はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

いにしえの身体と、造化の技

葛飾北斎の生誕二百六十年に作られた舞台芸術作品のドキュメンタリーがあった。

ドキュメンタリーの中で小布施の北斎館に展示されている「富士越龍」を観に行くシーンがある。

そこでの解釈はともかくとして、この最晩年に描かれた有名な掛け軸は、その北斎の斬新かつ膨大な絵師としての時間、神懸かりな筆捌きの技、画境の集大成のように龍雲によって切り抜かれた永遠の富士。

創造とは「無限」に生じた無数の歪み、そこに生まれる原初の「こころ」の出現を表現しようと足掻くのが性なのだろうと、僕は思っている。

文人画の鉄斎は、江戸の山水画を独自の世界に落とし込み、晩年は融通無碍の世界に遊んだ。

それは一度観ると一生忘れられない。

鉄斎は陽明学に傾倒し、その面白さは晩年になって人間を突き抜ける。

日本画の多くが禅宗思想に影響を受けた事は間違いなく、それについては鈴木大拙の「禅と日本文化」などを参考にされても良いと思うが。。。結局は絵画だろうと音楽だろうと、受け取れる人が居ないと消えしまう。

創造性の自在さは型枠から生まれるとは言え、作者のその瞬間の人生が幾度も繰り返される行為の器にその世界は留まらず、自在を知る。それをいくら美術館員が詳しく説明しようと、大学でお勉強しようと、知識があればあるだけ、「もの」を知る事も観る事も難しくなる

その創作には多くの絵師が見つけ出した理があるが、その中で何者であるかを忘れ、世界は内も外も無く形も無い。感受した直観のままに描かされ、技を磨いていく・・自然とは常に造花される。

その事を体験したのは、良い音楽の見極め方を見つけたことによる。

尺八奏者に西村虚空と言う方がいてyoutubeに演奏が二、三本ある。その演奏を水槽の側において聴く。

そうすると、狭い部屋があたかも静かな日本庭園の中にでもいるような雰囲気になってきて、更には清々しい森の中にいるような自然な音に満ち溢れてくる。

このやり方は、いろんな録音を聴いてわけがわからなくなった時、目指す方向を教えてくれる一つの重要な指標になる。

勿論自然な音と共存、共鳴し、自然を造化する事を音楽家の方向としているのは、日本だけでなく西洋も同じ。

弦楽器で言うとカザルスはこの聴き方で改めて感動したし、ヴァイオリンの名手も造花までは行かずとも自然音と共鳴する人達はいる。と言うか、名手の条件なのだから当たり前だけど。

 

時間について研究しようとしていたのが、いつの間にか尺度の実験になっているのだけど、これが面白い。

身体教育研究所の稽古法の中に同尺法と言う稽古課題があるのだけど、身体の尺度、モノの尺度が気の通り方を変える。さて、これはどう言う事なのか?と噛み砕くのに難儀する。

便利なモノは使えば良いじゃないか、と言われればそれまでで、発見が増えて来るとそのうち腑に落ちるのだろう。

実は人間が長さや時間に数学的普遍性を信じるようになったのは、ごく最近のガリレオ辺りからのようで、それまでは距離感も一日の長さも人それぞれ、或いは地域ごとの人体尺度、感度?が元になっていた。

ところが、それだとピラミッドのような巨大な建造物をどうやって測ったのかがわからない。北緯三十度ピッタリなのはどうしてなのか?ほぼ現代の地球の縮尺なのはどんな計算だったのか等、多くの謎が研究者達を捉えている。

これはとてもミステリーとしては魅力的な謎。身体尺度と地球尺度の謎で言うと、当時は当然メートル法などないわけだから、何を持って緻密な測量をし、建造を可能にしたのか?星の測量技術に我々の知らないセオリーがあったのではないか?今も真実に届かないいろいろな憶測が生まれている。

ただ尺度問題からピラミッドの意味について地味に言える事は、この建造物の役割は人体の中には無いもの、感覚の中に存在しないものだったのではないか?と言う事だろう。。

絵筆を扱うにも、楽器を扱うにも、あらゆる道具を扱う骨法とでも言うべき基本は「カイナ」手首の極め、肩の消え方にある。

このコツが、竹筒を五寸と七寸に切って持つだけでどう動かしても側胸部が降りて、腕は古典の腕になる。

基本的には着物の裄が出るのだけど、五寸と七寸で息の通った腕は、着物を着ていた時代の身体操法に欠かせない。

スマホを持つ腕が癒着だらけで、肩甲骨も動かないのとはまるっきり違うことはわかるだろう。

因みに、この息の方向は右回りと左回りの違い。楽器の持ち方を教える時に便利で、響きが広がる方向と収縮する方向がある。

身体の深さで言えば深いところでは無いけれど、この「古典の腕」は現代の腕力が筋肉を指すのと違って、腕のコツにある力を使う感覚体と言ったら良いだろうか。

我々の身体は生活や技芸と密着しているが、身体の最良な運動は過去にある。D先生曰く「身体は今を生きていない」と仰る。

骨格だけでは無く、生理的運動から感受性まで、全てを過去の先祖の記憶に頼っている機構を縦糸とすれば、生命の感応性を横糸として人間的現象が編まれていると観ても間違いではないだろう。

