はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉

迷惑かけたらごめんなさい。

風邪の季節

この時期、風邪をひく人は多い。

風邪をひく事によって、季節の変化に追いつこうとするからだ、と考える事が一般にも広まれば、ウィルスだけを悪者にするよりも世の中だいぶん明るくなる気がする。

身体は一年を通して目まぐるしく変化していく。そこには焦点と言うものがあるのだけど、これは全国どこに居ても同じ時期に同じような身体を要求する。

その移動する焦点に身体の全体がついて来なければ、身体が風邪やインフルエンザなどを利用して変化を促進しようとする。

また「風邪の効用」には、身体の偏りすぎを解消しようとする働きが起こった時に風邪をひく、と言う表現がある。

大事なのは、風邪をひいた時は既に、回復に向かう働きに乗っていると言う事。

だけど回復の働きが起こるには、身体の波や個人差があって、すぐに働く人と中々働かない人がいるし、働きが鈍くて慢性化して来ると、回復の働きに体力が見合わなくなる事があるから、出来るだけいつでも自然免疫が働くようにしておきたい。

自然免疫の自然は勿論身体の事で、身体が整った感覚を求めて働いている事を指す。

その働きを鈍らせなければ、身体が風邪をひくうちは、それがコロナだろうがインフルエンザだろうが、上手く付き合う方が人生は快適になる。

僕も体力があった頃は41.5度を経験した事があったけど、40度を越えると気持ちが良い。

インフルエンザも40度までは行かないけれど、熱が上がりきった時には爽快感がある。

今になって体力は大事だとつくづく思う。

体力が無ければ、39度を越えただけで、気絶したり大騒ぎになる人もいて、生存能力としてどうなの?と思ったりもする。

この三年は風邪をひくにひけなくて、あーコロナ貰ったかなと思うと、習った行気法や自分の作った行気法であっけなく全快するから何事もなく過ごさせてもらった。

その過程で季節の身体に整える事が改めて大事だと思ったり、身体の偏りを修正する風邪も、上手に利用する為に熱を出し切るのはなかなか難しいけど、身体を観察したり勉強するには、とても有意義な期間になっていたと思う。

 

三〇〜四〇年前、小さな荷物一つで中国やインドに武術やヨガを求めて旅に出た人や、沢木幸太郎、写真家藤原新也メメントモリなどに影響されアジアに向かった若者が多くいた。

中にはオレはババジになるからパスポート要らない、と着いて早々に捨てる強者もいたけど、彼らは日本に帰って来た瞬間にどんよりした鈍さ、思考速度や思考力の低さの不快感を経験した。

それは海外だけじゃなくこの国に居ながらも、社会システムから隔離される状況を作ればわかる事で、人里離れた場所にはまだ面白い人達がいた。

自分一人でも生き抜くと言う意志を必要とするシチュエーションは、生存能力を活性化する。

文明から切り離された状況に入り込むと、そこでは当たり前に働いているセンサーなのに、これを現代社会に持ち込むと突出した能力になってしまう。

文明形態として、日本社会は個人の身体性センサーをポッキリ折って依存させようとする社会で、悪く言えば皆んなが足を引っ張りあって怠惰な状況に安住しようとする。そうした生存能力を奪う、システムの為の知識や思考パターンが、都市社会の正体と言える。

自分の生存半径と言うか、感覚の範囲は、例えば聴覚が分かりやすくて、音が聞こえる範囲内は自分の感覚範囲を広げる事が出来る。

おそらく匂いはもっと広い。

通常皮膚感覚に思われている触覚でさえ、経験上2〜30メートルは広げることが出来る。

更に感覚全体を外部領域化した場合、本来は野生動物に劣らない身体性を人間は持っている。

そんな身体性にとって、都市生活は虐待環境以外の何ものでもない。

そこで話しが戻るけど、風邪をひいたり、病になるのは、命の為のセーフティーとして当たり前ではないだろうか。

もともと感染症と言うのはシュメールの時代から都市国家に生まれた、都市生活の為の病なのだから。

 

ちょっと年明けからトンガリ過ぎた?

実在しない現象の身体へ 3

意識にとって身体は死体であり、マリオネットの様に見える。

その意識も実体ではなく、現象に過ぎない。

 

武術的な事から離れて随分経つからかも知れませんが、前回書いたようなパンチの話や、重心云々はどうでもいい話で、それらは実際ある意味近代社会、近代世代の身体、パフォーマンスにおける価値観に過ぎないものだろうと思ってるんですね。

最近YouTubeを観る事を覚えて1940年代、太極拳の王宗岳から数えて六代目、七代目の映像を観てみると、六代目と七代目では、これは世代として随分違う身体になっているなぁと思います。

その六世代はやはり修練の中心が今とは違うし、見事なものです。

気や意識の概念自体も違うんじゃ無いかと思います。

この違いがどう言う事か?違いがどこにあるのか?それを識別する事がなんとなく出来るようになっているかもしれないのは、二十年の成果か?なんて思いながら観ています。

 

中心軸について昔を思い出して書いているけど、当時よくよく思い知ったのは、現象体験は必ず未知なもので、絶対的に無意識の領域からやってくる。と言う事です。

中心軸を考え始めて一番最初に体験したのは、意識の居場所が自分の内と外の二つに分かれると言う事でした。

意識を身体外左上に移動すると、身体はマリオネットと化して身体を客観的に動かせます。

それは、二十歳の時の事ですが、我流の脊椎行気(当時は長息訓練とよんでいた)の副産物でした。

当時、まだ鼻に問題を抱えていて、人並みに鼻で吸息しようとすると二分近く掛かっていましたから、それが意識の集中を訓練する事になったのかも知れません。

内外自由自在に移動出来る様になって、何より意識は空間を持つと言う事に驚きました。

意識が人間という現象の二次的産物だと気づいたのは、空間が物理的な世界に意識を置けば、肉体は物理に支配され、気流の中に入れば気流に支配されるという事。

そして多くの人の気配は、球体で触る事が出来、それを動かすと意識が動き、身体が動くと言う体験をした時期の事です。

意識の知覚世界のようなものは、その呼吸の転換点の様な瞬間?狭間に別空間にスライドする事もある。これは、別の強い意識によって起こされる事もあります。

空間性の全体に対する局処として、個の意識が働いているのが人間と言う現象だとするのは神秘主義っぽいかも知れないけれど、実際にはこうした現象の元にあるモノが、頭で考えるよりも遥かに深い世界の現実を作る働きを占めています。

 

そうした追求の仕方をやめてしばらく経ち、鄭子太極拳をのんびりとやっていた頃、ある時自分の左側外部空間に異質な体軸が発生し、身体の左側から身体の中に入って来ます。

その瞬間全身のいろいろな配分、配列が変わる。

身体は自分なのだけど、視点も腹も違っています。

後でよくよく鄭慢青の写真を観ると、やはりその通り。因みに鄭曼青は六世代ながら、ちょっと近代的に思います。

体軸と言うのは、情報として存在するもので、全体の配列情報を含んでいます。套路には作った人の情報が含まれていると言うよりは、アクセスする鍵があると捉えた方が近いのかもしれません。

しかし、それは自覚の外で発生するもので、きっかけになるまとまりとの、ある関係性に誘発されて発現するようです。

 

