はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

身体の力・・不妊を取り巻く悲喜交々

先週気になったニュースが諏訪マタニティークリニックの不妊治療。
目新しい事ではないけれど、義父の精子で産まれたのが、このクリニックだけで118人。
それって、旦那の兄弟って事だけど、まぁ問題はそこじゃない。
少子化問題対策に女性の労働環境とか不妊治療の補助とか認可保育とか場当たり的トンチンカンなことばかり言っている政府は、本当にアホなのか?
フランスのように育児や妊婦の優遇に重きを置いた社会形態にならなければ、数字上の女性就業率ばかり真似しようとしても無理な事は誰でも解ろうというもの。
男性の育児参加も日本ではかえって別の問題が出ているけど、フランスの比重はそれほど多くない。何より育児世帯の保護が手厚い。

ある人が職場で、種無しブドウや種無しスイカはいいけれど、種無し男はゴメンこうむる。と話してます。と言っていたけど、育児環境以前のこの問題はかなり根が広い。
今回の記事は男の不妊問題。
男性側の問題意識は薄いので、この症例数はインパクトがある。
本来不妊問題は人間として種の問題だから、対策の医療技術が進歩する程本質的に歪んでいく。
文明の変化によって弱って行く身体の警告を国家が管理しねじ伏せる。
こうした日本人の種としての勢いが衰えていることが根本的な問題だと思う。
性の力は生きる力そのものだけど、全体に後ろめたさも付きまとう。
力があるうちは、恥じらいも強く、年を取ると弱ってセクハラオヤジになる。流行りの肉食系女子などは、実は男子が草食系になるのと同様、性の勢いの弱体化を表している。
生き抜くことに必死な人達は、当然種の存続にも力を持つ。
この「勢い」ということは、案外大事な事だと思う。
新しい命を呼び込む上でも。

音楽でもソリストとして成功している若手を見ると先ずこの勢いがある。
最近は勢いのある俳優も少なくなったけど、日本社会全体が勢いを押さえ込んで、いい子ちゃんしか許さない風潮に流れているからだろう。

それら社会全体の風潮が身体を取り巻く環境にも反映する。
例えば不妊原因として、洗剤やパーマ液など経皮毒を指摘すれば、科学的根拠なく不当として法的処罰の対象になる。
科学的根拠とは皮膚が毒性の強いものは吸収しないという?何だが根拠のわからない理由らしい?のだけど。
実際、毒性の強いパーマ液を扱う美容師に不妊や筋腫、奇形児の出産の割合は多い。

仕事や学校教育では、男女共に性を育てるという真っ当な種の存続に対抗するような男女平等を掲げる。
目に見える性差の違いすら無視する社会を作ろうとするのだから、女性の子供を産む身体的特徴を尊重する筈も無く、増してや個人の違いを尊重出来るはずもない。
知覚情報が溢れ刺激の強い環境では知覚の負担が大きく、骨盤が下がって開閉運動の可動性が弱いくなることで精神的なバランスを保とうとする。それによって肺、呼吸器、肋骨の萎縮がおこり精子製造力が低下する。これは生活環境によるものが大きいけど、社会的なコミュニケーション能力と連動している。
他にも幼児期の舐める要求を抑え込むと性欲、性行為の未成熟になる傾向もあり、行為の質が悪くて妻に妊娠の準備が出来ないなど色々問題もおこる。
また、最近問題になった子宮頸癌のワクチンなど薬剤による問題もある。
ワクチンで言えば身体に必要な成長を奪うものもあり、例えばオタフク風邪は身体に必要な経過の例として挙げられる。今は予防接種で罹らないようにするけれど、それにより腰が育たず、生殖能力の低い身体や性同一障害が増えています。

少子化問題が言われ始めたのは、テレビで盛んにセクハラ問題が言われ始めたのと同時期だったと思うのだけれど、それによって法律という一種の暴力装置が男性を萎縮させ、同時に女性特有の病発症率にも貢献したのではないかと思います。
何か悲惨な事件が起こるたびに法律が改正され、罰則が強化される。罰則を逃れる為に更に犯罪を犯したり、一度の過ちが取り返しのつかない事態になる。
まぁそこには冤罪確立の高いものも含まれますが。
罰則強化以外に民度を上げる方法は思いつかないものなのか?と思いますが、例えば飲酒なら一瞬で酔いを冷ます飲み物を開発するとか、アルコール検知でエンジンが掛からない装置を義務化するとかいろいろあるでしょ。
単に精神的な恐怖で支配する方法はあまり賢いやり方ではないと思います。
その抑圧が事故や別の犯罪を生むのは人間の生理的反応だから。
病には意外とこの自己罰が多いのです。
抑圧したエネルギーの内向現象です。
不妊にもその傾向がないとは言い切れません。
よく他人を裁かない。と言うのが成功法則に言われます。
実は体癖、身体や感受性の癖や傾向も三割程度は他人のジャッジで作られます。
Aさんが仕事場で怒られて逆ギレしたのを同僚が見ていた。それがAさんにとって初めての逆ギレだったとしても、同僚が逆ギレの人とレッテルを貼れば、その行動はパターン化する。
そこには別の反応方法もあった筈なのに、反応を機械化することによって身体の柔軟性を抑制する。
人の頭は過去のデータしかないわけだから、似た状況には周りの認めている反応を演じる方が予測し易く安心感がある。
一種の保険になっています。
現在のリアリティで即興的な反応を楽しむなら頭が空想することを辞めさせなければならない。しかしこのリアルだけでは世知辛い世の中生きていけないじゃん!というのもわかるし、現実を出来るだけ簡潔なパターンで分類するのは大脳の快感なのだから、リアルは無視する事になる。
それが更に同じパターンの問題を作り出しまた同じパターンの反応を繰り返す。次は更に巧妙な手口の同パターンを繰り返し、保険の有効度を確かめる。パターンは同時にエネルギーの鬱滞ももたらし保険の堤防を突き破ろうとする。
そこから自由になろうとするのもまた、生命の要求だから、要求が強いほどアホみたいにわざわざ困難を呼び込む状況を繰り返し作り出す。
そういう人を真面目な人と言う。

