はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

身体と感受性のパターンを知るヒント

本屋さんに行くと、特に心理系に整体協会の体癖論の一部を紹介している書籍が出版されていますが、内容的にはちくま書房の「体癖」の内容を切り取って簡素化したものと言えるでしょう。
その「体癖」にしても表面のさわりを紹介しているくらいですが、複雑な切り口になっています。

僕が最初に音大の生徒達を見始めた時に、学校によって体癖的な偏りがあるなと思ったのですが、どれくらい弾けるかは、小さな子供の頃からの教育方法に対する受け取り方の感受性傾向と各々の学習環境が反映されていて、其々に進歩度合いや、速度も違う訳です。
それを18歳と言う一地点の要領の良し悪しで切り取るわけですから、上澄みの部分は前後型傾向のある人が有利になっています。
この傾向はほとんど、社会の今の価値観に適応するかどうかと言う割り切り方です。

本来稽古事は一対一の師弟関係です。その相性が良ければ上手くいくかと言うと、難しい問題は山積みです。
互いの意図するところや、求めるもの、人間関係の築き方、好み、体調、理解力、教える技術と感受性傾向、幼児期の刷り込み、運命と直感と集中の深さと波、いろんな要素が絡まりながら興味を保ち続けるのは結構大変な事です。

その中で対峙しているものの正体の一つが体癖と言うものです。

体癖とはなんだろと考える時、僕が考える視点は個人がそれぞれに体験する世界との繋がりの方法としてのあり方で、身体の主体と客体の始まりです。
体癖を世界が現れる為の媒体として見れば、体癖は体癖以前の両義性にある我々の自然科学的、あるいは現象学的認識とは全く異なる世界を存在へと現すものかもしれません。

この僕の視点も、僕の体癖から生まれるもので、整体協会関係なく、僕の視点からの小さな視野で見えるだけのものです。
(僕自体が協会から半分逸れちゃった、不審分子ですから、直接的な個人的見解を書くのは間違いだし、周りの方はお分かりのように意見も視点もコロコロ変わる信用ならないものであることは断っておきます)


例えば、一種的な傾向にある学生さんは音が遅くて長かったりします。
音に対してはよく聴けているのだけど、集中の対象が音色に向かってしまい、音色を経験する要求に動かされます。
勿論頭ではそれが自分の演奏を壊しているとは分かっていますが、そうしないようにと意識するほど音が遅くなります。
この上下傾向の例の他にも、集中するほど鈍くなる、つまり雑に聞こえる人、力加減がわからなくなる人、重厚感がわからなくてなんでも軽くなる人、中身が空っぽでふくらみだけに音が付いている人・・・大雑把に言っても体癖の数だけ壁があり、音楽の構成要素の中に偏りが出来てきます。

これは注意したからと言って直せるものじゃなくて、身体自体が求める集中を表現しています。
感覚世界の中で聴こえる音も癖によって違えば、弾くための運動も、練習によって効率化したその癖から始まります。
例えば、正しい音程と言うものがあればの話しですが、音程がはまらない時のよくある問題は音を聴いていないと言うことです。
その時のその場にある音、例えば空調とか、電気音や、虫の声、色んな音があるはずです。それらは自分の楽器から音が出る時も絶えず聴こえています。
それらを無視するのは自分の音を無視するのと同じです。
全ての条件は受容して同化するのがそのままを聴くこと観ることでしょ。
こういうのを条理とかセオリーと言います。

じゃあ、この不自由な体癖を封じてみるとどうなるかと言うと、感受性というのは受け取り方を限定して呼応した働きを持つものだけど、その事からの解放がおこるようです。

動作以前の気の運動と体癖が象徴する傾向は似通っています。
練習の繰り返しで、癖を中心に効率化された運動のシステムが解除されると、それまで鎖に繋がれ思うままにならなかった音が堰を切ったように出てきます。
その自分の演奏に驚愕するほど変わるのは集中度の強さですが、それぞれに発見はいろいろあって、見慣れたはずの楽譜が初めて見る音符に見えて、即興的に弾いたら、ミスもあったのに誰も気づかないし、録音に残ってないとか、作曲家の音符は中心からズラしていると見る人がもいれば、苦手だった曲がスラスラ弾けるとか、聴く力や観る力が急に上がるなどなど…
自分を縛っているものは、外して見なければ分からないものだなぁと。
でもこの癖から逃げ続けるのも不可能で、それならよく弾けるのも癖のはずだから、そこを探せばいいと言うのも一つの答えです。
そこで彼等のボスであるK先生の運動以前の気の動きを見つけてみると、「あ、そこは本番前のウォーミングアップで感覚がそこに来ると完了の目安です」って・・・天才か!
「え?みんなそうなんじゃないんですか?」って・・そりゃあ生徒は大変です笑
その場所は、まぁ何度か演奏を聴いて目星はついていましたが、実際に調べてみれば納得するところがあります。
つまり、ある程度は〈弾けるというクセ〉があると言う事です。
各個人がそれを見つけるまで癖を変えては試せば良い話しかも知れませんが、そこは何度必要なのか、どれだけの時間がかかるのかわかりません。
これ自体分かるのに10年かかっていますからね。

そこは癖から解除された時のコツから考えてみれば短縮出来るかもしれません。
そもそも名演奏家達はもしかしたら自分達と練習において全く違う気づきから始めているんじゃないだろうかと。

普段意識している弾き方や運動は、意識している限りその瞬間の即興性に乗ることは出来ません。ここは難しいところだ!って少しでも意識が顔を出せば、それは運動を阻害するものになってしまいます。
意識が知っている事と、感覚が知っている事は違っていて、でも感覚は不思議と目的を遂行する。しかもそれは無自覚な目的をも含みます。
動作の始めの意図、或いはその場に立つまでの流れは、それぞれの音楽の底を支える生きた音か死んだ音かをきめる演奏の元になっているようです。


だから稽古の大事は生活が演奏に向いている事で、上手下手はその時間上にある。
何れにしても、生徒が聞く耳を持つと言うか、受け入れる準備ができるまでは待たないとならないでしょう。

インスタントに変われる事を信仰しているのは子供だけに限らないのだけれども、一つの事に十年はかかります。
でも、有名な演奏家の先生につくのは、一緒にいて、日常の仕草や生活、空気を学ぶ、真似る事が出来る点で有益です。
そうして十年もすれば、何かが発酵する。
自分の癖の前に、そうして受け継いだ感覚があれば、運動に先行して音楽に導いてくれるでしょう。