こうした身体を観ていくと、やはり世代毎に変化していくものはあります。

どの分野もこの世代交代の劣化を止めるのは容易な事ではありません。

身体や動作の文化的遺産も、その自覚の仕方自体が時々において時代的になり、疑問を持つ事の難しい自分自身の身体に向けられた感覚、実感が、社会環境の投影であるとなれば世代を遡る事はさらに難しい。

しかし、最近久しぶりに太極拳について考えた時、内観的な技法でどこまで遡れるのか考えるのも面白いだろうなと思うようになっています。

それは精神の醸し出す世界を徹底して排除したからこそ生まれた技術ゆえに可能になるのかと、いろいろ話しが繋がり始めたところです。

 

 

実在しない現象の身体へ 2

今回は日常の中心軸と言う事で考えてみたいと思います。

例えば中心軸と脱力に関して、武道系のよくあるパフォーマンスに、立位の人が脱力すると重くて持ち上がらなくなる、と言うものがある。

これには幾通りかのやり方があるのだけど、例えば仙骨の先端を踝の間に落とす様にするだけで、身体は持ち上げられなくなる。

物理的な体重は変わってないのに、突然重く感じるのは、身体同士が感受性によって働いていると言う事を表している。

ここでよく構造の問題にしたり、山登りのリュックを引き合いに出して重いものを上に仕舞うと荷物は軽く、下にある程重いと説明が為されるけれど、これは分かった気がするだけで、よく分からない。

重心が何かと言う事も、重心は自由に移動出来るのかと言う問題もあるけれど、基本的には静止した状態の話しになる。

例えば下が重くなったから安定したわけじゃないのは、揺れる電車の中で脱力したから安定して立てる訳ではない事からもわかる。

安定した立ち方には、人それぞれに重心の偏りがあってその要因は様々だけど、揺れ動くシチュエーションに対しては運動に適応する感覚点が必要で、重心とは異なる。

重心は緊張や厚み、大小、重み等として現れ、適度な運動への力や速度、収縮力を指示する。

例えば、筋肉の質やつき方もそれぞれ違いがあって、僕も中学生の頃ブルースリーに憧れ鍛えようとしたけど、どうもあの質感には程遠い。それで少林寺拳法を始めて見たけど、どうも自分が鍛えて伸びる能力と友人の能力は違うと気がついた。

その頃は、それが体質の違いか、呼吸の違いかなと思っていた。今考えるとあながち間違いではないのだけど、もっと端的に筋肉の質に現れる事がある。収縮速度の速い開閉型の体勢を作ってスクワットなり腕立てなりをしてみると、その場での肉体の充実度がまるで別物に感じる。

ボディビルダーのような、鈍い大きな筋肉とはまるで異なる質のものがついてくる。

つまり、筋肉自体はそれぞれの運動特性における違いを支える質として育つと言う事だろう。

 

例えば、重いパンチと軽いパンチと言った場合、物理量として腕も身体も重さは変わらない。

力は抜いた方が重いのは当然だけど、普通集中した状態で力を入れて打つ事はなく、これにも幾通りかのやり方があるのだけど、簡単なのは、パンチを出す運動を単純に距離として考えれば、軸が伸びるとか、身体の中の「遠く」或いは「過去」を使えば良い事になる。

効率の良い身体の使い方はあるけれど、それらを無視しても、つまりどんな打ち方でもこの原則は通じる。

物を相手にするのは物理法則でも良いけど、人間同士では物理法則ではなく、感受性の原則が現象に優位であると言う事は最近浸透して来ているように感じる。

 

例えば物理量と中心軸の関係で言うと、腕に鉛を巻いて二、三時間腕を上げっぱなしにすれば、その鉛の重さが脊椎を下降してピッタリ中心の一点にハマると反転して脳幹に向かって上がってくる。

その時のエネルギーは重量ではなく「質感」である。

これを物理的に観たものを「質量」と言う。

質は感覚領域に属するのだから、中心はあくまで感覚領域であって、そこに至るまでの抵抗は質無き物量として反応しているに過ぎない事になる。

ただ、この静止状態における感覚を運動状態の中で一致させる事が出来るかと言うのはまた別の難しい取り組みだろう。

 

例えば音楽の世界は本来感覚領域だからこの中心としての脊椎には深い関係がある。

最近コンサートに忙しいU先生の背中を触ると、終わってから身体にメロディーのようなものが流れるくらい、U先生の脊椎には弾かなきゃならない曲が入っている。

野口先生の言葉を借りれば、この真ん中の力があって形が出てくる。裡の力、勢いで形が作られてくると言う。そこには人間の力、運動、呼吸、収縮する力、感じる力、速さと言う問題があるとされていて、武道や音楽に限らず、この力で人間は生を保っている。

 

普通の生活を送っていると、この中心の力は見失いやすい。

身体の快適な状態からは歳をとる程離れていき、眼と頭ばかりを使う生活をしていても見失う。

そこで、例えば自分の背骨、棘突起を感じてみる。

働いている骨を三つピックアップすると中心、脊椎に気が通ってくるのだけど、全身の姿勢がその流れに応じた形を持っている。

その形をとって立ち、観察すると不快な部分、固まっている場所がある。

そこにあるのは大抵〈邪気〉と言われるものが多い。

これを処理すると、制限されていた姿勢から解除される。

つまり真ん中の力を阻害しているものの多くは邪気なのだろう。

 

前回の軸の話は、この軸よりずっと奥にある、糸より細く流動している線の事なのだけど、これにも運動制限はある。

その運動制限と、通常の気化した軸の邪気による運動制限は、邪気の本質に関わる繋がりがあって面白い話しだと、僕は思っている。

アニミズムの〈へそ〉

非自己化、己を消すと言う事を、もう少し付け加えると、身体と言うのは「私」にとっては他者なんです。

難しいかも知れませんが、でもみんな無自覚にそう観ています。

だから、平気でいろんな薬を打てるし、切ったり貼ったり整形したり出来てるわけです。

で、この身体と私が同化しないと私たちはただの幽霊と死体ですから、この二つが同化した生存形態で産まれてくる。

この同化し、私と身体が結合する機構の中に、様々な生きる為のフィールドがあります。

この前、ホームセンターで障子紙を買って帰ったら、障子紙って表裏があって、紙の上に寝転ぶと表は表の身体で、裏は裏の身体になる。だけど、表の身体は左右に分かれるのに、裏の身体は前後になる、日によっても変わったりして別の身体が表面化してくる事が分かります。

普通はこんな違いを観察しようとも思わないから、何か違うな程度か、頭でしか生活してない人は違いを感じない。

でも、この違いだけでも、身体を使うセオリーも感覚のセオリーもまるっきり違います。

そんな異なる身体シーンがいくつもあって、入れ替わり立ち替わりしているのを運動と言っています。

己を消すと言う事はこの身体の方に主導権を持たせると言う事でもあります。

そうすると、「私」では気がつかない身体の生存模様や状況がすこしわかってきます。

例えば、同化の中に癒着が生まれ、結合の結び目が硬くなった部分を、私達は不具合として感じます。

整体で邪気やガスとして研究されているものは、ある種の癒着から生まれ、他者間も行き来するし、必要以上に溜まったり発生したりして、人間のある過剰さをうみだしもします。

