先日、一歳半の子供を連れたお母さんに母子手帳を見せてもらって驚きました。
身長、体重の記載欄は以前からあったから分かるけど、成長曲線や、ワクチン接種履歴、検診証明など、僕が見たことのあるものより厚い一冊になっている。
これを渡されたお母さん本人が、半分脅迫に思うのも無理はないと思いますね。
課題をクリアしないと、ネグレクトのレッテルを貼られる時代なんだからたいへんだ。
これは実は「良いお母さん像」の推奨モデルを厚生省が指導していると言う事に他ならないでしょう。
しかも内容は男性の思考であって、女性の母としての感性にマッチするものではないだろうと思います。
いかにも教育的な子供への管理指標は男性的な精神が形になった内容だから。
そこには母の身体も、子の身体もありません。
とは言え、子供をどう育てたら良いか不安なお母さんには、国が責任を分担してくれる気がして気が楽になるかもしれませんね。
人口問題だけでなく、社会の動向、問題を生み出す元も、解決していく流れを作るのも、この出産と子育てです。
この前アマプラを観ていたら、昭和の三〇年代?新しい時代の女性特集みたいなドキュメンタリー番組があったんですが、帝王切開から赤ちゃんを取り出すまでの様子がそのまま当時テレビ放送??されていましたが、かなりエグかった。。
帝王切開は高度経済成長の一つの景色として撮影されたようですが、元はと言えば、歴史的には紀元前の古代エジプトやギリシャ、インドなどで、死体から胎児を取り出す方法でした。
日本で初めて帝王切開を行なったのは江戸末期、飯能の医者です。
オランダの死体解剖図を見ながら行ったそうです。子供が亡くなっていたと言う事で、どんな経緯で何故行わなければならなかったのか?疑問はあるけど、好奇心が優先した事はわかります。
現代では、産婆から産前の母体を経膣分娩出来る状態にする技術が無くなってしまったから、さらに世代を下る毎に、厳しくなっていくでしょう。
人工授精や体外受精が増え、安易に促進剤や切開を行う病院が増えているなかで、助産院も次々と閉院し、より人工的な出産風景が広まっています。
江戸から明治にかけて日本の医術と近代日本が推す西洋医療は激しく争っていました。
当時、漢方や鍼の世界には名医と呼ばれる医師がいましたが、彼らからすれば軍事的強国を目指す国家が、西洋医療を選んだのは致し方なし、と諦める他無かったでしょう。と同時に、日本人と言う身体が消えていく事は、さぞかし無念だった事でしょう。。
西洋医療は誰にでも出来て、多くの人に多くの医療を提供できます。
その医療が生まれたのは、都市国家成立過程の戦場だったと言われています。
そこにメリットとデメリットの元があります。
メリットは勿論多くの人を対象にし、応急処置が出来ると言う事ですが、デメリットは「身体」を失った事です。
日本の医術は西洋医療とは全く別の発展を遂げた医術でしたが、その医術の伝承は拡張するのが難しい。誰にでも出来るわけではなかったのです。
昭和初期以前は、多くの女性が自宅で産んでいましたが、出産は病院の仕事になります。
ドキュメンタリーは、出産における欧米化の象徴的風景と言う演出だったのでしょう。
帝王切開でも、吸引分娩でも、経膣分娩でも、無痛分娩にしても子供の成長、発育には変わりがない、と医学的にはみなされています。
勿論、その成長、発育とは、身長、体重の成長曲線において、という事です。
それは例えば、突発性低身長のような、たまたま背が低い健康児に対して二歳から遺伝子組み換え型成長ホルモン〈GH〉が使われているけど、日本小児科学会のガイドラインを読んでみても、アメリカ基準にする理屈を書いてるだけなのは大丈夫だろうか?と思います。
アメリカ並みに製薬メーカーのプロパガンダによって、子供の身長は高い方が社会的優位性があるとか、美容目的なんて使われ方をするようになるかもしれない。
そこにはリスクがある事は書いてありません。
身体が成長ホルモンの急な増加を感知すると、インスリン様成長因子1と言う、細胞の生存を促進し、細胞の自殺を妨げるホルモンが分泌される。
これは、いわゆるアポトーシスを抑制する。つまり最終的にガンをひきおこす危険性があると言う事です。
もちろんガイドラインでは10年も20年も先の危険性なんてどうでも良い事なんでしょう。
しかし身長、体重で子供の成長を判断すると言うのは、簡単に馬鹿な使われ方をしかねないと言う事です。
本当に子供の成長に大切なのは、本来の感受性の発育、安定、集中力などでしょう。
10年ほど前に「女性は産む機械」発言で叩かれた議員さんがいましたが、それ以前からTVでは、女性の問題や社会的地位は、数と制度で解決すると主張する議員や、女性コメンテーターも多くいました。
彼女らもまた、自分を機械のように捉えている自覚がありませんでした。
その当時の事です。本来の感受性が真っ当に成長した二十歳の女の子が、TVを観ながら「だから女はバカだと思われるのよ」と吐き捨てる様に呟いたのが印象的でした。
今や少子化問題によって、出産ビジネスは巨大な利権の狩場になっています。
教育費無料化に、不妊症ビジネスへの補助金?出産補助金?
