はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

身体に育てるもの・・育てないなら所詮は「アレ」の話

引き続き丹田について補足しておきたいと思うのですが、その前に何故身体に育てるということが必要なのか?というところから始めないとわからない方もいるようなので、そこら辺から。
身体が育つという働きには、自然な成長から目的を持ってある特定の技能を育てることまで様々な過程があります。子供が大人になるまでに身体が出来上がってくる過程はある程度共通する要素が見られますが、その速度、育つものの順番、障害、など個人差はそれらを動機付ける集中、興味、必要性、条件という素地が先行してそこにあります。
社会の変化も大きいでしょう。
昔であれば子供が早くから身体を使って働かなければならなかったし、今は情報処理能力が子供のころから必要とされています。それは人類史上の進化でもあるでしょう。しかし同時に身体上の大きな変化も受け入れています。
日本人は明治期以前、自然や人の世の出来事をそのまま自分の心と捉えていました。ところが維新で西洋文明の物理的身体を見た多くの日本人は個人主義の前提としての愛国心で幕府を転覆しました。国を憂えることに価値を見出した志士たちが西洋型の思想に感化されてあっという間に個人に回帰していったと言えるでしょう。
そこから太平洋戦争に突入していきます。
これは丹田と関係ない話のようですが、実はとっても関係の深い結びつきがあるのです。
「気」というものは風水を勉強される方や東洋医学を勉強された方ならわかると思いますが、川の流れという道筋に対して逆行する性質を持っています。川の流れる勢いに対し、そこにある要素「水」に引かれた「気」が、どんどん物理的な水に対して向かっていくというような逆のベクトル運動を持つのです。それが人体であれば経絡の向きに対して逆方向に気が流れていくことにもなります。親の言う事に反抗する心のようなものです。
そこにある気の方向に逆行する運動は「拮抗」と言います。逆に流されてしまう、気の方向に乗っかれば「脱力」です。
武士道精神は儒教的な人為的道徳規範の社会です。それに対して人の気は自然や他人の心に向かって流れていきます。それが西洋文明のショックによって個人主義に逆流し始めたのですから、社会が個の道徳規範から全体主義、物質文明へと向かい始めたのは無理もありません。この時日本人は己の腹を掻っ捌いて心を見せる方向から、硬くプロテクトする能力の高い腹を作る方向に向かいました。
そして緊張した腹は、そのまま頭の緊張状態を作り出します。
緊張状態の頭は絶えず過去の事例から情報を読み取り、分析し、現在に当てはめて失敗するという作業を繰り返します。そしてより多くの情報があればより正しい現在と未来を導くと錯覚します。それがあくまで過去の現実を記号化したものという観点や他者の意見で自分の現実ではないと言うことを忘れて観念の中に生きることになります。
固まった腹は、理性と知性という、生きていくのに保険にしかならないものを推奨します。
大雑把すぎますがこのような社会の流れにあって、再び情操の豊かな教育を受ける機会は多くありません。
戦争突入当時の日本では皆腹に力を入れろ!と言っていました。前回書きましたが腹圧を必要以上にかけることで感情をコントロールし、ロボットのように動く兵隊を必要としていたからです。
 
腹は「力」を入れるのではなく出すところです。
 
ロボットのように動くためにあるのではなく、情操豊かに自然と調和するための運動をする機構です。
そのようなお腹は鳩尾が「虚」になり、丹田が「実」になります。そしてお臍の上の辺りが「中」という状態です。この虚、中、実が入れ替わって鳩尾が「実」になれば俗にいう犬腹と呼ばれるような、危険な状態にもなります。
先日、ある人が「私は、いつ、何をする時も鳩尾を緊張させていることに気が付きました」と教えてくれました。これは大発見です。自分でそのことがわかればいろんな面が変わってくるでしょう。実はこれまで何度か指摘して、虚にする方法も教えていたのですが、自分で発見しなければその人にとって問題は無いに等しいのです。この発見が育つという一つの方向に導くはずです。
鳩尾が「虚」にならなければ丹田は「実」になりません。
その「虚」にする簡単な方法は、先日気功の教室に出た方であれば六番目の太陽光を取り入れる方法を、月にすればよいのです。月は精神を安定させる作用がありますが、頭の働きを鎮静化させないと鳩尾の硬さは取れません。
知らない方でも、月をじっと見てその色、形、光の柔らかさ、様々な感覚に浸りますと同じように鳩尾が抜けてくるようになります。丹田が気を実体化するような自己の外部に作用する出力感覚があるのに対して、鳩尾は通り抜けるような引きつけたり消えたりするような自己の奥の世界、実体のない世界です。
丹田を育てるのに、実はこっちの虚の深さの方が大事ではないかと思います。
現在、世の中はかつての太平洋戦争突入前の状態によく似ていると言われます。
中国共産党は戦争をやる気満々だし、アメリカは対中外交重視です。従軍慰安婦問題でアメリカ世論も心情的に日本を擁護し辛い状態になりつつありますし、米軍のグアム移転、憲法9条問題も藪蛇です。しかし、何より日本人の肚=腹が鳩尾の硬い丹田の腑抜けた犬腹という戦時中の軍人の廉価版のような状態になっているのが気になります。腹もないのに腹の探り合いなど出来ません。
せめてお役人には対外交渉をする以前に、鳩尾の緊張を抜いて、力のある発言とのらりくらりと逃げ回れる柔軟な奥行きの深い思考、その真ん中に一本筋の通った存在感を見せてほしいものです。
前回お話しした表と裏の丹田はどちらが良いとか悪いとかではなく、表裏で中心の出るものです。そして真の丹田というのは青空が澄み渡ったように一切の迷いのないものです。かつての日本人の中には大勢いました。今そんな日本人は政治家にはもちろん一般にもほとんど見ることがありません。
もちろんそんな政治家や外交官がいれば、状況を変えることなど造作もありませんけれど。
 
そうでなければ、男の社会なんて所詮は物理の力関係です。その力関係も酒が強いとか、声が大きいとか、喧嘩に強いとか。格闘家が総じて奥さんに弱い処を見ると(佐々木健介北斗晶のように)その正体はくだらないものです。アレがデカいとか小さいとかそう言う事です。笑い話にしかなりませんが、ある人が男子生徒の力関係が修学旅行の後で微妙に変わるのは何故か?という話をしていました。答えは勿論風呂場で見せ合う「アレ」です。
そういうところを見ると、男の性分はメスを取り合ったサルの時代から何も進化していないのかもしれません。
そうなるとですよ、行き着くところ、戦争も紛争もリーダーどうしが「アレ」を見せ合って大きい方が勝ちにすればいいじゃないって話です。
笑えますよね?
 
話が少しずれてきましたが、「身体に育てるもの」というのは、その必要性やポリシーの方向に向かっていきます。「アレ」ではなく身体能力、パフォーマンス性能での勝負です。
そして勝負や他者との比較を超えた人間の可能性に個人が挑んでいく何よりも価値のあることだと思います。
整体でも気功や演奏でも、何かサプリメントや薬でも飲んで直ぐに変わるものを求めている方もいらっしゃいますが、そういうドーピング的な変わり方をしても身体に負担をかけるだけで、後になって苦しむし、身体に何も育つものはありません。育てるには発見と身体の要求が必要で、身体と時間を使ってじっくりと自分で自分の身体と会話することが大事です。
 
それでは続きはまた。