この邪気やガスの深い何かが動き始めると、コロナみたいなものを呼び込むところから、発症に変化する事もある。それは勿論インフルエンザや、通常の病の大半も同じです。

腰痛や白内障の方も、ガスを出すだけで症状が消えてしまった程です。ほとんどの病、不具合がここから来ていると言ってもよい大問題なので、一口に「癒着」と言っても現象は多岐に渡ります。

癒着は身体の内側にも外側にもありますが、例えば、怠惰な僕は畳に座れば畳と癒着し、椅子に座れば椅子に癒着する。

物や道具を持っても癒着するし、画面を見れば眼が癒着する。

衣服と肌も癒着するし、部屋の空間とも癒着する。

同化との識別を生活の凡ゆるところに必要とする程、無意識に癒着する事へ依存しています。

これらは身体の不具合以前に、運動能力を削り取りますから、一昔前は許されない怠惰さでした。

例えばワクチンも薬も、この癒着を生むものの一つですが、最近だと4回目接種が始まる直前までは、このコロナ禍も終わりかなと言う状況だったのを覚えている人も多いと思います。僕の周りでも4回目でまた第七波をやるんじゃない?と言っていた矢先です。

ある日、世田谷区の空気が一気にガスっぽくなったので、あー今日から接種が始まったかと思ったくらい、どんよりした邪気が広がっていました。

それから瞬く間に第七波が始まります。

この邪気と邪気に対する感受性、特徴は、回数を重ねるごとに少しずつ変化していますが、このガス、邪気の本質は何か?と言う事を考えた時、また何故この時期甲状腺系統だったのか?と考えた時、全体的な視点を持つと、製薬メーカーがやっている事も、政府の雇われ学者が推進する〇〇な対策も、受け止めるしかないのが今の日本です。

それに、個人や企業の意図がどうあれ、時代の流れに絡め取られただけにも思えます。

自然界に関与している現象とは、個人の思惑や仕事が単純に反映されたものでは無いですから。

 

何故不具合が癒着から発生するのか?

前回の話しのついでに、「分離」の例を精神活動と身体の関係から考えてみます。

身体は精神性に生きる人には、精神の分布として現れます。精神的問題と自我の問題として身体を扱う方が、現代では理解されやすいようです。

精神世界の面白いのは、入り口から、最後の扉までが「自己化」で、その先が「非自己化」になっているところだと思います。

例えば、ヨガで言うムーラダーラという場所は根源的恐怖との癒着と言ったような、身体的局処と精神的局処の関連性が一つのモデルになっています。

この癒着に対する極端な分離を狙ったのが、クンダリニーと呼ばれる現象です。

これは別にヨガをやらなければ体験しない訳ではなく、偶然プロセスを踏んでいれば起こってしまう生理的なものです。

その始まりは「ゴーーー・・」と言う独特な地鳴りみたいな音が、背骨からしてきます。

これは私と身体が分離してしまう合図なんですけど、その後背中が割れて、身体と私の感覚する体が分離します。

分離すれば不具合も当然感じないし、溜まった疲れもキャンセルされます。

「私」の方は、ある身体感覚を保ちますが、物理感が消えているので、浮き上がります。

これは生きてるうちに体験しなくても、死ねば皆んな分離しますから、だれでも分かります。その時、不具合はこの世に生きてる実感だったのか!と感慨深く思う余裕は無いと思いますが。。

勿論、精神的な苦しみは、「私」の側にも「死体」の側にもありません。つまり、苦しみは身体現象の側にあると言えます。

生と死は案外近いところにあって、背骨の結合と分離は重要な働きを象徴しているんじゃないかと考えられる現象です。

この同化と分離の作用はスケールの縮小された同化、癒着、分離として、身体を活かす為いろいろな細部に働いています。

見方が分かってくると、病とか怪我などによる不具合は、「私」でも「身体」でも無い。癒着や反同化現象を巡る状況だと言う事が納得できるようになるでしょう。

 

例えば、前回少し書こうとしたアニミズムの中心は同化と言う事です。

私にとって身体は他者であり、非自己化して身体を生きる時、同化した私は消えている。

まずこれが基本的な生存スタイルならば、我々はあらゆる経験を同化しなければならず、様々な感覚質に出会い、同化し続ける事を運命付けられています。

ただ、一体「何が」何に同化しようとしているのか?そう考えた時に、D先生の仰られていた「人には臍の緒を切られた時の喪失感がある」と言う言葉の意味が分かる気がします。

つまり人の自我の芽生え以前にある感覚主体が体験する喪失感覚、それ以前と以後に来る自我形成後の孤独感を根源的なモデルとして身体の感受性は運動し、社会や文化を形成しています。

 

例えば、今時期身体が冷える人は多い。

ネット環境で電磁波が強くなって、身体には熱が溜まる。

夏は特にこれがキツくて身体を冷やしたくなるから、熱帯夜と聞くとクーラーをガンガン効かせて寝る。或いは少し涼しくなると、窓を開けて寝る。

けれど、これが一番身体に冷えが入りやすい。

電波や電気製品で溜まった熱は、冷やしたから取れるわけではないから、体内の温度差はより大きくなり、身体は知らないうちに機能低下を起こします。

冷えと熱は表裏になっているから、温めれば良いとか、冷やせば良いという短絡的なものじゃなくて、例えば巷の本屋に売っている整体本にもあるような左足の三、四指間でも良いから、冷えや熱を分離させて処理しておくと、冷房の電力消費を抑える事が出来るでしょう。

文明は非自己化も同化も出来ない生活様式が多い。

身体に癒着し、或いは非同化してしまうものをも、一旦は受け入れる、受け入れざるをえないものがある。

生存方法として変化に適応する余地が、電気や放射能、農薬、重金属なども一旦受け入れるけれど、これがホモサピエンスの器を越えて決定的な変化をもたらさざるを得なくなった時、種としての現生人類は終わりを迎えます。

 

だからこそ、生存の方法、文明の形態を皆んなが考え直した方がいい。

 

教室予定

8月27日

9月17日、もしかしたら24日も

10月22日、もしかしたら29日も

 

 

 

信仰の風俗と近代政治の詐術

なんか最近カオスですよね。

災害は続くし、政治も経済も問題だらけだし、撃たれた安倍さんに同情する気持ちが無いわけではないけど、そのうち政界がカルトとの関係を上手くあやふやにするであろう事を考えると、バカバカしい。

カルトといっても、いろいろあって今回のは日本にとって明らかな反保守のイデオロギーを持ち、集金目当ての組織なのだから、最悪な部類である事は間違いない。

ただ、カルトにしても、ユニオンや結社、マフィアにしても、政治や国際連盟の中では、メンバーそれぞれが、どう言った背景を持つのか互いに知らないか、利用し合うのが実情であろうから、一般人は実態を知りようがない。

