花伝では「真似ぶ」から、「物真似に似せぬ位あるべし。物真似を究めて、そのものに真に成り入りぬれば、似せんと思ふ心なし」

と言う。ここに上手にプレイしようと言う意図はない。身体ごと音楽になれば学んだ事を意識する事もない。こう表現しようと思うこともない。

すると却って個性と言うものが鮮やかに浮き立つと言うことを、昔はみんな知っていた。

今でも何かに夢中になったり、演奏した時に一度はそんなマグレを経験した事のある人もいるだろう。

それを再現可能な技術にする為に、最初からの試行錯誤がはじまる。


三つの行程は人との関係の変容行程でもある。

対象と同調する→消える→整える

対象との同調、或いはスキル習得は学習の結果を得ること、整うことの前提になるが、この前提はすぐに無効化してしまう。

生きている事は変化し続けている事でもある。一度成功を達成したと認識すれば二度目は前提の未知性が欠けてしまい再現性は失っている。

そこでは対象が我と同一化して出来事は消却されてしまっている。

そこで技術的に稽古する、稽古自体を技術化し、より多角的で集中度の高い体性へと移行する必要がある。

こうすると、いつまでも初心を繰り返し、安定とは無縁な視点を生命に対して持ち続ける事になるけど、意識や意図を働かせず、未知を引き寄せる手続きが必要だ。

意識が肉体を動かす事から離れなくては、「場」に「からだ」が適当な動きをする事が出来ない。

 


楽譜が曲になるまでの不自由な弾き方を乗り越えて、からだが「場」に適応する時、意識からも身体からも「我」は消えている。

しかし「からだ」は元からそこにあったはず。そのからだを意識や身体の客観性がおおい隠している。

場とからだが響きあう、その時を準備する純粋に観る技術とか手続き、感覚のコツに気づく事が何度も繰り返しやってくる。