はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

日常的非日常

身体は我々の意識しないところで、忙しなく変化し続けているし、環境や気候、場所、時間にも応じて変化しているのだから、人間同士の関係や衣食住の一つ一つに受動的な変化をするのはごく自然な事だろう。例えば、世の中的に大きな変化がある前に、身体の方が先に変わっているのも、有名な三脈法が2日以内の危険を察知すると言うのもあながち嘘ではないし、身体が時間的に先取りする事もあり得る。

他人に意思を伝えるのとは違って、感覚を「伝える」「伝わってくる」と言った経験の直接的な交換、経験に対する能動、受動の問題は現代社会が向かおうとする方向を除けば、人間の生活、生存の凡ゆる面に骨格の様な意識しない働きをしている。

昔、ある中医学の先生が針が折れた時にどうするか?と言う実演をしてくれた事がある。ある部分で針が折れたら、何秒後にここに来るから新しい針を入れて出す。と言うもの。

鍼灸の免許を持った仲間がその針を刺す役目になったのだけど、それは面白かった。

鍼灸がどんな身体世界の層に集中しているのかを体感させてもらえたし、先ず体内の針、気の流れは相当早いと言う事もわかった。

気の流れは確かに経穴で角度をもっていて、複数の点で流れを切り取って、正確な角度とタイミングにまとめ上げなくてはならない。

その技術は、実際に相手の気の流れをこちらの身体が映し取って、同時に体験するからこそ出来る。

知識では針の侵入角度までは当たらない。それに興味深いのは時間間隔で、気の流れに体格差は考慮しないのか?経絡の時間速度は一定の世界なのか?気になるとこではある。

そもそも、技術の世界が同調形式の場で行われるのは、人間の個としての部分と交流存在としての生存様素みたいなものを身体現象とするからであって、この事を対象に人間を捉える限り、整体にも昔の鍼灸にも現代医学との接点は無い。

現代医学が言うところの「治療」と言うものもあり得ない。

同調現象は親子や親しい人間の間には普通に見られるし、呼吸を合わせると言うのもそうだけど、同じ表面的な形式が同じ働きになるとは限らなくて、惹かれる異質、異形が調和に向かうもの。

しかし誰にも働いている同調が、過敏な傾向になるとこれは辛い。隣に〈あるガス〉を纏った人が座った瞬間に発疹が出るとか、他人とすれ違った瞬間に痛みや重さを感じる事もある。レジで釣り銭を貰うのも、他人の物に触れるのもあっという間に重いガスが身体に溜まるし、酷ければ出血する。

まるで世の中の多くの病人を背負ったような気分になる。おまけに背負ったモノとカズによってはキャラ変してしまうし、親族友人からも狂人扱いされて・・まぁ今もだけど笑笑・・

ところが相手が彼氏、彼女や、愛情いっぱいの親子や友人、つまり〈同化したい〉対象が相手なら過敏な傾向もキャンセルされる。

ただし影響が無いと言う意味では無いけど。

それはまだこの現象に悩む若かった自分には謎で、愛情を持つ対象には異化する反応がおこらないか、気にならないと言う事が逆に不思議だった。

過敏から鈍感になった頃、これは療術の世界なら解明されるはずと考えたのだけど、問題は人間性や文化と言った視点から観れば、同化現象の一端に過ぎない事だったと今ではわかる。

 

例えば、人間が外部に視点を置いて自分を観るつもりになる事の根本は、些細な自分の置かれた問題のある状況を全体から観る以外には、その視点を変える方法が無いからだろう。その全体を観るにはより大きな自然界のようなものから捉えた人間社会にもう一方の視点を置くか、西洋文明のような神の視点にもう一方をおくかといった選択肢が社会の合意として文明化して来た。

局処から全体性への一方的な方向性を持った視点の位置移動が外部視点、客観性は正しいと言う価値のすり替えを起こしたのだと思う。

つまり、小さな極点に集中している状況に対して大きな観点にスライドする事が、極点の集中を消してしまう。これが自由度の獲得として客観的視点の要求を生む。〈しかしこの要求は身体的な変化では無い〉

この大きな視点は例えば、Aさんが見た私はどんな人間に見えるだろう?のAさんを自然界に置きかえてると言う視点とは少し違って、実は内観的な状況とも言えるけど、そこには小さな視点に対する感覚的な識別性が無い。

自己の空間の中でAさんの客観的視点の角度、Bさんの視点の角度、Cさんの視点の角度はそれぞれ違うし距離も違う。これは空想、妄想としての反応だけど、この妄想が生まれる以前の差異は、身体のある部分でコードが繋がった様になっているところから来ていて、局所的に分類される。

これをもし全体化するなら、他者との完全な同化と言う、自己自身との同化の放棄でしか中心にはおけないし、普通は無理。

もしそこまで来れば他者と自然界の間に違いはなくなるのだから、大きな壁がある。

こうした視点の問題は宗教的には「喜」「悦」「慈」の程度問題があるだけの有り難い事になるけれど、そこには二通りあって、一つは全体化に脳の切り替えが起こり、それは全体と局処性の問題として見れば、身体現象の中でも最も精神との繋がりの強い部分では無いだろうか。

その途中過程の、言うなれば精神的な脳の欠陥的視点が「客観性」と呼ばれるものの正体だろう。

だから、外部視点の世界はマトリックスになってしまう。

 

晴哉先生は自分の身に起こる事は自分の責任だと仰る。

これはなかなか厳しい言葉だと思う。

相当な〈胆力〉が必要だ。

逆に全ては自分では無いとも言えて、この二つは相反してはいない。身と精神の中に混在して入り組んだ働きをしているから。

そこを自分の責任にしてしまうのが胆力の現象。。。

 

