はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

運動と丹田のちょっとした事実


運動にはいくつもの原理原則があります。
その手始めは運動しているところとしていないところの識別から。運動しているところを使うと言うこと。
なんだけど、ちょっと愚痴るとこれの重要性がなかなか実感できない。

一般的なエクササイズなど動きの流れの拡大する中にあって動かないところを動かし始めるかの様な訓練は、その目的の動作の形になれば今度は動いているところに気を捕られて動かないところは動かないまま動いているところが過労してしまう。
運動における緊張感は実感として頼りにしやすい為、この部位に意識が掛かって動きの命令が届いてしまうとより緊張部位に緊張が集まりやすい。すると動いていないところと、より緊張して過労したところとの差が激しくなりバランスがより大きく崩れる。これを一般化できないのは個人によって故障を起こしやすい疲労の集まりやすい部位が異なることや、身体のバランスの自動的な制御が働いてより複雑な現象をおこすこと。怪我や感受性のダメージが身体に大きく痕跡を残すことなど複雑な事情を含むからでしょう。
そこで質の高い運動を実現するためには、身体を観察してその微細な変化を捉える訓練が欠かせません。
太極拳がゆっくり動くのも、立禅を長い時間かけて行うのも、ヨーガの体位や呼吸の訓練もその事を重視しています。
 例えば教室で繰り返し教える中に、初めの立姿で膝の力を抜きますが、これは膝の裏の緊張感をまずどう処理するのかという問題です。膝裏に緊張があると微妙に肩甲骨の可動性を制限してしまう連鎖的な問題を含んでいます。緊張感に対して処理する方法は質変換や消去法、或は緊張と力の分離等々直接的な複数の方法、また全体化して見れば運動速度やリズムの他、いくつもあるなか立姿条件を満たすだけの時間をとったとします。
そのクオリティは重力と垂直感を捉えれば様々な追及が出来ますが、それにしてもこれらの技法の大部分が『運動』している感覚を捉えるところから始まります。
それがないとどんな運動もやっつけ仕事になります。あるいは身体の深層の部分で実現に触れるのを待たないとなりません。
緊張感つまり始めに動かないところを動かそうとするのは不可能です。動かないという感覚に集中してしまう為、ぎこちない動きが拡大してしまいますが、動きはじめに動かないところから動きはじめるのが近代人のおかしな所です。
昔の人が重心側から動き始める。例えば階段を上る時に今の人は非重心側から足を上げますが、昔は重心側から動き始めたというのも同じです。動きのある側から動き始めるのが、身体の運動性能を活用する原則なのです。

その原則の狂いの元は「実感」についてのプログラミングです。

無意識に刷り込まれた「実感」を頼りにすることが正しいという概念が勝手に日常の運動に実現しているのです。
その実感は肉体の感覚、肉の感覚です。あるいは過去の経験と言ってもよいでしょう。これは緊張疲労や身体部位感覚の凍結の跡等今この瞬間に対応したものではないという意味です。
これは運動が止まっている事を示し、その身体空間にある感覚を侵されないことを示しています。
つまりこれを使うと運動中に身体空間を固定しながら転々と移動していく動作の実現です。
これでは身体にランダムに位置する点の移動ですから、滑らかな動きは実現しません。
固定する点は中心だけで良いのです。
中心線がオーソドックスですが、楽器演奏ならば演奏運動を支える中心です。
その中心は身体の中の筋肉には位置しませんから、固定されるのは空間上の実感が消えたものの中の中心にある運動感覚です。
どうして実感、過去の痕跡に依存するかというと、簡単に言えば安全保障、保険を掛けた運動を訓練されているからです。実感の消えた所から動き始めるという本来運動構造上自然な働きと対立する観念を、特に学校教育の中で「正解、不正解」「出来ないことを努力する」「やればできる、やらないから出来ない」など単純に戦時教育から引き継いだ、割合、教師側に工夫のいらない教育方針で植え付けられているのです。
この観念を越えないと、理にかなった身体への道は開けません。
子供の時に植え付けられた観念をかえるのもなかなか大変な事です。

毎回がんばって、質問や相談を持ってくる度に少しづつ変わる。その時々の壁を壊す答えはいつも同じだったりするのだけれど、結局演奏者は演奏の追求によって自分を壊しながら進むのでしょう(オトコ限定)。

運動についてもう一つ言えば、運動の代表として丹田について考えてみるべきでしょう。
動きの無いところを使う場合にも運動に変換する為には都合の良いファンクションではあります。
身体の勢いとか、身体が弱った時の回復力に、丹田の状況はとても大きな体力の目安になりますが、この丹田を鍛えるのに力を入れるのか気を入れるのかで大きな違いがあります。
丹田の動力というのはいったい何なのか?考えるところです。この世界にとって<運動>ってなんなんでしょう?