・・・少し言い換えてみると、この地球の産物みたいな身体と、分離性のある非物質な身体が混じり溶け合うやり方が、経験としての感覚、集注を生み続けている。

それでは同調性がどこにあるのか?と言うと物質身体と非物質身体を結びつけるところにある。それにより身体が物質では無くなる多層性を生み出している。

精神の向上とは概ね古に還ることを良しとするが、古は人類の経験してきた数だけあるのだから、この世界の構造が持つ〈経験〉との同化性を拡大することが、本来の人間的要求と言えるのかも知れない。

本来の人間的時間性からすると精神の求める身体性とは古の経験であり、今を垂直に通り抜けた「現在としての過去」と言う多層性ではないだろうか。

古来から人間は過去に馴染む事を一つの基準にしていたが、この事は実は思った以上に現代人に問題を作り出している。

例えば、腕の不具合も大抵は竹筒を二、三分握るだけでなくなってしまう。つまり、古典の身体にするだけで身体問題の大方は消えてしまうのだけど、脳梗塞で右手に麻痺の残る人ですら、持てば安定して動くようになる。

D先生は「我々が病と呼んでいるものは、単に近代の生活が古典的身体に合ってないだけだ」と仰る。

肩の痛みを抱えた人も手首の痛みがある人も、古典の腕を感じ取るだけでその異常感は無くなってしまうのだから、はたしてそれは何だったのか?と言う事になる。

だいたい現代人の「病人」の多さは異常で、歴史上こんなにも多くの病人を抱える社会は無かっただろう。彼女に振られて落ち込めば鬱病だし、血圧の正常値はどんどん狭くなり、老人の多くが薬漬けになる。

挙句には、世界の薬品の約四割を日本人が消費していると言う話しも聞く。

日本は医療を〈商業〉に数える世界でも特殊な形態の為、病人を増やさなければならない等その功罪が際立っている。

その対象となる多くの病は、医療の功罪を別にすれば衣食住の近代化、例えば尺貫法などの古典が禁じられた事も原因の一つと言える。

良い音、美味しさ、美しさ、味わい深さ、気持ち良さ、楽さ、どれもその佳い悪いの判断がおかしくなっている。つまり尺度が失われている為に不具合が生まれている。

例えば尺八を考えると、江戸時代に発語と演奏する事が一致したのだろうと推察するが、それ以前の時代では音は語る事の以前にあったのでは無いだろうか。

江戸時代に制定された尺八の奏者が「密息」についての本を書いていたのを読んでみたけど、これは実は尺八を持てば容易に出来る。

この長さの筒をある稽古場の先生が使っておられたのだけども、中心に息のラインが出来る。

ここに音を通すのは近代楽器の演奏家も同じ。

そもそも、自分の声が身体を通るなら、楽器もちゃんと鳴るのであるから、楽器が音を出しているのでは無く、身体が音を出し、楽器は声帯の役割に過ぎないと言う事があらゆる楽器に当て嵌まる。

ところが、さらに古い時代の尺八は一尺一寸一分が標準だったらしいのだけど、検索すれば正倉院に残る尺八は約40センチが九本ほど残っているとある。おそらく一尺三寸から三尺まで一寸刻みに半音下がるのが、息の世界の寸法なのでは無いか?つまり半音の感覚を長さに置き換えると一寸となるがこれは検証中。

一尺八寸の尺八は江戸時代に制定された形で、それ以前の寸法はこの時代に共有された息の世界より幅が広い。

実際の四〇センチは息の世界から逸脱する事になる微妙な長さなのだけど、馴染ませれば腰と仙骨の内観性が出てきて古い骨盤の感覚が扱えるようになってくる。

妊婦さんなどはこの長さを持っただけで子宮の中の子供の状態が観える。つまり本来の息の世界からずらすことによって、身体の同調性が働けばより深いところで忖度する。

身体感覚の世界ではズレが深さを生むのだ。

では、深さや奥の感覚に移行する働きにアンカーが打てないか?と言うことになってくると、これは既に五七七の息の抽象化で作ってあるのでそれを使う。

今回実際に五七七の息が示すのは、奥感の抽象形では無いかと言う事が証明される。

人の身体を観ていても、奥感覚の場所が欲しい時にはこの抽象形が浮かぶところを見つければ良いし、調律点のいくつかはこの形で明確になる事は確認してある。

 

我々は先ず自分の感覚を識別出来るように成らなければいけない。でないと、残された道具も作品も失っていく事になる。

現代に生まれた我々の、浅く薄い身体感覚は、世界にも類を見ない有様になっているけど、かつての名残として残っている腰腹の感覚は江戸の日本文化を世界史上稀に見る豊かさにした。

 

身体は何処にいてもいつも狂おしく数百年の昔日を懐かしく思っているもの。

こんな現世にも、時折古を想う人の心に太古の音は通り過ぎていく。