ともかく表面的な集注感で生きているなら、こんな事は気にならないし、それで病んでも薬を飲めば治ると思っている人が大半の世の中。

同化出来るか出来ないかは実力で、異化を穢れと呼ぶならば、祓い清めるのは並大抵の力じゃ間に合わない。

かと言って、知識、方法の捉え方、ポジションが普通の家庭で育ち、普通の教育を受け、普通に書物に触れ、普通に考えてきた人間には難しい。

体験の発見だけが、現実、現象を観る事が出来る。それは普通に一年に一度くらい起こるかもしれない事を、毎日起こる事に変えるくらい密度の濃い時間に仕立てる必要がある。

知識を組み立てるのは〈楽〉だけど、それはやっぱり苦しいからで、苦しい中に楽を見つけていく方が困難でも〈楽〉の質がまるっきり違う経験をする事を整体は教えてくれる。

そこで出会う正体不明の感覚に、稽古場の知識や経験は欠かせない。昔はその場でどうしようも無く、背負ったままで外せない事も多かったけど、今はD先生の発見で随分命拾いしている。逆にわかっている筈のものに出合っても同じものは無く、ふと気付く兆しがあればそちらを選んでいくべき世界だから正解もない。

こうなってくると、もし自分が稽古場を持っていたとしたら。どんな場を作り出すだろう?毎週3日ペースで付き合ってくれる人が三人いるとして、一年でこんな感じ、十年でこれくらい・・と妄想したりする。。

 

多分整体を一生懸命に勉強している人達の動機は腰痛や病いが治るなんて事では無く、「命に触れたい」その一点に尽きる。

それは同調の先、感応世界の向こう側にあるに違いないと思えば、確かめないと気が済まないだろう。

同調の中に入ると二重の壁がある。その壁を突き抜ければ感応世界なのだけど、そこまで行くには互いの関係や集注感、力、同調から焦点の手続きと、諸事をクリアしてトライ出来る。

かと思えば座った途端に入ってしまったり、最初から入り口が出ていたり、触れる寸前に呼吸が消えたり、細胞が分解したりと理由の分からない入り方をする事もある。

ただ言えるのは、普通に意識的努力も、精神的集注も必要とせず、何の違和感も無く同化から感応に入っていく内観に比べ、逆さまなやり方と根性で長い間トライして来た身としては、賢いやり方の方が賢い経験の積み重ねをする、と言う当たり前のアドバイスはしておきたい。(誰に?)

僕は納得した時には、疲弊しきっていたから。

(内観体が客体から離れてしまうのもまた面白いかもしれないけれど)

賢いやり方が苦手な自分が、賢いやり方を真似るようになって来ると、勿論相手もそれなりに満足するし技術とは凄いもんだと思う。

大雑把な仕事は通用しないし、だいたい感応世界に入ったとて、相手がその深さの感覚を体験するとは限らない。深さに耐えられなければ、観てもいないんだから気がつきもしない。なんかさっきまでとは違う気がする程度で意識には上らない。

でも、ある程度の体験の担保と、あわよくば感応世界の先へと願うなら、互いに勉強しなくちゃならないし、受け方を育てていかないといけない。

当たり外れが大きな以前のやり方をキャンセルして、地道に続けて内観の整理に戻ってきたのだけど、その間にも稽古場は怒涛の新展開を観せているよう。

僕はと言えば、少し進んではすぐにスタート地点に戻る何周か遅れで、それでも周りの人達に恵まれてのろのろ進んでいる。

コツを覚えると言うけれど、整体と言う形式上、見方、感じ方の導入だけでも、出来れば毎日発見し続けて、その日の身体を観察していきたい。

その中に入ればはたぶん、感応世界の「ヤバ!ヤバ!死ぬ!死ぬ!えー!ぎゃー!」みたいな寿命の縮む世界の向こう側に行った時、強烈な生命の深い世界もなんとか泳いで行けるようになってるでしょ、たぶん。。と思っている。

 

まぁそれはそれとして、例えば普通の人が整体してもらおうとやって来たとする。その人は整体は骨が真っ直ぐになれば良くなるとか、気持ちよくマッサージを受けて帰れば良いと思っているだろう。

そんな人は先ず寝る。終わった時に良くなってるし、睡眠も取れて一石二鳥と考えてるかもしれない。

しかし、残念ながら内観の世界はコンサートを聴きに行くのと同じように、演奏中眠っていて終わってよく寝たなぁじゃ《出来事は半減する》。

良い聴き手がいれば、それが一人でも演奏者は集注が深まっていくだろうけど、たった一人の観客が眠っていたなら、プログラムを消化するだけになる。

一方通行の世界はやはり貧しい。

だけど、集中の深さに意識が持続できないのだから、仕方ない部分もある。

言ってしまえば、より多くの人と身体の深い世界に入っていく為には、少しばかり努力してもらう必要がある。

僕は内観で人が観れないかと思って野口整体の世界に入ってきたし、本当の整体と言う体験を十年に一度出来るか出来ないかでいい、それも内観的集注が奇跡的に極まった時に出来るかもしれないくらいに思っていたのだけど、ただ集注し続けていた自分のやり方を変えるのに、20年近くを要した。

だから、どんな身体の見方してるんですか?整体って何してるんですか?

と聞かれても困ってしまう。体験を重ねてみるしか無いから。

その上で一生を賭ける価値があると思える人が増えれば良いなと。。