はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

技芸の由緒(最後の基礎編)

「個体は病んでいない。文化が病んでいるに過ぎない」

と、ある日 師は『身体は文化を求めようとしている』のだと、話し始めた。

整えるべき身体とは何か?と言うお話し。


今週、何年かぶりに岡本太郎の沖縄文化論を読み返した。
この本を読むと真っ当な感覚が息を吹き返す心地がする。
1960年当時返還される前の沖縄は、島国日本という文化の原風景を濃縮して生命の清浄で何もない素っ裸な感動と躍動感に満ちていて、岡本太郎は沖縄に恋をした。
この本は日本人が失った、その昔この島国にかつて暮らしていた日本人を思い起こさせる。

中にこんな一文がある。
『沖縄には「美ら瘡」という面白い言葉がある。天然痘のことだ。近頃は病気自体がなくなったのであまり使われないようだが。
どうして瘡が美しいのだろう。
折口信夫がこれについて
「病といえども(他界からくる神だから)一応はほめ迎え、快く送り出す習わしになっていたのである。・・・海の彼岸より遠来するものは 、必ず善美なるものとして受け容れるのが、大なり小なり、我々に持ち伝えた信じ方であった。 』
と報告している。
適切な見方である。しかしそういう過ぎ去っていく神秘的なものに対する儀礼的な気分だけでは、この微妙な表現を解明し尽くせない。もっと現実的な、一種の恐れを込めた弁証法的な表現がそこにある、と私は考えるのだ。
禍とか伝染病を美称で呼ぶのは、なるほどひどく矛盾のようだが、しかしかつての島の人には切実な意味があったに違いない。複雑な心情である。
外から来るものはいつも力としてやってきて、このモノトニーの世界に爪痕を残す。それは良し悪しを抜きにして貴重なのである。だから恐れ敬って一応無条件に迎える。・・・・・・・・・・・・・
恐ろしいからこそ大事にする。人間が自然の気まぐれに対して無力であった時代、災禍をもたらす力は神聖視された。“凶なる神聖”である。
それは“幸いなる神聖”と表裏である。
幸と不幸とがどこかで断絶し、連続しているか、それが誰にわかると言うのだろう。近代市民のように功利的に、吉と凶、善と悪、まるで白と黒のように、きっちり色分けして判断し処理することはできない。幸いはそのまま災いに転じ、災いは不断に幸いに隣あわせしている。
それは常に転換し得る。
強烈に反発し、対決して打ち勝つなんて言う危険な方法よりも、敬い、奉り、巧みに価値転換して敬遠していく。無防備な生活者の知恵であった。

生命力豊かな生活文化です。こうした世界で文化と呼べるものは作られて行く。
“聖なるも凶なるも神聖”をただ恐れ、忌避し、見えないところに追いやって老後の病院生活資金を貯める現代人とはえらい違いです。
先日人気漫画家が喉の不調から扁桃腺切除手術を受けるとニュースにありました。都合が悪いから切り取る。。それが悲しいかな私たちの文化です。
がん患者の8割が薬で死んでもそれが私たちの文化です。
文化とは感覚を育てるものです。
いったい、何を育てているのでしょうか?

希代のアジテータ岡本太郎が差し示した文化とは岡本太郎の身体が同化し、体験し、感動を発見した世界であると同時に人間が根源から要求した直面すべき生命の現実でもある。

しかしまた今の我々の生活はこの地球上で生き残るという選択肢を繰り返した同じ現実の延長上にもあり、我々が同化したこの病は何十年、何百年をかけて経過して行く“凶なる神聖”でしかない。
身体が人生の抽象であるように、この社会もまた歴史の抽象である。

以前沖縄に友人を訪ねた折、沖縄が抱える様々な問題を案内してもらった。
当時埋め立てられる予定だった美しい浜辺。切り崩されて無残な姿になった山。これが庶民の食べ物だと出された品々。
軍用地に借り上げられ莫大な賃貸料で遊んで暮らす現実。
それまで何度か行った観光では見えてこなかった崩壊する沖縄の、土地の人々の気鬱、煩悶。
いかにも官僚的な文化破壊。
在沖縄米軍の問題は、当初,縮小する方向であり、軍用地を移転して拡張するという申し出は日本側から申し入れている。
いかにも官僚、政治家のやりそうなことで、沖縄からすれば島津家に統治された頃から変わらない待遇だ。
50年前岡本太郎の杞憂していた事が現実となってしまった。

この本を初めて読んだ頃、ちょうど岡本太郎の写真展があった。そこにあったノロのおばあさんの顔は今でも忘れられない。
深く豊かな経験で世界を慈しむ哀切に満ちた本物の人間の顔だった。
その美しさに暫し魅入られる。

身体は経験を求める。
何を経験してきたかが身体を作り上げる。その経験は悲喜こもごもの豊かな世界だったのか、フィットネスクラブのマシントレーニングだったのか、身体に既成概念の健康なんてつまらないものが必要なのか、それは老いた時に顔から滲み出るだろう。
人間の感覚とは面白いもので、悲劇は振り返れば美しい感覚が胸に残る。
今のこの世界は悲劇と言うより滑稽な喜劇ではあるが、故に文化を取り巻く環境そのものを含めて病んでいる。
つまり、美しくない。

この何日か数人にバイオリン演奏の型を試しながら教えられたことがある。
型自体は演奏者の余分なものを許さないが故に、音楽が自由を獲得する。
それゆえ、演奏者の感覚経験を如実に表現してしまう。
崇高さであったり、安息感であったり、重量感であったり様々だが、意外と限られ、ここからきつい型の中で癖を自由に乗り越えるだけレパートリーが増えていく。
勿論技巧的な指導法は別にプログラムを作らないとならないけれど、僕にとってはマニアの領域で、日陰で愉しむことにしよう。
型があるが故に自由を獲得した表現者はいかに豊かで奥深い感覚経験を持つか、真っ当な文化の中に生きるかが問われる。
何故ならその文化に同化することが感覚経験を豊かにしていく方法だから。
画家には画家の、分筆業には分筆業の、染織家には染織家の、武術家には武術家の表現方法があるけれど、何れも己の余分が無くなったところに生命の花が開く。
それぞれの職業、本当はなんでも構わない。身体の美しさを発見出来れば文化は変わる。世界は豊かさに向かう。
その手伝いが、自分の仕事で出来れば良いなと思っているのです。

縁ある演奏者を志す皆が、芸術の神に愛されることを祈って。