組織としては、政治政党も国際連盟も最も脆い集合体だから、誰もが参加出来る故に、枠組みの違うカルトやユニオンはそれを利用も工作も出来る。

実際政治は、取り込まれたその信条や、パワーバランスを含めて安定を保たなきゃならない。

だから、今回の様な事柄は、いかにも日本の政治家がウブ過ぎる、派閥の長までがタレント議員並みの素人感丸出し、政治家はカルトだろうが利用するもんだと言えばいいのに。

どんな国にも建国神話があって、神と国家は切り離せない関係にある。そこを切り離そうとしたのが近代の日本であり、中国や北朝鮮などのごく少数の国。しかし民主主義を選んだ日本はやはりこの有様。

世界中に日本の政権与党はカルトを背景としている、そう印象付けてしまったわけだから、日本の民主主義のショボさには恥かしさしか感じられ無いのだけど、この恥を雪ぐつもりも無いようだ。

ここら辺の話しは、好きな人も居るかも知れないけれど、縁がなければそれに越した事はないので、もっと自分達の日常生活に関わるところに話しを変える。

 

結論から言うと、世界は日本と同じ無宗教に向かう。あと数十年もしないうちに宗教は無くなるだろうと予測され、その意味では日本は最先端をいっている。

ただし、宗教が無くなると言う事は、民主主義が消える事でもある。

 

日本人は少し宗教について嫌悪感が強すぎて、その観念的傾向によって、アンタッチャブルな領域と錯覚している。

それ故に生活の感受性基盤が西洋宗教を由来とする感覚に変わっている事に気づきにくい。

更には教育、評価法そのものも、知能、知性まで西洋宗教に感染しているとも言えるのだけど、ここら辺は少し身体性の話しになるので後ほど触れる。

そもそもの政治と宗教をザックリ言ってしまえば、民主主義とか法律と言うものは、宗教的な背景、神との契約に始まっていると言う事。それを日本人は浅薄に見すぎてきたし、日本人的建前に過ぎないと思っているところに問題があったんじゃ無いかと思う。

無神論者が大半なのは良いけれど、神の代わりに科学や医学が人を救うと考えているなら、科学や医学もまた、神学の一部であった事を忘れている。

 

リチャードドーキンスが、神はいない、科学だけが真理だ、とわざわざ宣言したのは、一般の科学者が神を信じ、その良心に基づいて研究を行う欧米の科学世界において、利己的な精神だけが生物の進化を演出してきたのだ、意識外に起こる事は科学的では無いから否定する、と殊更に主張する事が刺激的だったと言う事を示している。逆に言えば、それだけ西洋世界、モンゴルや中国含め〈国家〉と言うものは、万能の神を必要としてきた。

その意味では、政治家を含めた日本人一般もまた、私の利己的な精神こそが、行動の拠り所であると認識しているのだから、誰も彼もが利己的なドーキンスの世界の中にいる。

元来、日本人にとって宗教や祭りは風俗で、その風俗と並んで天皇と言う役割を愛し、また先祖、祖霊を大切にする生活が自分達の出自を守っていた、と言う経験、これも明治と共に古い迷信的な観念の中に追いやられてしまった。

結果、利己的な政治、利己的な経済、利己的な教育がバブル以降に現れる事になる。

しかし利己的である事の何が悪いの?と言えば、何も悪くない。

信仰が無ければ、良心が存在しないわけじゃないし、もちろん利己的な良心と言うものに違い無いけれど、それは本来なら信仰による良心と違って、生物の生物に対する性質、興味に由来する。

この良心を含む日本の社会規範は、自分達の性質の中から、上手く社会性を形成出来る動きを取り出し、熟成させてきた、それが文化になる。

この文化の中で、昔の人は利己的精神の「己」の部分を消す方法を考えた。

「己」を消せば、精神も消えるのだけど、宗教界でそれを試みた仏教は、精神だけが残ると逆の考えを示す。

日本文化は、この二つの己を消した活動によって豊かさと高度な文化芸術の花を咲かせた。

 

ところが尊王攘夷を盾に、豊かな文化より、豊かな経済、富国強兵へと舵を切った明治維新のやり方が不味かった。明治維新自体は仕方ない。しかし、衣食住まで西洋式にしてしまって身体を失うきっかけを作ったのが、文化の下り坂への折り返し点になっていく。

その後はご存知の通り、敗戦で無自覚なまま植民地化した有様になる。

 

そして利己的な宗教[科学]を必要とする精神に移行する事になっていく。

近代まで国家にとっての神は、戦争の為に必要だったし、そう利用されてきた。この構造は精神を理解する為にはとても重要な事柄になっているし、それが今後どうなっていくのか考える必要がある。

 

僕は信仰と言う事がわからなくて、信仰に生きる感覚ってどんなものだろうと思ってきた。考えてみると多くの現在ある宗教は女性的で、科学が男性の為の宗教だとすれば、歴史の規模も社会のシステムも合点がいく。

その女性性を支えるシャーマニスティックな現象の多くは胸椎11番の焦点が働いている。つまり卵巣の不思議さがそこにあるのだけど、その女性的宗教と言うものが、もう数十年もすれば終わると言う事は目に見えている。

男性的宗教の実質は何かと言えば、個の現象分析と言う事で、その一角に科学的思想があって、これはこの先全てを飲み込む。

この科学的一角以外に、じゃあ男性は神や仏を観れないか?と言うと、多くの僧が一生かけて仏を観ようと修行してきた事自体尊いし、それが男性にとっての本来信仰と言う集注を形成してきたのだと思う。

だいたい男性は奇跡に出会えたから信仰する、と言う性質のものじゃないしね。

 

宗教と国との関係も、カルト史も霊術ブームも日本では風俗の中にあったものだけど、明治以前と以後では大きく違う。

その歴史的な変遷は検証を試みている学者さんが何人もいるし、様々な分野にまたがるので、興味のある方はそれぞれの意見を参考にするのも良いと思う。

ここにそれを書き始めるのは不毛なので割愛するけど、一つ明治以前と以後の風俗の根っこにあるものの違いについては、書いておくとしたら、それは文化人類学アニミズムと言う。

もちろん学問では事象を収集し、保護する事は出来るけど、本来の生活、姿は失われていく。

アニミズムは近年まで八重山諸島、久高島辺りには残っていた記録があるけど、一族に一人くらいの割合でいるのではないかと思われていたユタや、カミンチュも、人生がキツいし、産業の変化や教育によっても存続は難しく、ほとんど消えてしまった。

海外でも、貴重なアニミズム世界には開発や研究の手が入って次々と様変わりし、資源を奪われ消えていった。

そんな中、最近で言えば奥野克己さんの書くボルネオのプナン居留地での体験が面白い。

どの本もペニスピンの話しが話題の中心になってる気がするけどw今こんなフィールドワークのレポートを出版してくれる研究者は貴重。

アニミズム世界を持つか持たないかは、自然界と人間の二元論の世界か、動物や植物、粘菌やウィルスなどの多生物世界に人間が加わって、世界を生きるかの違いにある。

彼らは森の動植物と自分達の因果について、多くの知識を持っているが、それを論理的に整合させようとはしない。

物語に仮託して、現実の体験をある種、我々から見ると夢の中に伝承していく。

それが、自然界と共生していく条件だと言う事は、様々な地域の民話に共通する智慧でもある。

彼らは、整合性が我々を身体から切り離す最初であり、感覚が痩せ細る事の危険を知っていた。

それに対して物語る事は、自身の身体に語る事であり、世界との交流を豊かにする。

プナンの子供達は学校に行くも行かないも無い、と言う話しがあるのだけど、それは至極人間的な事だと言える。

日本では、教育の姿そのものが明治を境に、論理的整合性に切り替わり、身体の豊かさを削り取る様な社会、豊かさを想像する事すら困難な時代の始まりになる。

 

