はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

身体の空間変化・・ひきこもり自由研究

身体運動はいかにして働いているのか?

例えばその人が一曲の中でいろいろと運動を変化させて行くのは結構難しい。例えば楽器を構える前に、ある腰に触れるとバッジーニは弾けるけどクライスラーは弾けないとか、別の処ではシベリウスは弾けるけどパガニーニは無理とか、ある程度弾く前に出来る事出来ないことがあったりする。
勿論それは乗り越えるだけの練習をすれば良いのだけど、言い換えれば半分くらいは自分のその癖を乗り越える為に練習しているようなものでもある。
そのうちこの曲はこの体感にすれば弾けると言うのがまずやってくる。その作曲家が曲に込めた自身の快感のようなものがある。
よく神童と呼ばれた子供が歳をとるといつのまにか見なくなっているのは、柔軟な対応力がなくなってくるという面がある。あるいは、一時的な異常によるものがあると野口先生が書かれている。
異常を除けば、それを個性と言うか、偏りと言うか、つまりは癖が生活に対応して出てくるのであるけれど、整体ではその癖を発見した野口先生が傾向を絞り込んで12種類に分けて体癖論を編んでいる。
書店に行けば体癖分類や、もじったものが何冊も出版さるているけれど、ほとんどが「行動」の特徴に偏ったものにみえる。
しかしその観察の視点は身体の生きている事の様態観察から修正方法などの多岐にわたる発見で、身体、心理の各観察から指導、相互の関係性から、病とは何かと言う事にまで及び、各人に合わせた体操設計に至ります。
著書においては、ほぼ人間の不自由さと、各体癖におきる悲喜劇的生理反応として生命のエネルギーをどう鬱散し凝集するものかが中心になっていて、そこから、言葉の心理的技術や体周期律、呼吸を使った技法、など諸々が技術的に連環した世界として紹介されています。
そもそも、野口先生ご本人の書籍では本来各人の身体内部には元気に生きる為の調整機能があるけど、その調整機能には歪みや偏りがある。その歪みや偏りの特性が、不随意筋などに蓄積してストレッチや睡眠、食事や温泉などで解消出来るものではないことから錐体外路系運動や、調整が必要と説きました。
それが今や身体感覚を取り出して自由に体感を変化させる事、つまり分かるはずのない人の体感を共有、同調する特性の分析のみならず、集団での働きから体癖の発生、生活における身体活動、古人の動法・・・と野口家の膨大な仕事量には凡人からすれば驚嘆しきりであります。
あまりに膨大過ぎて長い間どう手をつければ良いか分からないのは、はじめた人の共通の悩みのようです。
この体癖論は身体を理解する重要な一面であり、触れてしか分からない身体の「生」の本当はどこまで深く触れるものなのか?と言う問いかけは整体体系を組み立てる骨格になるでしょう。
どうしても解きたい世界がある自分の観点からは一生研究して間に合いそうもないけれど・・
残り時間が少なくなってきて、ようやく研究の道筋を絞り始めたのでここに一部記すけど、あくまで個人的メモになっているから、わからないかもしれません。あしからず。

体癖の感受性傾向は多分反応の類別として受け入れられているのではないかと思われる。
人間は空想と言う働きと意識が内部世界の創造に関与しながら、古い時代の働きの香りのようなものを含め、作られた外部の現象(実体の無いはずのものが怖ろしく現実的な現象になることがある)が内的な認識になる時を受け入れる過程の複数同時進行の機構と言えるかもしれない。
そこに純粋な客観性と言うものを見つけ出すのは難しい。

このエネルギー運動の方向性が体癖と言うものだとしたら、体癖が自由になる時どうなるのか?
と言うより、体癖は越えられていくもの、個人の課題でもあるけれど、聞いてみると、体癖が無くなれば自分が無くなる気のする方が多いようだ。体癖は個性のある〈層〉であって個性自体は消えない。

はじめは足裏にかかる重心配分について。
整体協会にある体量配分計はないので、自己申告で何処に体重がかかっているか教えてもらいます。
あくまで主観的なものなので、実際に計ると違うかもしれませんが、そこは実感の身体感覚を優先すると言う事で良いでしょう。
(正確にどこかと言う事ではなく、足裏の感覚の変化が重要です。)