で増税?
だいたい、出産一時金の金額を上げれば、病院もオプションを増やして増額請求のイタチごっこで、意味がない。しかも、より身体に悪いサービスを増やしてどうもならない。
流石に、本気でこれが少子化問題の解決策だと考えてるお役人も、皆無だと思いたいのですが。。
西洋的精神は、精神自体を肥大化する事(例えば産業革命も精神の産物です)で、その地位を貶めた「身体」ですが、本来考えてみれば、精神は身体に向く事でしか己の抑制を保てないようになっています。
身体の代わりに「神」を作り出して来た西洋文明の気持ちは分かりますが、社会にとっては〈戦争に強くなる〉以外に利益はなかったんじゃ無いでしょうか。。
明治から日本はそれを真似ようとします。
しかし、この世界に存在しているのは、精神では無く身体です。
自然界の中で共生するには、精神が身体に譲るものは譲らないと、ジェンダー問題だ、SDGsだ、環境問題だなんて戯言にしか過ぎないし、藪蛇になるのは目に見えています。
かつての人類史からすると、エネルギー問題も、病も、人間関係も、気候変動も、全ては外部環境を変えれば良いと言う考え方になってから招いた状況です。
医学が身体を扱っているから、身体を忘れてはいない。とお考えの方も多いかも知れない。
しかし、その医学的身体、解剖学も生理学もウィルス学も、人間が生存の為に積み上げて来た身体性ではありません。
〈精神は身体を機械化出来る〉という方向に現象化させようとした流れが、近年作り上げたものです。
多分、多くの女性は母子手帳を見ても、微かに違和感は感じるかも知れませんが、頑張らなきゃ、と思うでしょう。
そう、教育されてきたから。
こうした反応の方がよほど少子化の原因に与するものです。
社会システムと言う巨大なビルが、医科学という18世紀哲学の機械論の上にのっかっているのですから、医科学専門家が、自然界における自分の立ち位置より、社会の立ち位置をベースにして来たのは、その罪に気がつきもしなかったからです。近代国家たるもの欧米式でなくてはならない、と国民が一致団結してきたその最初期は、国が東洋医学その他を規制して、力や技術を奪うところから始まりました。
うちの親戚は、陀羅尼助丸と言う漢方を作っていたのだけど、薬草の規制が徐々に強化されて本来の薬効は弱くなり、ついには廃業してしまいました。
自然に生えているものがダメで、化学合成したものが身体に良いと言う考えは、生き物としてダメなんじゃないだろうか?と思いました。
その延長線上に、他人はおろか、母の握ったおむすびは汚くて、コンビニのおむすびは食べれるとか、体育の時間に人に触れることが出来ない子供が増えています。
コロナ禍の教育は、この先さらにダメージが大きくなる事が予想されます。
幼稚な衛生概念によって、「触れる」と言う事にすら、拒絶反応をする子供達が増えてきた。そう育ったのは、産まれた時から生き物の身体を抑制させられ、世界を情報化する訓練ばかりしてきたからです。
その様な社会では、スポイルされない、ほんの極一握りの飛び抜けた子供も生まれはしますが、それは今の文明が終末期と言う事でしょう。
〈問題が発生したから対処する〉と考えるなら、問題はどんどん肥大化します。
現実にそうして医学は進歩したと言いながら、病気も病人も、医療費も増え続けてきました。
挙句に、もう修正出来ない時代を作ってしまいました。
〈その事態以前にあるものは何か〉〈その問題以前にあるものは何か〉を、遠回りに見えても、追求する事が現在を良くする事だったんじゃ無いですか?と思います。
出産にしても、受胎する前、結婚する前に、身体も感受性も問題無く分娩出来るようにしておくのが、本筋じゃないですか?