昭和50年代は、失われたアニミズムの代わりにヒッピーが運び込んだインド的なアニミズムが柱となるニューエイジ運動が日本にも入ってきた。

それは、物理学や心理学、ボディーワークと結びつき論理的に整合化される。

この整合性がアニミズムに宗教思想を見出す事になる。インド的なアニミズムは、ヒンドゥー教としてヨーガが包摂するものの中に拡張されていたが、複雑な祭祀、つまり宗教性を除いた部分が西洋社会に広まっていた。

そのインド的な祭祀に残るアニミズムの原則に等価交換と、古代ヒンドゥー語の音韻がある。

神社に5円玉のお賽銭でお金持ちにして下さいとお願いする日本人と違って、金銀貨幣、食物を盛大に火に焚べる祭祀は、IT大国になる最近まで普通に受け入れられていた。

この祭祀の力が実は重要で、アニミズムの本体部分なんだけど、実際は海外に流出しても一向に構わない、ある意味おまけ的なヨガの方が広まった。こちらの方が如何にも論理的整合性がある様に見えるから。

この前、久しぶりにヨガのチャクラ論の話しを聴いたけど、これに関しては普通の市販されてる本にある内容以上のものは、あまりない。

だけど、ご存知のようにインド世界の巨大な体系の中に育ったものだけに、チャクラを巡る生理学的現象、手入れの仕方はいろいろある。

インドヨガには、代表的な書籍がいくつかあって、沖ヨガとか、成瀬師のようなメイドインジャパンを除けば、有名なのがスティーブ・ジョブズの愛読書として有名になった「あるヨギの自叙伝」。

それから、ヨーゲシバラナンダの「魂の科学」。

この「魂の科学」は科学と銘打たれただけに、ヨガの身体を解剖学的に書こうと試みた、情報量の鬼のような本で、二ページ読めば確実に嫌になる。

現代生理学との繋がりを西洋向けに紹介しようと試みたことに、どれほどの価値があるのか知らないが、日本人好みかもしれない。

ただ、「魂の科学」のその観察の精緻な事は、飛び抜けた才能と訓練の賜物として、視野に入れておくのもいい。

この本の様な試みは仙道書にはないし、チベットの「四部医典」のような密教生理学も、その位置にはない。

で、問題は古代医学は現代医学に比べれば劣った医学だったのか?と言うと、アーユルヴェーダはインドの気象、地理にとっては根強い信頼があるし、チベットの製薬技術は信用度が高く、中国がチベットに侵攻したのは一説に鉱物丸薬が欲しかったからとも言われ、実際高値で取り引きされていた。

現在は、チベット医学の学校でも西洋医学を教えているくらいだから、もう伝統的な薬を作る力は衰えているのではないかと思われるが。。

 

これらの身体観を一般に使う場合、フィールドは〈霊的器官〉と物理的生理器官が、外部交流系として働く時の感受性、認知傾向の特性に注目する。

整体で言うと体癖論にあたるものもあるけど、おそらく本来は〈非自己化〉に向かうと言う意味においては、フォーマットも文化的背景も違えど、一点で似た現象を扱っている。

外部交流の対象は人だったり、人以外だったり、太陽や月、土地や雨風、いろいろな事柄を指す。

けれど、どうしても身体を論議する場合「個体」の解剖と言う地図に限られて、外部交流の現象である活動そのものを解き明かすのが難しい。

「非自己化」とはそこに他者がいると言う事を意味している。その関係性に科学は無関心できた。

だから、「感染爆発」みたいな時にどうして良いか分からない。

とりあえずマスクしとけ、消毒しとけ、みたいになる。そこでスーパーコンピュータ富岳に予防効果を計算して貰えば、マスクした方が感染率が高いと言う結果が出てしまう。

そもそも感染と言う働きは、共感とか、寄り添うとか流行りの言葉と同じカテゴリに入るもの。もう一つ言葉を変えれば「響き合う」と言う意味で、自己と他者の間に起こる出来事。

アニミズムそのものの現象である事は明白。

結局「感染」現象に関しては古代世界の理解の方が現代に優っている。それも当然、彼等は感染症に命懸けで取り組まざるをえなかったのだから。

 

 

次回、続く。

西洋宗教化する近代の身体と「チャクラと調律点の破門になりそうな研究」を気が向いたら書く予定。

お肌の潤いと梅雨と幽霊

今朝は足首が小雨混じりの空気の匂いを感じとっていて、いつの記憶だろうかと浮かび上がるのを待っている。

子供の時分、母方の祖母が立つ台所に座っていた時。それから小学校の校庭を歩いていた時の空気。

思い出す記憶は何故かひとりぼっちで雨の匂いがする。

               (笑

その雨の匂いがする思い出はきまって梅雨時期から夏の終わり。

 

旧暦では梅雨は夏。

僕が子供の頃は、まだクーラーのある家は少なくて、扇風機と団扇にサイダーで凌いでいたけど、夏は今ほど不快じゃなかった。

 

植物もみずみずしく、陽も長く、雨は優しく、いろいろな事を水に流すには良い時期でもある。

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そんな夏が不快になったのか、僕の身体が不快になったのか?

そのどちらもあるだろう。

世代的に僕より上は、クーラーに不快感を覚えて抵抗を持った方も多い。

七十歳になるYさんは、去年まで家にクーラーをつけていなかったけれど、外に出ればクーラーだし、電車やバスに乗ってもクーラー。

長年その温度差に悩まされた挙句に、クーラーに慣れたのか去年購入したそうである。

 

そのクーラーのせいなのか、身体の湿気が新しく入れ替わるこの時期をスルーしている人は多い。

でも湿気を入れ替えてみると、個人差はあっても一様に空気中の湿気を気持ち良いと感じる。

昔の人が夏を心地良く感じ、懐かしい思い出にもなるのは、体内の水が入れ替わる時期だかららしい。

 

その湿気にもいろいろあって、30年前の水が5年前くらいに変わったかな?と言う人がいれば、湘南の潮風みたいな人もいるし、ヨーロピアンな人や干潟の湿気?と言う感じの人もある。

それは人それぞれの質感があるけれど、基本的には今日の湿気、今年の水気。

 

そのように身体は季節毎、いくつもの新しい経験を繰り返しながら一年のサイクルを過ごす。

 

実は、現代の様々な医療問題、少子化などの社会問題は、このサイクルを壊すことで生じているとも言える。

 

現代生活はこの細かなサイクルにだんだん横着になり、失ったり、動かなくしたり、身体自体が生きていく為に発揮している智慧を、非合理、非科学的などの名の下に変異させてきた。

どうもこの国の方向は、制度や補助金、利権や医師会が人間の身体を都合良くコントロール出来ると信じているらしい。

まぁこう言う話しはもう飽きたし、希望がないので、やめにする。

が、この抑圧は身体の歴史に溜め込まれている。

 