丹田を鍛えるといっても女性はもともと腹が座っていますから男性にとってはそれ以上に鍛えられても困るわけです。
夜中にゴキブリが出ると母がものすごい声で雄叫びをあげる。母は捻れですからただでさえ声が大きい。父と私はその声に肝が震えるわけです。みぞおちは硬くなり足元をおぼつかなくなったままでゴキブリを追いかける羽目に合わされる。ゴキブリを見て腹の底から大声を出す母と、その声に震え上がる父と息子。。

ところが、頭を使いすぎる女性は少々丹田に気が足りない様で、本来の才能を使えない。その話しはまたにしますが、頭を使うことが優秀になる世界はとても狭い世界ですね。男がいくら頭を使っても子供を産めるようにはならないように、生き物として女より無能な男化する必要は無いとおもいますけどね。

ともあれ、男性としては人間のポテンシャルを掘り出さねばなりませぬ。
武術や気功、身体全般に興味を持ってからやはり丹田と言うものを鍛えねばならぬと、オーソドックスな呼吸を使って工夫していた時期がありました。
はじめは腹部の一点を膨らましたり閉めたり。物理的に感じる熱を帯びた野球のボール位の大きさの丹田を作るところから二重にして転がすまでにしばらくかかりました。その頃は一日中丹田作りに没頭するために警備員のアルバイトをしていました。いつものように人の通らない路地に立って丹田作りに熱中して意識も丹田の中に入り込んでいる時、目の前に黒塗りのベンツが止まり窓ガラスがスライドして中に強面のおじさんたちが見えます。
しかしこちらも時間をかけてやっと入った丹田から出てまで対応する気はおきません。ひとしきり現場監督を連れて来いだことの、紛らわしい場所に立つんじゃないだことの、話の内容はどうも異様な雰囲気が目障りだと言いたいらしいのです。差し出された名刺には◯◯組組長秘書と書いてありました。名刺を持って顔をじっと見つめていると、取り上げられ何やら捨て台詞を吐かれて、そのまま行ってしまいました。
そのやり取りの間、自分のやっていたことといえば脈拍にも身体感覚にも変化なく一切の緊張が起こらない、目の前の出来事は丹田のコントロール下にあることを確認していただけです。
この頃はいろいろやらかしましてベンツ繋がりで、建築現場の社長のベンツを十トントラックで踏み潰す誘導をしたことがありましたが、その時もまるっきり感情が動かない上に気にも止まらない。もちろん責任感なんて微塵も無い。
そのことから、この方向で作る丹田は運動を止める働きに偏りがちであることがわかります。感情や思考、当事者感覚まで運動を回収する方向という意味で。
丹田の運動には運動方向と留まる方向の表裏で働きますが、一般的にはこちらの留まる働きで認知されているのが武道的世界、運動の働きで知られているのが音楽など芸能的イメージですね、もっともレベルが高くなると相当複合的に働きますが。
しかし、本来丹田の強度は確かに場の支配権を握ります。(迷惑なこともありますが)

