ちょっと手軽なお遊び。
写真撮影OKの美術館でちょっとお遊びです。
iPhoneで撮影するのも眼の使い方によって印象は変わります。
例えば光琳の紅白梅図
先ずは多数の来訪者の間を縫って何も考えず切れ間を狙って撮ったもの。
次に腎臓辺りから撮ったもの。
一瞬の隙を突いてその視点から撮ったので少し効果が薄いですが、次に紅白梅の一双を並べて見たものです。
これは単に撮ったものですね。
次がちょっとだけ中から見ながら撮った感じのもの。
ちょっとだけ奥行きが出ているのは感じられるでしょうか?
上は絵が押してくる感じ、下は眼が画面に吸い込まれて行く感じになります。絵に対して吸い込まれて行くのに実際の視覚は眼球の奥にスライドする感じになっていきますね。
ここから観るという事が始まって来ます。
何?気のせいじゃないか?
じゃ、次。
勝川春章の美人画です。
右がデジカメですが、自動補正が効いているとしても、それ自体の違いと言うより、絵の中の輪郭線に眼を向けたもの。
梁の線がただの斜め線ですね。撮影した僕の視覚位置がよく分かります。
左は集中と言うより春章の視覚をチラリと意識してみたもの。
空間の奥行きとか、左はあなたの首がずれて動きそうな感じになっているとか分かるでしょうか?
まぁこれが良いというわけではありませんです。まだ観ているわけでは無いです。
絵だと分かり辛いという人に。
上は線。下は空間性。
上は目が痛いというか、竹の輪郭がハッキリしていますね。下は違うでしょ?
因みに紅白梅は美術館からネットに紹介されている写真と比べて見て下さい。
撮り方には色々あるのだろうと思いますが、これを撮った時は結構な人出だったので、一瞬のチャンスに視点を変えるのは大変でした。
もっとハッキリした違いを感じて貰うにはお人払いを!って状態だったのでご容赦を。
これが例えばじっくり作家の解釈や技法、描いた手順等を感じ取って撮ればまた違いはわかり易くなるでしょう。
今回は、その絵が身体に写った時の視点でシャッターを押しただけで、画面を見る猶予も無かったので像が上手く結ばれてないですが、色々試してみたいですね。
ただデジカメでは撮れないんじゃないかな?というのが長次郎です。
これもじっくり見ればやりようはあるかも知れませんが、じっくり見ても目で見ると輪郭がぼやけて見える不思議な茶碗です。今回はこんな写り方をしてしまいました。
ぜんぜんダメですね。
疲れて集中も出来ません。
それでも凄いものがありますね。
まるで茶碗の半分はあちら側にあるようです。きっと長次郎が使っているのでしょう(^_^*)
何か気がつく事があったでしょうか?
皆さんもバシャバシャ日頃写真を撮っているでしょう?その写真に映る自分の癖はどんなでしょう?また対象をどんな風に見てるでしょう?
え?こんなの写真の世界じゃ当たり前?
まぁ以前教室で写真について、ケンケンガクガク?ありましたが、撮った人に気づいてあげると言うのもこんな感じ?
追記
美術の美の感覚は現代人には結構難しい。
花を見て美しいと感じたことなんかない!って人も多い。
かりやざきなんとかさんみたいに、花に意味を持たせて初めて価値の出るような売り方にしか、今の社会は需要が持てないのかもしれない。
我々は一瞬一瞬を生と死の間に生き、生者と死者の間に入り込む。
その時初めて生を充填する仕組みになっている。つまり、マインドフルネスと言われる自己に出会う。
多分その仕組みは時間に対する意識の幅にあるのではないかと仮説を立てると、人間の感情や思考、運動の機微は自己の外からやってくると話した事がある。その範囲は空間的、時間的コミュニティの幅に関係する。
その時空間を捉える意識が点に近いほど干渉する因子が減るという単純な構図になる。
実際に人は常の一瞬を生と死の狭間に生きている。その連続性の方に囚われているから狭間がわからない。
長次郎の茶碗を半分はあちら側にあると表現したのは、冗談ではなく実際の話しでもある。
人がその美に共鳴する構造は、古今東西その生と死の狭間に身をおいたものに付随する。日本人はそこに幽玄と言う術を発見したのだろう。
これを西洋では知的に証明しようとして「無意識」に括ってしまい、そこに遊ぶ術を宗教と心理学の中に閉じ込めてしまった。
しかし芸術は宗教と言えるものが発生する遥か以前に生まれたもの。その原初的感性に触れる事が此方と彼方の狭間から産み出されるものを掬い上げる。それは自分の中にある生と死を見つめ続けて見つけるものだろう。
生と死を扱う医術もまた、元々はこの境界に生きる術者にのみ許されたもの。
たまには遊んで見ると楽しいかもよw