「整体」と言う言葉には、もともと、あらゆる経験と同化し尽くすと言う意味がある。

生命は人間に限らず同化の働きを生存能力の根本に持っているけれど、それが能力である故に増減も拡縮もする。

同化能力を阻むものはたくさんあるけど、鍛えるのは難しい。

例えば、三人組で一人が相手の手首に集注すると、三人目にその気が集まるのは、その場所が同化の全体性を教えている現象なのだけど、同化は基本的に全体性の世界感に視点を持っている。

この全体性が問題で、精神の働き、イデオロギーや脳化社会、意識も一種の全体性だからややこしい。

基本的に同化性とは一人ぼっちの世界だから他者を迎え入れる懐を持っている。

だから、一人ぼっちになれない全体性はない。

そこに「意識」の介入は無く、自然に発生しているところに「気」と言うものの解明の余地がある。

驚くべきは、それを無数の技術の持続的変遷のなかで特定可能にし、尚且つ自然の時間の流れを捉えていく観察力が提示されていることだろう。

野口整体の世界は現代に対する身体の在り方を世界の中から削り出してきた。

その元には身体と言う湖面深くに閃いた唯一信念と言える意識の残響を、ひたすらに追い続け、その果てまで余韻を拡げ続けた命の力がある。

そこから生み出される身体構造の深さには、しばしば言葉を失う。

 

ある意味身体を追求すれば個人の病気を治すなんてどうでも良い事で、社会の病み方が変わらなければ、人間は弱くなっていく。

そこに望みが無いならば、世の喧騒が届かないところで、粛々と追求し続けよう。

コロナもSDGSも戦争も、そんな外の世界に反応する騒がしいわたしと無関係な領域の身体を見つめてみよう。

 

と言うのが、今の整体の方向だといふ。

 

その整体の世界など、書いて良いわけがないので、少し思い出話しなどしたいと思ふ。

 

新宿に住んでいた頃、ある気功師さんを中心にしたグループが定期的にうちでセミナーを開いていた。

その気功師さんは、しっかりとした伝統の中で研鑽された方で、面白い講座をいろいろと開いてくれていたのだけど、雑談が多かった。

もちろん公にできないものが多いのだけど、ある日、幽霊が夏に多いのは湿気のせいだ。と言うような話しになった。

え〜〜

みたいな反応の面々。

確かにきまって夏は怪談。

タクシーの客席を濡らすのは良くある話。

僕は怪談が苦手。その割には加門七海とか読んじゃうんだけど。。

というのも子供の頃の一番の思い出が、祖父の実家がある岐阜に行って、食べる物がおはぎしか無かった事と、ある日、目の前の田んぼの畦道にあった小さな墓地で・・僕の記憶では土葬をしている場面。

基本的に今も日本の法律では土葬を禁止してはいないので、自治体が禁止していなければ良いと言う話しを後から聞いた気がする。

昭和四〇年代の話しだから、それはあったかも知れないし、何かの記憶と混ざったのかもしれない。

とにかく気の優しい爺さん達が、宴会している間、子供達は軽トラックの荷台に揺られ、田んぼの中の狭い家に集められ、狭い部屋で白黒テレビの四谷怪談を観る。

そのテレビ用の幽霊の肉体が怖い。。

それ以来怪談、ホラーは好まない。

 

梅雨は幽霊の話をうけて、ある古神道のTさんは地縛霊を呼ぶ。「ほら、涼しいでしょ?」って。

「クーラーいらんでしょ、置いてこうか?」

「いや、連れて帰ってください。」

「おぃそこ!地縛霊に触らない!」

「ほら、符呪だとこう言うのがある。次は符呪講習だな」

みたいな楽しい毎日の新宿。

その湿気に関係すると言うのも、あながちネタじゃないのは、ホンマモンノ幽霊(別には残穢としての幽霊がある)が身体の水の調律点に関係すると言われていて、ニ側の変界現象と呼ばれるものにも関係するんじゃ無いか?と言うところを考えているのだけど、古い●は人の体の形をとると言う最近のD先生の話しにも繋がる。

ただ僕が最初に体験したのは、梅雨じゃなく秋から冬の入り口。

観光地のある墓所でのこと。

真夜中に立ち寄ったそこには、水の壁。

神社などに時々そんな場所があるけれど、その時ほど強い水の壁に触れた事はなかった。

もちろんそれは、そこに〈あるじ〉が座ってらっしゃったからで、その方の座っている空間から、生前の身体の姿形そのまま〈力強い〉水の気でいらっしゃる。

水の気に力(運動)が混ざると言う事がどう言うことか?

人為的に加えた圧力を除き、物理的な水の力と言うのは、生き物を育てる力だったり、川の氾濫などで実感することもある。

だけど水には形が無いだけに、さらに非物理な〈水の気〉が力の形をとる、その緊張感には意味がある。

その生々しさに驚くのだと思う。

そこからの出来事以降、二十年の間にもいろいろあって、尊公は今やある意味〈時の人〉ですから、不思議な流れの不思議な話し。

 

その事を思い出して考えてみるに、梅雨の不具合には古い気が留まっていて水の入れ替えを妨げているけれど。。。

例えば女性がお肌に潤いをと、保湿美容液を塗る。しかし外から美容液を入れるから返って皮膚呼吸を妨げる事になってしまい、年々顔の水気は古くなっていくのと同じ。

「現在」から観ると過去の水は嫌なものに見えるけど、上から新しい水を流し込んで上書きしても、古い水がなくなるわけでは無く、だんだん「現在」が衰えてくる。

だけどその逆に呼吸が始まると、記憶が動く事で過去は変わっていく。

まさに「水に流す」ように時間が波紋を拡げる、

過去はその流れを待っている。

時がくれば動き出そうと、エネルギーを溜め込んで。

動き出せば現在を変えていき、現在から観た過去もまた描き換えられていく。

 

雨月物語じゃないけれど、現実は物語が重なり合って少しずつ謎が解けていくもの。

雨月物語と言えば、最近夢枕獏さんが「宿神」と言う伝奇小説を書かれていて、盛り込みすぎて薄くなった面は否めないけれど、西行を一つの時代として見た時に、こんなに歌を詠み、波乱に満ちた時代を見届けた人物がいるぞと言うワクワク感が全開の話しになっていた。

その平安から鎌倉と言う時代の面白さに宿神を呑み込みきれなかった感はあるけれど、歴史上の伝奇小説を作る手法として、もっと濃度の濃い作家が出てくる入り口になる気がする。

陰陽師」シリーズから岡野玲子版が出てきたように。

まぁ、それはどうでも良いのだけど、丸谷才一の「後鳥羽院」を読みたくなったのは、夢枕獏「宿神」のふわふわ感を締めたくなったからで、後鳥羽院自身が西行の小唄ぶりに傾倒していたと言うのだから、西行後鳥羽院にとってモダニズム歌人であった。

その日本モダニズム文学は〈もののあはれ〉の美を貫いたのだから、西行の物語ならば然るべき着地点がある。

「宿神」の西行のキャラや、差し込まれる和歌の扱いを置いておけば、なぜか不思議とらしさのある読後感になっていることに漠さんの魅力があった。

それはミシャクジ様の力なのかもしれないが。。

 