場の支配権というのは、例えばカウンセラーには必要だとおもいます。
例えば梅雨時期には身体が受け身になりやすいのですが、通常、相談者は主張したいことがあるその背後のエネルギー過剰を発散する目的でやってきます。そのエネルギーを引き出しそこねて消化し切らないと危険な事もあります。
 今年10月に報道された三重県伊勢市の聖地自殺事件は、最も性衝動に振り回される思春期の少年少女が引き起こした典型的な事件でした。
思春期の性は死に最も近い生の時期ですが、性の活動のはじめに訪れる死という行動への端的なウーイングです。豊かな社会でのこの種の自殺は他者への自己存在の主張やあてつけの面が少なからずある。ある意味正しい自己存在の自信が根拠になっていると言うようなことを野口先生も仰っていますが、その自信は未熟で未だ表現スキルを持たない為に実力表現とならない為、自信を純粋過剰な性のエネルギーが暴走させて自殺に向かう。
思春期の女の子の抑制された性欲が自己主張に転換され自殺に向かうこと。それは死への要求ではなく強烈な生の要求であり自己主張の要求が強くあらわれ、皆の思い出となるべき場所での伝説となる身という甘美な妄想に走らせる。。
 思春期は自分のエネルギーの扱いが未だ解らない時期であるだけに感受性の整理も付き辛く相談しようにも出来ない子供は多い。それが大人になってくると少々ふてぶてしくなって、こんなブログでボヤクエネルギーに変換したり、友人との会話で発散するようになる。カウンセリングにまでそのエネルギーを持っていくのは余程の事情を抱えているのかもしれないけれど、会話の中には真実も答えも無いのだから、相手が自分自身で気づく為にも、無駄なおしゃべりでエネルギーを発散した後調和に導かれることを期待しての事だろうと素人からは思うわけです。。
おしゃべりというのはどうでも良い事ならベラベラ喋れるけれど、大事な所を言葉にするのは至難です。本人がこれこれが原因で、と言った時にそれが現状を打開する助けになることはまずありません。
だいたい喋れないことか、未だ言葉になっていない感覚的なものですから、そこで反省して次はこうすれば良いんだ。と結論付けるとまた同じ因子が別の形を取って問題になります。それはその因子を何とか掴みたいと要求するからですね。
そこで間違った問いかけから得た間違った反省を実効に移してまた頭を抱える事になります、若いうちは。
歳を取るとだんだん反省しなくなります。無駄な事だとわかるから。
大事なのはその場のアドリブです。
面白いアイデアが浮かべばよりベタ~です。
その為にもタイミングを捉えて場の主導権をこちらに移行させる必要があります。その時カウンセラーなら生理的反応をより活用する事でしょう。
例えば政治的指導者など腹の座り方が大きな資質だったはずですが、まあ今はともかく、場を支配しないとどうにもならない職業というのもあります。

先程の自殺の背後に自信がある。という話しに付け加えると、イジメや不条理によってそれ程追い込まれた時、自分に自信が無ければ自死の代わりに腹が出来るのです。腹はこの世での自分の卑小さを悟った時に象徴のように顕れ、己れの行動をのみ真理にする主観的作用と物理現象に及ぼす影響の副作用を持ちます。
追い込まれた人間がそうなると、追い込んだ人間はお手上げですから、覚悟するしかありません。

丹田の場というものは練られた丹田の機能だと思いがちですが、丹田の中に視点がないといくら練っても上下型ならば連想が高速度で働いてあっという間にみぞおちが硬くなりすくんでしまいます。
整体的には鳩尾が抜けていることを丹田が充実している目安にします。
そして、丹田の向こう側に腹というものがあります。この腹は鍛えたから出来るものではありません。
究極の理不尽、自分にとって最も大切なものを手放した時、例えば特攻隊員がくだらない戦争だが会いたい家族にもう会えない、しかも自分は人殺しをしてしまうといったような自覚がある中で突然訪れる青空の澄み渡る様な爽やかな腹になって快感に包まれながら零戦に乗って出撃するようなものです。
あるいは  荒木村重の謀反で信長に紙衣一枚で城を出て出頭した高山右近は、明らかに腹に出会ったか、上丹田まで開いたかのどちらかでしょう。
高山右近の場合はキリシタンなので中丹田の可能性も有りますが、日本の武士道との相性を考えた場合に上下丹田のどちらかと考えるのが妥当。この行動に対する信長の反応からすると上丹田の作用だと思います。
中丹田と言うのは胸骨の奥になります。
余談ですが、最近本屋で買った小型ドローンを飛ばしてみると、その浮遊感は中丹田あたりに発生することがわかります。
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所謂ハートですが、単純に日本人が「ハート=愛」と解釈するのは?です。
だって愛を感じたときは身体がフワフワするでしょ?
これと、胸椎四番の感情、胸腺の生理的作用が働いて愛→慈しむでしょう。

