はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

天才ピカソと間抜けな稽古。

前回の教室では、対人練習が何を指し示すのか、その根本的な理解にやっと手を付けることが出来た気がします。

出席された方への補足と、興味をお持ちの方の為に少し紹介させてもらいます。

今回、最初のテーマは正座で仰向けになった状態から、足親指だけで一息に立ち上がる。という運動でした。
もし忙しい生活の中、短時間に一日一つだけ、わざわざ体操するとしたらこれがお勧め。寝起きの5秒で済みます。

次に間の空気の問題です。
前回に引き続き、間の空気から身体の感覚が色々な空間条件や身体操作で変わる事を検証してみましたが、まだまだこれから多くの課題と研究の必要があるので、引き続きお付き合い頂きたいと思います。
武道における間と、日常の所謂空気を読むとか、会話の間、運動における身体の間、音楽における間、整体においても間の扱いは重要なテーマです。
間は運動しているものですが、センスの良し悪しも絡んできます。
例えばピカソがこんな事を言っています。
『抽象芸術と言う言葉は意味がない。いつでも何者かから出発し、その後に現実的な外観を取り去るだけなのだ。しかし心配無用だ。実態のイデーば絶対に消すことのできない痕跡を残すから。それは芸術家を示唆して彼のイデーを覚醒させ、エモーションを活動させるのだ。イデーとエモーションは決定的に作品に押し込められて、どんなことをしても絶対に画面から逃れることができない。それらは全面的に場所を占めているのである。たとえまったく判断できないほど、表面に現れていなくとも。
好むと好まざるとにかかわらず、人間は自然の道具である。自然の性質と相貌を強要されている。
ディナールにおける私の絵はプールヴィルての作品とほとんど同じビジョンを表現したものだ。しかしあなたはブルターニュとノルマンディーとではどんなに絵のアトモスフェアが違うかということを認められるだろう。そこにディエプの断崖の光線を見出されたのだから。
私は全然光を模倣したわけではなく、特別に注意も払わなかった。ただそれに浴しただけだ。私は観、下意識にビジョンが記入され、手が感動を定着させただけだ。
絶対に自然に反抗することはできない。自然はいかなる人間よりも強い。自然とあることが最も良いのだ。しかし我々は多少の自由が持てる。それはほんの少しばかりの箇所であるにすぎないが。』

ピカソの対象との間の取り方、間を取る深さの一端を知ることが出来る。
キャンバスに描き付けられた彼の感動は音楽で言えば楽譜と演奏者の間にあるものであろうし、茶碗は土と陶芸家の間から産み出されるものだろう。
彼が取り去る外観は、全面的にその時浴した世界に依存され、意識に関わる全てが消去される。
ピカソはその時この世界に君臨している。
彼の言葉に『結局のところ、頼りになるのは自分だけだ。それは無限の光を投げる腹の中の太陽だ。その他は全部、虚妄である。太陽を腹に持っているからこそ、本当に何かがあり得るのだ。作品とは日記を書くようなものだ。
』とある。
これは彼の実感である。
腹の中の太陽は、鍛えてできるものではなく、全てを覚悟し人生の過去も未来も全てを塵の如く受容する腹の原始的感覚だ。ピカソが人生の中で獲得した彼の本当の絵筆なのだろう。だからリアルに生きる根源に向かう。リアルなものだけが彼と会話出来る。つまり間だ。
そこにピカソの天才が表現される。
「例えば画面に2人の人物が描かれている、と言うようなことが私に興味があると思いますか?
彼らは始めは確かに存在していた。だが直ちに霧消する。その映像は初源的なエモーションを与えた。しかしそれはだんだん消えてきて、架空なものになり、ついに彼らはなくなってしまう。あるいはむしろあらゆる別な問題に変貌させられてしまったのだ。
それはもう私にとっては2個の人間のイメージではなく、ただ形であり色である。ただしそれは2人の人間というイデーと、彼らの生の躍動というものを包含した色、形であるということはわきまえなければならない。」
対象との間でテーマは消え、純粋絵画となる。
始めは確かに存在していた。だが直ちに霧消する。この対象が消えるのは観る、見る、聞く、聴く、触れる、嗅ぐという感覚の身体化で、芸術芸能文化の入口とも言えるだろう。
いきなり天才の話しで恐縮だけど、これはピカソに限らず我々が〈感じ取る時に起こっている〉事でそこからの観察の深さが意識の作る世界観を決める。『間』とはそのような研究課題でもあることを留めて置いて頂きたい。

間には色々な使い方がありまして、間を外すとか、間を取る、間抜けなども間の感覚の一種です。
武道でも茶道でも凡そ『道』の字が付くものは全てお辞儀から始まります。
そのお辞儀と間の空気が、今回のメインテーマになりました。
今でこそお辞儀は形式的な所作となっていますが、例えば西洋社会で握手が発生したように、互いのこれから始まる出来事に対する同意、協調の儀式として具体的な手続き方法として発見?発生したものでしょう。
お辞儀の生まれる間を作るのは、間抜けな身体じゃいけません。間が抜けるのは互いの間にある空気で、それは自分の身体に間があるから。俗に魔が差す。とも申します。
どんな事になるかは少し体験して貰いましたが、間抜けな身体は無頓着、無遠慮無関心。。空間ができません。
リアルな場にいないというか。。
自分もどちらかというと間抜けな方ですが、間抜けだから何故自分はこんなに無礼で鈍いのか??と思い悩んだことも(

この間を消すと礼が発生します。つまりお辞儀。
すると、鈍さ、無感覚が消えへそ曲がりも改善?!
あー師匠の言うとった通りです。。
整体だとこの礼の発生をもって始まります。
以前は一々説明していたこともありましたが、背骨を持ってこない人もいるので、まあその身体も人生ですから、時間は余分にかかりますが今ではすっかり此方で勝手にやらせてもらっています。

ちょっと横道にそれてしまいましたが、
間合いを技術として洗練して見ないとセンスを磨く事がいつまでも特別なことになるだろうと思うのです。
そんなこんなで四、五人のメンバーですが、地味に会は続いています。
あ、一応太極拳の教室です。