そこを問題の焦点に置くべきだったのではないでしょうか?
そうすれば、少子化問題からジェンダートラブルまで、問題はなかったはずです。
科学的と思い込んでいる観念すら、いい加減な事も多いんです。
想像力すら失って、古い観念をそのまま使っているものも沢山ある。
例えば、科学誌ですら、人の体内には約40種類のウィルスがいて、細菌の数は30兆とも数百兆とも言われているのだから、あなたの約半分は微生物で出来ているんですよ、と教えれるところからでも良い。
それが数年して、新たに訂正されれば、その時はその時で、人体観を書き換えるんです。
観念を書き換える事自体、訓練させるのは大事な事です。
体重50キロなら25キロが微生物というわけだから、そのアイスを食べているのはあなたですか?細菌や寄生虫ですか?って事くらいは想像した方がいい。
自分と言う意識すら、寄生虫かも知れないんだから。
人の身体は、細菌、ウィルス、寄生虫、カビのバランスが取れなくなると、病気になると言われています。
2003年、ヒトゲノムプロジェクトがヒト遺伝子配列を99%解明したけれど、期待されていたような、疾病原因の解明には至らならなかったのは当然です。
彼らの失敗理由は、遺伝子だけではなく、共生する微生物の集合体が人の細胞の数より多く、微生物の遺伝子の解読は、ヒト遺伝子以上に重要だったからだと結論づけました。
しかし、この結論はかなり苦し紛れで、微生物の遺伝子を解析したところで疾病原因の解明になるわけがない。そもそもの見方がおかしい。
ヒトゲノムプロジェクトが終了した当時、多くの研究者はヒトはなぜ少ない遺伝子で複雑な生命活動ができるのか?という疑問を抱いていました。
その答えの一つは、体内にすむ微生物に多くの生命活動を外部委託しているのではないか?と言う事で、マイクロバイオームとヒトとの関係性を調べる研究が始まります。
簡単に言えば人体と言う役所が、民間企業や天下り先を作って、そこに仕事を委託するから人体は活動できる。
その役所と企業の間にはどんな癒着構造があるのか?または入札制度は適切なのか?を調べると言う発想です。
つまり社会構造を投影した考え方で、これによって疾病構造がわかるなんて、人DNA解析だけよりはマシだと思うけど、成功はしないだろうと思います。
外の世界ですら、その生態系間の繋がりや、環境毎の変化、種の絶滅原因や新たな誕生、気候変動との関係、何一つ分からないのだから。
そんな中、遺伝子薬が今回世界中で治験されました。
つまり、専門家なら、誰もそんなものが計算通りの効果を持つなんて、信じていなかったはずです。
そもそも、こうした構造観を一万年研究して解明出来たとしても、その九割以上は人体学問側からはブラックボックスになっています。
しかも科学が排斥して来た世界は、あと数十年もすれば目にする事も、解明する術もなくなり、医療はAIに依存していく事になるでしょう。
ともかく、今や経膣分娩と言う人間本来の誕生は、珍しいものになりました。
無痛分娩や帝王切開を気安く行える事は勿論、生後一年内に10本も打つワクチンの必要性に、疑問を持てない医学教育には戦慄します。
そんな社会、僕が新生児なら産まれてきたことを後悔するのは間違いありません。
新生児には、もともと胎脂と言う抵抗性が備わっています。それを洗い流してしまったり、その子の心臓に必要な臍帯血を奪ったり、出生直後にビタミンを注射してみたり、母のバストが崩れるから粉ミルクで育てましょうとか、おかしな事はいっぱいあります。
子供が精神疾患になったとか、障害を持っていると言って病名を与え、薬物を与えたりしますが、そもそも何故病気や障害が増えているのでしょう?