次に頚椎から順に観察して行きます。
すると、一つ触る毎に重心(足裏の感覚)が変わっていきます。
結果、頚椎、胸椎、腰痛に一箇所づつはじめのリラックスした姿勢の重心に当てはまるところがあります。
または行気で追えば、重心の揺れないところが各一箇所あります。
この三箇所は体癖に関連する椎骨とは言えないようで、現時点での集中した働きをあらわしています。
体量配分計は計器に乗っていくつかの運動動作での配分を調べます。
通常それぞれ体量配分が変化しますが、そこにある配分量の特徴で体癖を調べます。
と言っても実際は時間の経過、季節や生理によっても変化しますから、何度も調べないとパターンは読み込めないようです。
それなら腰椎を直接調べたほうが早いと言う事になりますが、もう少し掘り返してみると、姿形を変えれば重心移動に伴って三箇所の組み合わせもかわります。ただ腰椎部だけはある部分を除き変化しません。この組み合わせの傾向はキャラクターをある意味閉じた形にしています。
そこで、この箇所に肩当て(曲板)を当てると、パターンから解放されます。
つまり働いているところをより働きやすくしてやるだけですが、他の場所をつつくよりは良い運動になります。
また三箇所を必要とした全体のフォーマットを変えると次へと変化することになりますが、何れにしてもこの時点ではまだ身体自体にはまとまりがありません。
この時点で、体量配分計とは一体何なのか?
と言う疑問を抱きます。
確かに体量配分計は体操を組むのに必須とされていました。その体操は癖から生じる緊張弛緩の運動を整理します。実際は操法や活元運動などと馳せて、相互間の効用で展開していくものです。
そこで体癖やその運動と内観の関係に何処から手を付けようと思っていた時に、稽古場の先輩からヒントをもらい、紙一枚を使ってまとまりを求めてみましたが、各体癖毎の特徴が出てきます。
この時、先程の三箇所は感覚化し始めますが、各動作においては、一つを除いて先程とは全く違う重心になります。
この過程における三箇所の組み合わせは、腰椎部にまで変化が見られる事と、組み合わせに体癖傾向のヒントが出てくる事でしょう。つまり運動の選択肢が増えていることになるでしょうか。
そうすると足裏の緊張感は効率化した省エネの運動のアンカーになっています。
その一つも多少の変化はありますが、ほぼ同じと言った程度です。
既にこの時点でも例えば、打撲によって捻れていると八種的な立姿になるものが、その処理前にしゃがみ動作での共通性を示したりします。
それが処理後は十種の立姿に変化し、しゃがみ動作での重心が綺麗に踵に現れるようになります。

足裏に曲板を敷くとどうなるか?
肩当ての実験用に小型化して作った板ですが、椎骨の該当箇所に当てると感覚化します。去年いろいろと工夫して、なんとか身体の発見を汲み出せないかと、試行錯誤(てきとーに)していました。
例えば、これは生理痛や腸の炎症などお尻に敷くと痛みは消えてしまいますが、当初は何故なのか分かりませんでした。
前にも少し書きましたが元はD先生の発見で本来の使い方では内観を読み解く鍵として、稽古場で課題の一つになっています。(かなり勝手な解釈、勝手な使い方をしてますが)
その核心に身体と形と言う関係性をどう読み解くか見つけなくてはいけません。

[球面体について興味が惹かれるのは、例えば地球は球体らしいこと、人体の球体は眼球だけなこと、カバラ生命の樹やペンタクルが実は球体であること、人体内に入ったパーソナリティが球体になること。etc。それらを結ぶのは意志や精神というものである事。そして球体は閉じられている。
この事を含めてこの二年ほど身体と意識の関係について調べている]

この次に実験でわかった箇所に板を置きます。
すると、上記の姿勢以外全ての動作において足裏がフラットになります。
この時の三箇所は内観化していて、他の偏りを消し(刺激性の集中や接触が無くなります)つまり現時点での集注を構成していることが浮き上がってきます。
この反転はもう同じ地続きでありながら、全く違う身体と言わざるを得ません。
最初の配分量は多少曖昧ですが、体癖の配分をふくんでいます。
しかし、5番なのに三種とか4番なのに七種とか、その時の対応している腰椎とは異なるものです。
曲面板で動作だけを調べても何種かは分かる事になりますが、この反転からすると、足裏のその場所は三箇所以外の働いていなかった場所、運動から分離していた箇所のアンカーになっていることを裏付けるようで興味深い。
ついでに足裏全体を曲板にすると、全ての椎骨が感覚化しますが、この時腹の調律点がほとんど消えてしまいます。
この腹の調律点を見ると、何もしない時の三点に伴って虚中実が正常であれば、紙を挟んだ時点では例えば中実虚と乱れます。これは板に替えても、三箇所に板を当てても同じです。ただ全面を曲板にした時に見ていくと僅かに三箇所とも虚になっていたり消えていたりします。
困るのはこの後では活元運動にならないことくらいでしょうか。

