はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

インド

自然治癒力、自己治癒力と言ったものはイメージが身体的プロセスに影響を与えて起こるものと皆知っている。巡礼者にとって、治癒力を呼び起こす強力なイメージの源泉として働く聖地と呼ばれる場所は今では気軽に誰もが訪れる観光地になった時点で大半はその力を失う。
プロセスを呼び起こす為に心理分析を行うのは玉葱の皮を剥くようなものだけど、箱庭療法などでたまに治癒力を呼
び起こすことができるのも、イメージ療法もたまたま本人が身体の変動に乗っかって癒しの感覚を発見したからか、今までの自分に飽きて癒しの感覚を発見したからということになる。療法に意味がないと言っているわけではない。施術者の能力が状況を左右する。
本人の癒しの発見をいかにして導くのか?
前四世紀に発生したイエスを戴く遊行者集団は、当時ユダヤ教世界のカルトとして始まったが、ユダヤ教の神ヤハウェによって穢れたものとされた病人や罪人を癒すことによって巨大化していった。
教え自体にたいした違いはない。
ただイエスは人と神の距離を身近なものに変えた。
これはイエスのヒーリング現象の秘密の断片でもある。

聖書のなかにある「聖霊」の原語プネウマは日本では「霊」と訳されるが、本来は「風」や「大地の吐く息」つまりインドのプラーナを指す。イエスは触れる事によって、あるいは言葉によってプラーナを触媒とし癒しの発見に導く。
日本人にとってキリスト教はとても分かりにくい。中国の儒教ですら日本人に比べればまだ近代社会のスタンダードキリスト教世界に近い。
しかし、「神」が実は「命」を指し、「子」がその「命の枝葉」を「聖霊」が命の活動力「プラーナ」を指すものであれば簡単だ。と言うか、その様な解釈が再びスタンダードになりつつある。
日本でも笹川良一が 「一人に1つのイノチ」とか言い出す前はそうだったのだけど、「命」は個人個人にあるのではない。私もあなたも、詐欺師も聖者も、殺人犯も犬や猫、この宇宙の生物全てを通過して現れているのが「命」でそれは神と呼ばれている。
植物などは意識レベルまで統一されているので一つ一つの花は見た目は違うけれどそれぞれが1つの生命体の細胞のように働いている。人間も同じでそれぞれの命に近い感覚の世界になるほどその個人ではない領域が開かれてくる。それぞれの感覚も思考も誰の経験か分かったものじゃない。例えば歴史的数学上の発見があるとして必ず同時期に何人もの数学者が同じ発見をしているのも同じだ。彼らが発見するのは方法ではなく感覚だ。その感覚は過去の人類の経験情報から掘り起こされるか醸成される現象を捉える。そして誰かが新しい発見をすれば生命全体にインパクトを与える。生命全体に新たなプネウマが吹き荒れるということだ。
このプラーナと感覚と霊の同一性を直裁に対象化した治療法を行う知人がいるが興味深い。
ここまできたら次は心と感じることについて考えを整理しておく必要がある。
 


つづく