梅雨ももちろん「もののあはれ」の重要な舞台装置。日本的美意識に結びついていると言うわけで、お肌の湿気の世界一つとっても、女のお肌はもののあはれが・・と際限なくダラダラとお話しを続けていたくなるから、このくらいでおしまいといたします。

 

 

教室の予定は未定を孕む確定

六月は二十五日

七月は二十三日

八月は二十七日

午前九時半から。

『毒解』( ´Д`)y━・~~ 

先日、一歳半の子供を連れたお母さんに母子手帳を見せてもらって驚きました。

身長、体重の記載欄は以前からあったから分かるけど、成長曲線や、ワクチン接種履歴、検診証明など、僕が見たことのあるものより厚い一冊になっている。

これを渡されたお母さん本人が、半分脅迫に思うのも無理はないと思いますね。

課題をクリアしないと、ネグレクトのレッテルを貼られる時代なんだからたいへんだ。

これは実は「良いお母さん像」の推奨モデルを厚生省が指導していると言う事に他ならないでしょう。

しかも内容は男性の思考であって、女性の母としての感性にマッチするものではないだろうと思います。

いかにも教育的な子供への管理指標は男性的な精神が形になった内容だから。

そこには母の身体も、子の身体もありません。

 

とは言え、子供をどう育てたら良いか不安なお母さんには、国が責任を分担してくれる気がして気が楽になるかもしれませんね。

 

人口問題だけでなく、社会の動向、問題を生み出す元も、解決していく流れを作るのも、この出産と子育てです。

 

この前アマプラを観ていたら、昭和の三〇年代?新しい時代の女性特集みたいなドキュメンタリー番組があったんですが、帝王切開から赤ちゃんを取り出すまでの様子がそのまま当時テレビ放送??されていましたが、かなりエグかった。。

帝王切開は高度経済成長の一つの景色として撮影されたようですが、元はと言えば、歴史的には紀元前の古代エジプトギリシャ、インドなどで、死体から胎児を取り出す方法でした。

日本で初めて帝王切開を行なったのは江戸末期、飯能の医者です。

オランダの死体解剖図を見ながら行ったそうです。子供が亡くなっていたと言う事で、どんな経緯で何故行わなければならなかったのか?疑問はあるけど、好奇心が優先した事はわかります。

現代では、産婆から産前の母体を経膣分娩出来る状態にする技術が無くなってしまったから、さらに世代を下る毎に、厳しくなっていくでしょう。

人工授精や体外受精が増え、安易に促進剤や切開を行う病院が増えているなかで、助産院も次々と閉院し、より人工的な出産風景が広まっています。

江戸から明治にかけて日本の医術と近代日本が推す西洋医療は激しく争っていました。

当時、漢方や鍼の世界には名医と呼ばれる医師がいましたが、彼らからすれば軍事的強国を目指す国家が、西洋医療を選んだのは致し方なし、と諦める他無かったでしょう。と同時に、日本人と言う身体が消えていく事は、さぞかし無念だった事でしょう。。

西洋医療は誰にでも出来て、多くの人に多くの医療を提供できます。

その医療が生まれたのは、都市国家成立過程の戦場だったと言われています。

そこにメリットとデメリットの元があります。

メリットは勿論多くの人を対象にし、応急処置が出来ると言う事ですが、デメリットは「身体」を失った事です。

日本の医術は西洋医療とは全く別の発展を遂げた医術でしたが、その医術の伝承は拡張するのが難しい。誰にでも出来るわけではなかったのです。

 

昭和初期以前は、多くの女性が自宅で産んでいましたが、出産は病院の仕事になります。

ドキュメンタリーは、出産における欧米化の象徴的風景と言う演出だったのでしょう。

帝王切開でも、吸引分娩でも、経膣分娩でも、無痛分娩にしても子供の成長、発育には変わりがない、と医学的にはみなされています。

勿論、その成長、発育とは、身長、体重の成長曲線において、という事です。

それは例えば、突発性低身長のような、たまたま背が低い健康児に対して二歳から遺伝子組み換え型成長ホルモン〈GH〉が使われているけど、日本小児科学会のガイドラインを読んでみても、アメリカ基準にする理屈を書いてるだけなのは大丈夫だろうか?と思います。

アメリカ並みに製薬メーカーのプロパガンダによって、子供の身長は高い方が社会的優位性があるとか、美容目的なんて使われ方をするようになるかもしれない。

そこにはリスクがある事は書いてありません。

身体が成長ホルモンの急な増加を感知すると、インスリン様成長因子1と言う、細胞の生存を促進し、細胞の自殺を妨げるホルモンが分泌される。

これは、いわゆるアポトーシスを抑制する。つまり最終的にガンをひきおこす危険性があると言う事です。

もちろんガイドラインでは10年も20年も先の危険性なんてどうでも良い事なんでしょう。

しかし身長、体重で子供の成長を判断すると言うのは、簡単に馬鹿な使われ方をしかねないと言う事です。

 

本当に子供の成長に大切なのは、本来の感受性の発育、安定、集中力などでしょう。

10年ほど前に「女性は産む機械」発言で叩かれた議員さんがいましたが、それ以前からTVでは、女性の問題や社会的地位は、数と制度で解決すると主張する議員や、女性コメンテーターも多くいました。

彼女らもまた、自分を機械のように捉えている自覚がありませんでした。

その当時の事です。本来の感受性が真っ当に成長した二十歳の女の子が、TVを観ながら「だから女はバカだと思われるのよ」と吐き捨てる様に呟いたのが印象的でした。

今や少子化問題によって、出産ビジネスは巨大な利権の狩場になっています。

教育費無料化に、不妊症ビジネスへの補助金?出産補助金

増税

だいたい、出産一時金の金額を上げれば、病院もオプションを増やして増額請求のイタチごっこで、意味がない。しかも、より身体に悪いサービスを増やしてどうもならない。

流石に、本気でこれが少子化問題の解決策だと考えてるお役人も、皆無だと思いたいのですが。。

 

西洋的精神は、精神自体を肥大化する事(例えば産業革命も精神の産物です)で、その地位を貶めた「身体」ですが、本来考えてみれば、精神は身体に向く事でしか己の抑制を保てないようになっています。

身体の代わりに「神」を作り出して来た西洋文明の気持ちは分かりますが、社会にとっては〈戦争に強くなる〉以外に利益はなかったんじゃ無いでしょうか。。

明治から日本はそれを真似ようとします。

しかし、この世界に存在しているのは、精神では無く身体です。

自然界の中で共生するには、精神が身体に譲るものは譲らないと、ジェンダー問題だ、SDGsだ、環境問題だなんて戯言にしか過ぎないし、藪蛇になるのは目に見えています。

かつての人類史からすると、エネルギー問題も、病も、人間関係も、気候変動も、全ては外部環境を変えれば良いと言う考え方になってから招いた状況です。

医学が身体を扱っているから、身体を忘れてはいない。とお考えの方も多いかも知れない。

しかし、その医学的身体、解剖学も生理学もウィルス学も、人間が生存の為に積み上げて来た身体性ではありません。

〈精神は身体を機械化出来る〉という方向に現象化させようとした流れが、近年作り上げたものです。

多分、多くの女性は母子手帳を見ても、微かに違和感は感じるかも知れませんが、頑張らなきゃ、と思うでしょう。

そう、教育されてきたから。

こうした反応の方がよほど少子化の原因に与するものです。

社会システムと言う巨大なビルが、医科学という18世紀哲学の機械論の上にのっかっているのですから、医科学専門家が、自然界における自分の立ち位置より、社会の立ち位置をベースにして来たのは、その罪に気がつきもしなかったからです。近代国家たるもの欧米式でなくてはならない、と国民が一致団結してきたその最初期は、国が東洋医学その他を規制して、力や技術を奪うところから始まりました。

