はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

身体に育てるもの・・原始人の知性

昔、恥ずかしながら太極拳のビデオを会員の方にお渡ししたことがありました。
太極拳もいろんな流派がありまして、私のところは鄭さんという方が作った流派です。
この流派が大切にしているのは中心軸です。
人間にとって二本足で立ったとき、その始めての体験は強力なものだったでしょう。
おそらく最も原初的な重心線の発見。それは親の立ち姿を学習して立った子供よりも、より純粋な体験だったはずです。
そして、人間の知性は発達し始めます。
中心の発見と知性の飛躍的発達。この間にはとても深い関係があります。
しかし残念ながら、人類はこの瞬間発見したであろう知性には到底及ばない断片的な能力に甘んじています。
 
実はこの重心線に関する軸は中心という概念のごく一部でしかありません。正確に言うなら身体感覚の中でとりわけ大切なこの中心と軸という概念の分類するものを中心軸とここでは呼んでおきます。
 
さて、何故原始人が最も知性の高い状態で二足歩行を開始したと断言できるのか?ということからお話を始めましょう。
この太極拳のビデオを撮るとき一番気にしたのがこの中心軸でもあったのですが、これにはかなり苦労しました。二時間ほど繰り返し撮り続け、鄭慢青の中心軸を呼び出すことに集中しました。私にも始めての試みで意外だったのですが、粘り続けて何度目かの太極拳を撮影した後、身体の左半身からそこそこ繊細な中心軸が入ってきました。憑依されたと言ったほうが分かるかもしれません。途端に次の太極拳は別人のように変わっています。
この中心軸は良く観れば入ってきていることを体験できるのですが、今まで見ていただいた中では当時の親友と整体の野口先生だけが指摘してくれました。野口先生は「かりいくん、一度目と二度目の間に軸を変えたね。この太極拳は中国人が見ても分からないでしょう?」とおっしゃっていましたが、確かに創始者に憑依された太極拳など前代未聞でしょう?太極拳の目的自体がまるで違うからです。
あ、身体意識研究所の高岡英夫さんはいろんな実験をされていましたね。
しかし、私にとって意外だったのは、鄭先生の中心というにしては粗いと感じたことでした。
鄭先生は医学や芸術など様々な分野で達人と呼ばれた人ですからそのクオリティは相当高かろうと思っていたのですが、実際体験したものはそこまで能力を発揮するとは思えませんでした。
その数年前に、これが究極と言うところまで軸を洗練したことがありました。
始めは、居合い剣術の黒田鉄山氏が言うように寝ていても垂直に軸が立っている状態だったのですが、それを使いながら鄭子太極拳を行っているうちに、ある日突然素粒子レベルの粒子が作り上げる白銀色をした中心軸が立ち上がったのです。素粒子なんて知覚できるわけ無いだろう!と突っ込んだあなた!それが瞬間脳の全域が解放されたような状態になって、感覚領域における知覚が飛躍的な機能をもたらすのです。
下手糞に立つ事を辞めると、脳がそこに縛られていたエネルギーを全て解放できるのです。
じゃ、寝れば良いじゃないかと言えば、残念ながら寝ても脳細胞は重力から解放されません。この状態では寝ているより立っているほうが遥かに気持ちよく楽なのです。
この時の中心線ほど気持ちの良いものはありません。例えるなら御釈迦さんが地獄に垂らした一筋のくもの糸に地獄の住人である体細胞が「わ~!!」と飛びついているような感じです。
重力に引っ張られるのではなく、重力に素直になりきると逆に天に引っ張られるのです。
人類と言うのはこれほどの能力を秘めたものなのかと感動しましたが、そこで意外だったのは中心が立ち上がった状態は、逆に運動が制限されると言うことです。
これは、おそらく今も消化し切れていない大事な問題です。
鄭先生も創始した当初はこの軸を体験されたのかも知れません。それが私の軸の変化を導いたのだと思うのです。高岡英夫氏はこのクオリティーの軸はまだ人類で数人しか体現していないとおっしゃっていましたが、鄭先生ももちろん私も一時的な体験だったので、そこには含まれていません。
求めていたものを体験すると言うのは厄介な問題でして、体験は必ず観念や創造を遥かに凌駕するのですが、その後要求自体が満足してしまうので維持することが出来ない(飽きっぽい私は特に・・)のです。
しかし、そこから始まった理解というものが、特に考えたわけではないのだけれど、ある程度たまっているので少し「育てる」ということ全体のヒントになればよいと思い紹介することに致します。
 
身体運動と知能の中心軸。この三つが秘めた人間の原理について、の話です。
 
前回のお話の中で知性について、否定したわけでは在りません。
知性という言葉は知ることの本性、知能なら知ることの能力といえますが、知性の構造とは、思考することの結論がその出発点に起因することでしょう。思考自体の展開はランダムです。しかし結果はいつも違う出発点になるに過ぎません。それを進歩と言い、改良、改善と言います。
そこはステージが変わるのではなく、同じステージ上で場所を変えただけの話です。なので医学などではいくら進歩し改良を施しても結局病人は増える一方で減ってはいません。
様々な対立を生み出すのも「知性」です。
二元論も国家も編集も結局は、「分かってないのに分かった振りをしているもの」全てです。
分かってからやること・・それが知性偏重の働きです。それは大脳の体癖的な傾向にも含まれています。
この対立を生み出す知性に対して、中心を定めることが身体の定石です。
人間は弱い立場にあるとき捻れます。捻っているときは動けないので、武術的には捻るなといったりしますが、捻れに中心が出ると対立する根拠も消失します。
対立は二者間の中心が出ると響きあい、互いをレーゾンデートルとして迎え入れるようになるのです。
こうした生き物、生きているという実感を感じとることが、知性を生きたものに育てていきます。
 
ちょっと長くなったので続きはまた。