はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

四半世紀の邂逅・・・身体に育てるもの

まずは、教室のお知らせです。
11月16日午前9時30分から(桜丘区民センター)
   30日午後6時30分から(桜丘区民センター)
12月13日午後6時30分から (桜丘区民センター)
   20日午後6時30分から(桜丘区民センター)
   21日午前9時30分から(宮の坂区民センター)
12月は少し変則的になります。ご注意ください。21日は宮の坂駅前です。
 
 
昨日メビウス気流法の「合気道と身体の文法」講座に出席しました。
メビウス気流法は私が20歳の頃にお世話になり、また東京に出て最初に始めたボディワークでもありました。
当時3つの団体が話題になっていました。一つは青木宏之の「新体道」、もう一つは西野浩三の「西野流呼吸法」そして坪井香譲の気流法です。
どれも元は武道に大きな影響を受けていて、青木さんは空手の江上茂、西野さんは大気拳の沢井健一、坪井先生は合気道開祖の植芝盛平です。
その頃ドラゴンボールの影響ではありませんが、触れずに人を飛ばす、というパフォーマンスが話題にもなり、売りにするのが上手な順に集客していたように思います。
 
その中で気流法は最も人気が無かったかもしれません(失礼)。一つは坪井先生が武人ではなく文人であったこと、レッスン内容がある意味自分を捨てる処から始まるようなところがあり、また宣伝が下手で(また失礼!)話し始めたら若い女子には難解で難しかったからかもしれません。講座でのお話は相変わらず不器用で思わず顔の筋肉が弛みます。
ただ当時少人数のレッスンでしたが、レッスンを舞う中でとても多くの体験をさせてもらいました。それが私自身のそれ以後の人生にとても幸運な始まりとなったことは確かです。二年近くしかいられませんでしたが、最初のボタンが掛け間違っていなかったおかげで今生きていると思っています。
 
二十数年ぶりの気流法は基本は何も変わらず、坪井先生がたった一つの直感で始めた動作を50年追究し続けた厚みが加わり、確信する世界が広がっているようでした。一つの直感から始まって長い時間を掛けそこから多くの花が開く。
中には分り難い根っこもありますが、その根っこを手放さないで、自分の世界を切り開く探求がこの世界に感応する鍵になっていることを、再確認しました。それが他人に認められようと、認められまいと関係ありません。
それが自分の立ち位置からしか見えない世界を花開かせることは、最近始めた活元運動の研究でも確認できたことの一つです。
そして、自分の立ち位置という独立は、この世界と感応し、多くの花に連鎖調和を広げます。
 
情報開示競争なのか、今では様々な秘密とされた教えが公開されています。しかし大半は宝の持ち腐れです。いかに一つ一つのレッスンを深めるかが大事で、それが深まるに応じて様々な分野にも通じます。
情報が多すぎるとその選択が出来なくなります。ある人に何をやったらよいかと聞かれて、私は「立禅二時間」と答えました。暫くは頑張っていたようですが他の立禅を行っている先生から15分でいいと聞かされ、直ぐにそちらを選択したようです。
まあ、自分で発見して、目指すものが無いと中々追究すると言うのは難しいものです。
その時は、一日のうちどれくらい自分の身体に集中しているかを気づいてほしくて少しでもやってみたらというつもりでしたが、思いのほか続いていたように思います。
また、それに何を求めているのかがはっきりすれば、行ってる意識が薄れてきた頃、その為に必要なことを発見します。
 
発見すると言うのはその感覚がやってくることですね、例えば数学者が難問を解明する時、物理学者が発見に至る方法を見つける時、詩人が言葉を紡ぐとき。
自分たちは受け取るだけだと言うのが、とても重要なことだと思うのです。向きになっている時は受け取れません。固まっている時も受け取れません、ぼけーーーっとしている時、頭の後ろからそれは入ってきます。人は存在していることすら自分で作り出すことは出来ません。造形なんてものは例外的ですが、それさえ岩の中にある形、粘土が要求する形にしか生命に通じるものは生まれないと言われます。
人が立つには重力が必要だし手を振り回すには空間が必要、空気ももし固まって居るものなら息をする事すら出来ません。大気が移動し温度差が発生し、風の通り穴や、動植物の呼吸があり、やっと人は息をすることが出来ます。
ベラベラお喋りの止まらない人がいれば、「あー、彼女が激しく呼吸して、息を吐いて、エネルギーをぶちまけている。。おかげでこの世界の大気は流動し、私は楽に息が出来る。。」と思って聞いてあげればいいんです。
自分の考えていることが、自分のものだと思うのは錯覚だと思うのです。たまたまその場所に身体が存在して、生命感覚の流動性の中にその場所の役割が発生しているのでしょう。
中国に「易」というものがあります。日本では占いとして知られていますが、元々は言語であったと言う人がいます。単純に様々な要素の運動時間を言語として使っていたとすれば、ちょっと想像してみてください。。
 
丹田という頭の中心が眠りから覚めた時一番最初に発見するのは、生命はこの世界に承認されているから存在するという受け身な理解です。それを「愛」と共通言語で呼んじゃう人もいます。多分一番的確なのは野口先生の「黒い雲の向こうはいつも蒼い」(だったかな?)の蒼いの発見です。もちろん黒い雲の多くは「恐れ」です。
もっと安心して生きてていいんだよ。って発見です。
その要素に近いのが、踊りです、舞いです。この世界に躍動する事への素直な讃嘆です。最近そんなムーブメントが起こりそうな気配です。
昔から踊りは世界中で目を覚ます儀式でした。
一度目が覚めれば、みんなが起きたまま眠っていると発見します。
この世界は本当に面白い構図だと思います。。。
 
坪井先生はじめ、相変わらず観音菩薩のような佐藤さんに、妖怪かっていうような25年間全く変わらない朽名さん、ちょっと太った有川さん?!ありがとうございました。
そしてこれからもよろしくです。✌