足裏は本来手より敏感なところです。ここが通常平面と接していれば、身体のほとんどは平面化の影響を受けていますが、調うは空間化される方向にあります。
その空間に穴を開けるのが、会陰と頭頂部です。立禅でも太極拳でも股は円とうにして立ちますが、上手く出来ると、はっきり骨組み以外が消えます。
それからもう一つ、足裏の曲面も会陰の曲面も初動が解除されます。
初動の動きが止まることが内観の条件であるから、こちらには良いし、観ていると焦点のようなものがでてくる。黒と白の収縮、鬱散箇所がでる。
ところが楽器を使う場合、三箇所を感覚化すると弾きやすくなります(基本的にはその三ヶ所のうち例えば胸椎4番があるとして、その対応する場所に肩当を当てると、4番の持っていた運動制限は解除される。その4番の気の方向を解除すれば、大抵足裏の重心はフラットになり運動の中心が持っていた方向によって制限されていた運動は解除され、大抵は楽に弾けるようになる。)けど、足裏で感覚化してしまうと往々にして弾き辛くなることがあります。
足裏のフラットと呼んではいたけど、感覚化したものは気体化した感覚で、通常脊椎毎に足裏の感覚が移動して行くのは表面的な反応であり、したがって身体も全面的に追従してしまうからこれは表面。整体的には精神集中と言うが、本当の意味で身体運動ではない。
つまり、本当の身体運動で弾いている人は現代では少ない。

ピアニストが演奏中複雑な指の動きをキッチリ認識出来るゾーンと呼ばれるような状態に入る時、無意識の運動を感覚しているけど、この時表面の感覚は消えている。
ゾーン自体に現象の進行を変える力はない。
無意識を客観的に観察している主体として、体表面から分離した状態であって、身体自体は意識の介入に邪魔される事なく無為運動を遂行出来ると言う意味だろう。
この観察主体と肉体の分離はある集中の限界で起きる事があるけど、観察主体の感覚的身体が肉体の整合性(物理性)に同化する事を身体化と言い、その先に整うことがある。

子供の頃は誰でも自分の使うコップやおもちゃ、周囲の物や、世界と自分の肉体との境目は無い。他者の目によってこの肉体が自分であると認識させられる。世界は自分の内側にあるのにそこから他者の指摘によってつまみ出された形を自分と認識するようになる。
他者の眼がみる自分と言う世界、眼球の球体はその閉じた象徴のようなものではないだろうか。

どうも僕は精神的世界観の中にある身体現象の観点から考えることをしないとバランスがとれないようで、話しが脱線してしまう。

曲板の面白さと言うのはいろいろあって、最初に肩当てに用いた時に、肩側が曲面になるのは良いでしょう。じゃあ背板側をどうするのか?と言う問題がありました。
当然ニスが塗ってあるわけですから、市販のクンと同じ様に離すモデルも作りましたが、これでは量産が難しいのと、楽器側にも効果があるものが欲しいと言う事、それから背板の曲率が製作者によって違う(ストラドはより丸みがある)ことが音の振動にも違いをもたらしていることなど考えて、両面の曲板にしました。
しかし、これは手にするとわかるのですが、手の空間性を潰してしまいます。
曲面の裏表の不思議な作用に気がついて、これはあかんと思ったのですが、掌同士だと曲面の二次元化した身体になるけど掌と足裏で挟めば空間は保持します。つまり面の接触対象の違いが空間を作ることがわかります。
だから楽器と肩なら良いのだけれど、裏の平板と曲面では僅かに輪郭に違いが出てきます。楽器からすると身体が鳴る使い手なら良いけれど空気振動が大きい方が良いわけです。もし身体が気体化しているなら尚良い。
そこで、二枚の板を重ねてみることにしました。これは違いが気体化する、つまり空間を囲って接触対象としたものです。
こうなると表にあるものを裏に持ってくるとか、曲面に予め細工をしておいて体内に持って行くとか出来るわけです。
となると、足裏の板による反転現象も結びつきます。
三箇所を除いた約78パーセントが運動の選択肢になるわけですが、組み合わせ自体は再々変わります。
確認しなくてはいけないのは、板を使った時、何が反転しているのか?です。
ここから更に人物の名前などで確認した話は先に書きました。
これが整体の接触技術に含まれているんだなとわかったのはそれからしばらく後の事ですが、演奏家を目指している人の特徴を理解して行くと肩当てでも随分改善することが出来るでしょう。
(まぁ慣れるまでが難しいんですが)
それから、基本的に曲面と球体は対になっているようです。
二次元化した身体感覚も面白い。普通は無い感覚です。なんせ二次元の住人でさえフィギュアで三次元化しないと触れないんですから、自分の身体の方が二次元化するのは笑っちゃいます。
他にもいろいろあって、これはこれで面白い研究ですが、あくまで身体感覚に集中しての世界です。ですから、精神世界や意識に活動していたり、そちらの世界の論理ははまらないことも多くあります。
演奏者にも意識に比重を置いた方が多くなってきているようですし、そこにある問題は明確にした方が良さそうです。
ただ接点はあるので、何処から何処までがそのグレーゾーンかはチマチマと実験していきたいと思います。