それは一つの自己罰だと言える。
自分の暗示で自分の立場を追い込むのだから。

あなたはダメな子ね。と落胆した母の顔を見て子供は自分はダメな子だから罰を与えなければと反応する。
それは人生の選択の度に影響を与えて幸運を奪い去る。
人生が辛いものだという観念は自分の選択パターンを表し、そのジャッジは母という自分の生命線との駆け引きから最初に生まれる。
その母と子供の自分の間には3歳まで意識の分離がない。
感情を共有する。
つまり、母のジャッジは自分が自分に下したジャッジでもある。
実はそれは大人になっても胸の奥の方に潜在する。
それをカミとかインナーチャイルドとも言うのだが、その潜在意識には子供の頃まだ自己が確立する前の、母と自分が未分な状態の働きが保存されている。
大人になると対象が母という特定されたものから、拡大されて自己と他者になるだけだ。
だから、旦那は妻の事をカミサンと呼ぶ。(ダジャレはいらない?)
法律というのは元々、創造主との契約が起源だから、アメリカは聖書に誓い、日本は天皇と契約して一国のリーダーであることを承認される。では他の法治国家は何によって承認されるのか?それぞれイデオロギーによってその強度に違いはあるようだけど、実はどれも人間の内側の仕組みが更に外の社会に反映されただけだ。
実は一般概念の創造神など存在しない。
未分な意識の更に原始形態をカミと呼び、そのカミとの契約というのだから、市民社会の意思の集合でも構わない。移ろいやすいものか、普遍のものか、層が異なるだけだ。
契約違反を処罰するか、罪という概念を流し清めるか、意識レベルの移ろう判断に任せるか。
別に単なる観念的な話しじゃない。
日本の神は罪を祓い清め元から無かった事にする設定だから、政治家も役人も東電も責任は持たないし、本来法的処罰の及ばない聖域アジールの装置が作動する。
このようにジャッジは社会そのものから個人の起源まで深い繋がりを持つ。
ピラミッド型社会が、統制のために罪を作り出し、罰概念を意識に刷り込んだのだから、逆に潜在意識を、カミをジャッジしないものとして創造することも出来る。

胸の奥のカミは未分だから、他人をジャッジすることは自分をジャッジし故に罰を与えなければならないという意思は自分にも向けられる。
意識の存在する層が深いだけに、気づかないで自縄自縛に陥る。
それが、脊椎の2側や1側の硬直、硬結になったり体癖を左右する。
それを自己催眠という。
それにより身体内の要求を決定する感覚運動を凍結する。
それらの硬直、硬結が結びついて妊娠、出産、育児に耐えられない組み合わせが出来れば、身体は出産を拒む。
現時点の自分の身体はアミダクジみたいなもの。問題のほとんどが出産から幼児期に刷り込まれた親の問題、出産環境の選択の問題に起因する。
その親の問題もまた、その又親の問題になり、パターン問題化している。
個人を越えて血族に表現される。
だから、自分の人生に不自由を感じるならまず、親の問題、親との問題を解決しなくてはならない。
それが、親のそのまた親との問題解決にもなる。
でも自身の身体ー人生を探究し、楽しむ上では不自由な自分も悪くない。
正解はいくらでも変えられる。
その発見がいつかまた違う答えに成ろうとも。

我々は間違ったところを直す。と言う教育を長い間受けてきた。
これが日本の教育パターン。
無意識にそのような過程を踏むことが学習することであると刷り込まれているがこれも一種の自己罰と言える。
あなたは間違ってるから正されねばならない。正しい答えは記憶しているはずだから。或は導き出せる筈だから、と。
余計なお世話である。
私の世界では私が正しい。その私の実感が間違っていると何故あなたが判断できるのか。命を懸けて正しいと言えるのか?
もしそう言えるのなら私は貴方と対話しよう。
現実にはそんな事態の方が多い。

身体的にはこれに対応する力を持つのが「腹」。
腹の受容性が事の良し悪しを超える感性を与える。いや、表裏になっている。
師匠は「誰かを尊敬した経験を持てば腹は出来る」と一言で済ませていたけれど、これは誰かを優れているから尊敬しているとか、好きだから尊敬しているとかそんな条件が変われば無くなるようなものじゃない。
その誰かが自分を裏切って死にそうな目に遭おうと、裸で新宿駅を走らされようと、最悪な性格で自分の生活が崩壊させられようと、変わらず尊敬の気持ち以外持てないというくらいの話しだ。
まぁ究極誰かの為、生死に関わる出来事に毛ほども動揺しないなら、尊敬してると言えるだろう。
その時「腹」を経験している。

まぁ多分、周りにそんな人がいたら迷惑な話だろうけどね。

不妊の話しです。
生命を扱うだけに、自分自身の産まれ、育った過程、その意識の根っこに張り付いているもの、それを乗り越える生命力を見てみる事が少子化問題を考える上で必要な事だと思うのです。
まぁ環境をどうこうするのは、社会的利害関係に巻き込まれてる現状無理なので、勿論男も女も仙椎や腰の捻れは取るとして(子宮の栄養状態や、生殖能力の基盤は調整するとして)社会的自己以前の野性的身体を抑え込まない生き方をした方が苦労も楽しみも大きく、生きてることを喜べる(例え、しんでやる~!!と酒場でクダを巻いたとしても)と思います。妊娠と言う事もその中にあることではないでしょうか。