新生児に10本のワクチンが義務化されてから、七ヶ月くらいで体重の減る子供が増えていると聞きました。僕のところに来る子もそうです。
その子に、体重が減ったからと言って栄養を与えれば身体の負担になる。
右肋骨に手を当て、右足二、三趾間に気を通せば良くなるけれど、新生児にこれだけ負担を与えれば、その子本来の成長が歪んだ場所からスタートする事になります。
成長してやがて死ぬまでの間に、どれだけ障害となるのか気になるところです。
他者の強制的介入は、特にこの場合、暴力と言っても過言ではありません。
症状が治れば終わりと言う問題じゃないでしょう。それは当人の人生を、少し狂わせると言う事なのですから。
成長の過程では、異なるリズムで発育が身体の中を移動します。
現在、何が成長しているのか?を見るのは難しいけど、母親は子供が今何に興味を持ったかに注意し、記録する事が大事です。
自然出産の自然の意味は、「その育つように育てる」ところにあるのです。
出産の重大性は、この時代のあらゆる問題の根っこにある恐怖心の源のようになっているけど、そこにはどうしようもないジェンダー問題があるのでしょう。しかしそれを解消しようとすれば、子供は産まれてはいけなくなります。
社会的構造の前に、苦しみや憎しみを同化しなければ、問題は別の時代によってしか解消されないものです。
「黒い雲の向こうは、いつも蒼い。」
その雲の「向こう」と「こちら」は等価です。
等価ですけど、知らなきゃならない。
雲は生命力のストーリーそのものですから。
それから、「その育つように育てる」と言う視点は、現代の諸問題を生み出している視野の中には入っていません。
自分達が身体を失ったのは、その視覚が何を現実とするのかと言う性質の、分別がつかなくなったからです。
現実とか実在と言うものは、身体が歪まないと焦点があわないようになっていて、歪んだ視点で観ているものが、この世界なんですが。。
社会の歪みは、社会が客観的なある角度から注目するから発生しているのであって、歪みは世界の運動性を保証しています。
VRの世界で感覚共有の研究分野がありますが、それはどこまで行っても情報共有に過ぎなくて、感覚体験を共有する事が分かっていません。彼らの話しを聞くと体験の共有が人生を豊かにするはず、と思っているようですが、VRの世界じゃそもそも無理なんです。
この歪みによって、形の受け入れ方を変える事の連続が、共有化を生み出す事になってきます。
でなければ、注目している視点はそのまま、何かが起こるのを待ったほうが無難です。
・・ここら辺は、またしっかり書こうと思います。
時代と共に変わってしまったものは多くありますが、例えば昨年、家を改装していた人がいました。
その人が夏に入ってから、暑くて居心地が悪くなってしまってしょうがない、と僕にぼやく。
「だから住○系列は、代金高いだけでやめとけって言ったでしょ」と話しました。
ちょっとした改装が、費用にすれば都内でも小さな家一軒分の値段です。
しかも、部材が悪い。
古い家に戻したいと言うのは、今の建築用資材が夏用に考えられてないからなんです。
D先生曰く、日本人は夏に弱いから家は夏用の建築だったのではないか、と。
昔の家は、風の通り、陽の遮り、木材の温度(暖かな木の家なんて言う宣伝文句はウソです)など日本人の身体の働き方に合わせて気持ち良さを追求していました。
それは身体と風土の関係性がマッチする設計だったんですが、戦争で空襲に強い都市作りを考えたのか、すっかり西洋式になり、更に加工技術の発展で火事と防犯に強い家を売りにします。
それも合板とプラスチックによって、最近では一か月もあれば建ってしまう、レゴブロックの様な家になって来ました。
大手のメーカーが作る木材の家にしても、壁や柱、梁あらゆるものが簡易化されて、住み心地が身体の感覚ではなく、便利さと安価さを対象としています。
電気で沸かしたお湯と、ガスの火で沸かしたお湯の違い、料理の違いは誰でもわかるでしょう。
風が通る木材の家と鉄筋や合剤の家の空間の居心地も違うと分かるでしょう。
真っ直ぐな壁となだらかな曲面の壁も、今の窓ガラスと、昔の歪んだガラスの違いもどちらが心地よいかは居心地で分かります。
それを些細な事として、利便性を選択して来たけれど、いろいろな建築の知恵も失いました。昔ながらの畳屋さんも、ガラス屋さんや材木屋さんも、もうほとんど見なくなりました。
その職業に保存されて来た技術と言うのは、みんな偽物の量産品になりました。
それは、衣にも食にも言える事です。
オール電化にEV自動車、冷暖房など、生活を全て電気に依存する現代は、資源の奪い合いで戦争をおこし、利権を争い、失敗すれば節電しろと言う、お笑いの社会を真面目に作ってきたところに絶望感があります。
我々は種として生き残る為に、長い間、様々な地域に分かれ、地球上に分散し、暑さ寒さに強い身体を作ったり、飢餓に強い体質を生み出したり、疫病を克服し体内環境を適応させ、生存戦略を進めて来ました。
ところが近代、外部環境を変えて地球上の全てに利便性を商品化し、収益化の対象を広げ、利益と権力を生み出したものが豊かさの象徴になる、と言う考えにおきかわってきました。
つまり収益化は、人類のそれまでの生存戦略を蹂躙し始めます。
この「欲」の毒性とはどんなものでしょう?