このドローンで何千人もの女子供を殺す時代って不思議な狂気ですよ。

そう言ってしまえば身も蓋もないですが、日本では<愛しい>を人の心に先行し在りしもの「もののあはれ」の内に類別します、可愛いを愛しいの可能性、方向の要求ですからこれはエネルギーの集中密度が濃い。可憐だ。。って云うのもそうですね。
基本的にはこの世での浮遊感に対する哀しみがあり、エネルギーの集中密度が濃くなると愛情という発散形式で「行動」「実行」に転じていきます。
ところがハートが愛ならそれは実体のない浮遊感ですから、それを愛せるかという逆説的な、つまり対象が消えた時のみ愛に辿り着く事になります。
(だから爆撃で大量殺人を犯すって意味ではありませんよ(-_-#))
実体を手放さないと知ることも出来ません。
これが上丹田まで行くと、気の繋がりがベースになるのでこの世のあらゆる繋がり、時間までもが下敷きとして見えてきます。
すると、「あなたを愛しています」というのは「あなたをゴキブリと同じ様に愛しています」とか「父を殺したあの野郎と同じ様に愛しています」とか、布団に入ろうとめくったら中にコブラがとぐろを巻いていました。その時思わず愛しいと感じる。
つまり、「同じ様に」というのがこの世の繋がりの部分で同時に全体を覆うのが上丹田の作用する愛ですね。そこには全てに何の優劣もない。
だから何をやっても結果調和しちゃう。時間における過去と未来の差異が無くなる『同様』になるから調和するのですね。いわゆる時間に過去も未来も存在しないとか、現在しかないとか言われる所以ですが、間違いというものが存在しないこの世界の原型が浮上してしまいます。
・・こんなとこでこれ以上書いちゃって良いのかな?

いわゆるキリスト教的な愛はこれです。
日本語に「愛」の概念が出来たのも宣教師がやって来てからの話しですから、当たり前ですが。
それより古いと性愛の意味ですからちょっと違います。

丹田には、本当は上中下とも腹やもっと複雑なネットワークがありますが、例えばキリスト教繋がりで天使に同調してみると、(そもそも天使って概念に身体感覚があると思ってもみなかったのだけど)中丹田だけ有りうる。胸骨と肋骨の感覚だけで内は強烈な浮遊感、上昇気流でできています。
ここらへんは日本人的な感覚と違ってある種の畏怖が織り込まれています。しかもかなり物理的な現象に介入します。この直後からしばらくの間、今年一番の奇怪な体験をしましたがそれは結局一つの顕れの背後にある特性はいつでも裏返る。人は同じ特性の見え方に別の名前を着けているだけと教えてくれました。彼等の特性はギフトですから、善悪、優劣何もなくただギフトします。これもまた中丹田のハートの特性でもあります。

・・・腹に力を入れると気を入れるの違いの話しにもどります。
実体感覚のせいで腹に力を入れるは緊張を作る方向に行きがちですが、気を入れるは、気というなにかの物体を入れるわけではありません。気は物体では無いので「入れる」という動詞が誤解の元かもしれませんが、気は繋がりだし、鍛えるためには溜めるではなく気を出す事です。中国の神仙道では精を漏らさない事を説きますが、それは精が凝ると気化されるので、気を出すことが出来るという意味ですね。例えば武術の訓練での発勁、或いは気合い術などは、出す、繋ぐ事で強くなります。
だけどちょっとでも間違えるとなかなか厄介。
ある丹田健康法の大家が下丹田の球状緊張と云う事を言いましたが、確かに強力にはなるもののいくらその運動を柔らかくやっても腹膜が緊張しすぎる。それで緊張感を丹田の実感とするようになります。それなら緊張感はまるっきり無い方が良いのです。
この実感を求めると帝国軍人になりますから。

都合の良いメカニズムの話しをしてしまいましたが、このはじめに運動と実体感覚の違いが識別されないと追及が展開しないと言うのは、僕が整体で学んだところです。丹田の体験については今年中に整理しておきたかった事のみ記しました。人生の数だけ勿論別の体験別の報告があろうと思います。そんな体験を持ち寄って深く追求出来れば楽しいですね。

以上、十行くらいのつもりが長くなってしまいました。つまりあなたが楽器を持つそれだけの運動のなかには少々考える事があると言うわけです。