はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

指あそび

研究したい事がいっぱいあるのだけど前回の手印[ムドラー]を試して見た方はいらっしゃるでしょうか?
例えば不動明王真言ですが、独鈷印ではなく、不動剣印のほうですね。
音楽、出来れば絃楽器が分かりやすいと思いますが、音楽を聴きながらやってみましょう。
身体の奥まで響いていく体感の拡がりを感じやすいでしょう。勿論普段からそう聞こえる人は変化ないかもしれません。
しかし、独鈷印は身体の真ん中くらいに、大宝印に変えると音が身体前面に展開するようになるのが分かると思います。

不思議ですね。
指の形を変えただけで聞こえ方が変わってしまいます。
勿論普段からこの聞こえ方の人もいます。
ムドラーは他にも多数ありますが、それぞれに対応する感覚世界があります。
意図的に身体と指の繋がりを変えたり
指の感覚を分解するのは中々難しいし、指の接触位置や、連続して印をきる際の集中の移動を見つけるとかだけでも、かなりな訓練になります。
手印の話は、昔から解明したいと思いながらまだ時間を割けない課題。基本的に様々な手印があるのは、その感覚質の違いを表していますが、真言自体にも様々な音韻があり、身体にどう響かせるか?が手印との組み合わせになっています。
またそれぞれの手印を擁する世界観[脳の働く場所]への念が、何処にどんな気質を作るのか?まで調べ始める勇気は今のところありません。

先程音楽を聴きながらと書きましたが、実際演奏会では、演奏者の身体の響き方が先ずは聴き手側に反映しますから、身体前面で音を聴く癖があれば、聴き手の前面に響きます。
つまり簡単に言えば、音を前に出す事を意識していると、聴き手側も自分の前までしか音が来ない事になります。
音が飛ばないとか、深くならないとかではなく、その空間を聴いていない。それを聴き手は感じ取ってしまうわけです。
シビアですね。
これは気付くのが難しいのかもしれませんが、それぞれの楽器の性質もあって、最初に出会った楽器により、ここで足踏みしちゃう人もいるようです。
だから、何を聴こえるというのか、自分の限定された経験の外に出る事も必要でしょうし、自分の音楽をどうするのか?最初の選択肢にもなっています。

手指という身体の末端を日常生活では何の意識もなく使っています。
でも、もしこれを詳細に観察するならば人間観が一変してしまうかもしれません。
一つだけお話しすると、僕は鎖骨を5箇所骨折したことがありまして、骨折の10日後にはバイトである武術の先生の市販ビデオ撮影の相手をし、一月後には北京へ武術を習いに行き、その間普通に仕事をしていました。結果、直後から無理に動かした事もあって首に強い痛みが残ってしまいました。
それから整体の稽古を始めて十年、そろそろと思い立ち目一杯観察していくとその一点から中の世界に入っていきます。
中では変化のきっかけが無いか集中を保ったまま観察を続けます。
すると青い光の線が繊細に在ります。
これは何処から来ているのだろう?と少し意識が揺れるだけでそれは大きく動いてしまいます。
注意深くその根っこに向け辿っていくと、左手中指の第一関節から出ています。
発信しているところがわかれば一つ目の手順はクリアです。
そう言えばここは[時間]の感覚だと先生がおっしゃっていたなと思いながら、その青い光の線が方向を意識する瞬間にはすでに動いている程の早さを確認。
首に向けると溶けていきます。
止まった時間が溶解していくというか。
多分、この発見の仕方は発見者によって異なる体験なのです。
ただ[時間]という言葉に体験の共通項があるというだけなのでしょう。
しかしここに至って[時間]が具体的な思考対象になりますが、理知的な概念の中にこの時間はありません。
直接体験の集積だけが時間概念への角度を示します。
これは偶然かもしれませんが、手印の中にもこの指の同じ関節を使ったものがあり、それを時輪印と言います。チベット密教最後のタントラとも言われるものです。
勿論手印が体感と結びついている以上偶然では無いでしょう。

手指には他にも色々な仕組みがありますが、それらから考えられることは、人類が二足歩行になり、指の使い方が変わった事で、体幹中央と末端の距離感や世界との関わり方が変わった事の全てを含むでしょう。
つまり、この原始的な手指の構造は生存形態、社会形態に伴って人間の世界に対する能動的な認識の全てを生み出し、また今も全ては手指の運動によって行われているのです。
実はその本来的な作用に基づいた認識、最後の過渡期は日本においては平安から室町時代くらいなのでは無いかと思います。
それまでは、意識ではなく情動によって人は動き、ものの心によって営まれる生活の時代を過ごしていました。
それが、武家、商人の時代に移行して芸能の才に花開かせた後、消え去ります。
その後はご存知の通りな意識と理知の時代です。

手印(ムドラー)を有する仏教界が思考と身体運動を止め、身体感覚の生まれるその向こう側を直接体験しようとしたのは、この同じ手指の働きが利己的な合理主義と理知、拝金主義の社会を生み出したのとは真反対な、利他に導かれる受動的内面を保持していたからこその聖域であったのです。

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