体内毒素から考えても、何を毒素とするか?と言うと、これは「身体に同化しないもの」と言う事になります。
「同化出来るもの、出来ないもの」例えば口に入れる食べ物も、身になるものもあれば、ならないものもある。対象のモノの問題じゃなく、受け入れる身の働きとの関係性です。
四回目摂取から始まった第七波ですが、発熱すると、順調ならば2日目くらいで熱のピークがくる。
ピークに達すると凪の状態が少しあって、熱は下がり始める。
この下がりはじめた時から、寛解が始まる。
期間的にはインフルエンザよりも短い。
それも、すぐにピークアウトを迎えると思うのだけど、だいたい、なんの風邪にでも性格がある。その性格もだいぶん変わったと言うか、最近は胸腺の状態を観察しているけれど、身体は季節の変化と共に周期的な変化をしているから、同じ薬毒でも病原でも受け止め方の方は変わります。
コロナ本や免疫系の書籍を数冊読んでみれば、ワクチンなどの仕組みは分かる。だけれど、それが理屈の通りにいかないのは、身体の中で理屈が機械的に反応しているわけがないからです。
多くの人が誤解してるのは、熱が出たら「ヤバイ」と言う思い込みなんだけど、基本的な事は簡単に言うと、身体が平衡性を保とうとした時に病と言われている反応は起こる。
身体が元気になろうとした時に、余計なものを掃除し始める。それが病だと、そう理解しておく必要があります。
でないと、手遅れになるまで、身体は問題を溜め込める鈍さを持っていますから。
熱が出るとすぐに薬を飲んで、自然な経過を経験した事がない人が多いから、疾病観がおかしくなっているんじゃないでしょうか。
今回その中に産み落とされた毒が気がかりで、それは何処ぞの教授が言ってるように、オミ以降は自然界のモノにしては不自然な事。
人為的な手を入れた世界は著しく劣化する。
これが今後、戦争や環境問題に比肩するリスク要因になる「欲」毒の現象化でしょう。
今回だいぶん書き殴った感がありますが、突っ込んだ話、削除しちゃったインド哲学と、特に遺伝子については言いたい事がいっぱいある。
でも長くなるのでこのくらいにしておきます。
補足・この三年で人間の身体は急な変化を強いられていて、これからもその変化は続いていく気がしています。
実際、変異によって、ウィルスが生存しやすい条件が変わってきているのは間違いないし、ワクチンによって同化出来ないものが生まれている。
そこはコロナが怖いとか、ワクチンが怖いと言う話しではなくて、人類史の中では文明によって進化する事を止めてしまった我々の身体が、これまでとは違う脅威に晒される危険を意味しています。
国はしばらくパンデミックは無いつもりで、財政を疲弊させてしまったけれど、それこそ数年後にコロナは水虫程度だったと思うような事態になる可能性もあります。
その時、自分の身体は可能な限り、自分で面倒を観れる事が、かなり大事な事になると思います。
自分達の身体が、個としてでは無く、全体として生きている面を、医学的に捉えるパラダイムシフトが必要です。