うちの親戚は、陀羅尼助丸と言う漢方を作っていたのだけど、薬草の規制が徐々に強化されて本来の薬効は弱くなり、ついには廃業してしまいました。

自然に生えているものがダメで、化学合成したものが身体に良いと言う考えは、生き物としてダメなんじゃないだろうか?と思いました。

その延長線上に、他人はおろか、母の握ったおむすびは汚くて、コンビニのおむすびは食べれるとか、体育の時間に人に触れることが出来ない子供が増えています。

コロナ禍の教育は、この先さらにダメージが大きくなる事が予想されます。

幼稚な衛生概念によって、「触れる」と言う事にすら、拒絶反応をする子供達が増えてきた。そう育ったのは、産まれた時から生き物の身体を抑制させられ、世界を情報化する訓練ばかりしてきたからです。

その様な社会では、スポイルされない、ほんの極一握りの飛び抜けた子供も生まれはしますが、それは今の文明が終末期と言う事でしょう。

 

〈問題が発生したから対処する〉と考えるなら、問題はどんどん肥大化します。

現実にそうして医学は進歩したと言いながら、病気も病人も、医療費も増え続けてきました。

挙句に、もう修正出来ない時代を作ってしまいました。

〈その事態以前にあるものは何か〉〈その問題以前にあるものは何か〉を、遠回りに見えても、追求する事が現在を良くする事だったんじゃ無いですか?と思います。

出産にしても、受胎する前、結婚する前に、身体も感受性も問題無く分娩出来るようにしておくのが、本筋じゃないですか?

そこを問題の焦点に置くべきだったのではないでしょうか?

そうすれば、少子化問題からジェンダートラブルまで、問題はなかったはずです。

 

科学的と思い込んでいる観念すら、いい加減な事も多いんです。

想像力すら失って、古い観念をそのまま使っているものも沢山ある。

例えば、科学誌ですら、人の体内には約40種類のウィルスがいて、細菌の数は30兆とも数百兆とも言われているのだから、あなたの約半分は微生物で出来ているんですよ、と教えれるところからでも良い。

それが数年して、新たに訂正されれば、その時はその時で、人体観を書き換えるんです。

観念を書き換える事自体、訓練させるのは大事な事です。

体重50キロなら25キロが微生物というわけだから、そのアイスを食べているのはあなたですか?細菌や寄生虫ですか?って事くらいは想像した方がいい。

自分と言う意識すら、寄生虫かも知れないんだから。

人の身体は、細菌、ウィルス、寄生虫、カビのバランスが取れなくなると、病気になると言われています。

 2003年、ヒトゲノムプロジェクトがヒト遺伝子配列を99%解明したけれど、期待されていたような、疾病原因の解明には至らならなかったのは当然です。

彼らの失敗理由は、遺伝子だけではなく、共生する微生物の集合体が人の細胞の数より多く、微生物の遺伝子の解読は、ヒト遺伝子以上に重要だったからだと結論づけました。

しかし、この結論はかなり苦し紛れで、微生物の遺伝子を解析したところで疾病原因の解明になるわけがない。そもそもの見方がおかしい。
ヒトゲノムプロジェクトが終了した当時、多くの研究者はヒトはなぜ少ない遺伝子で複雑な生命活動ができるのか?という疑問を抱いていました。

その答えの一つは、体内にすむ微生物に多くの生命活動を外部委託しているのではないか?と言う事で、マイクロバイオームとヒトとの関係性を調べる研究が始まります。

簡単に言えば人体と言う役所が、民間企業や天下り先を作って、そこに仕事を委託するから人体は活動できる。

その役所と企業の間にはどんな癒着構造があるのか?または入札制度は適切なのか?を調べると言う発想です。

つまり社会構造を投影した考え方で、これによって疾病構造がわかるなんて、人DNA解析だけよりはマシだと思うけど、成功はしないだろうと思います。

外の世界ですら、その生態系間の繋がりや、環境毎の変化、種の絶滅原因や新たな誕生、気候変動との関係、何一つ分からないのだから。

そんな中、遺伝子薬が今回世界中で治験されました。

つまり、専門家なら、誰もそんなものが計算通りの効果を持つなんて、信じていなかったはずです。

そもそも、こうした構造観を一万年研究して解明出来たとしても、その九割以上は人体学問側からはブラックボックスになっています。

しかも科学が排斥して来た世界は、あと数十年もすれば目にする事も、解明する術もなくなり、医療はAIに依存していく事になるでしょう。

 

ともかく、今や経膣分娩と言う人間本来の誕生は、珍しいものになりました。

無痛分娩や帝王切開を気安く行える事は勿論、生後一年内に10本も打つワクチンの必要性に、疑問を持てない医学教育には戦慄します。

そんな社会、僕が新生児なら産まれてきたことを後悔するのは間違いありません。

新生児には、もともと胎脂と言う抵抗性が備わっています。それを洗い流してしまったり、その子の心臓に必要な臍帯血を奪ったり、出生直後にビタミンを注射してみたり、母のバストが崩れるから粉ミルクで育てましょうとか、おかしな事はいっぱいあります。

子供が精神疾患になったとか、障害を持っていると言って病名を与え、薬物を与えたりしますが、そもそも何故病気や障害が増えているのでしょう?

新生児に10本のワクチンが義務化されてから、七ヶ月くらいで体重の減る子供が増えていると聞きました。僕のところに来る子もそうです。

その子に、体重が減ったからと言って栄養を与えれば身体の負担になる。

右肋骨に手を当て、右足二、三趾間に気を通せば良くなるけれど、新生児にこれだけ負担を与えれば、その子本来の成長が歪んだ場所からスタートする事になります。

成長してやがて死ぬまでの間に、どれだけ障害となるのか気になるところです。

他者の強制的介入は、特にこの場合、暴力と言っても過言ではありません。

症状が治れば終わりと言う問題じゃないでしょう。それは当人の人生を、少し狂わせると言う事なのですから。

成長の過程では、異なるリズムで発育が身体の中を移動します。

現在、何が成長しているのか?を見るのは難しいけど、母親は子供が今何に興味を持ったかに注意し、記録する事が大事です。

自然出産の自然の意味は、「その育つように育てる」ところにあるのです。

 

出産の重大性は、この時代のあらゆる問題の根っこにある恐怖心の源のようになっているけど、そこにはどうしようもないジェンダー問題があるのでしょう。しかしそれを解消しようとすれば、子供は産まれてはいけなくなります。

社会的構造の前に、苦しみや憎しみを同化しなければ、問題は別の時代によってしか解消されないものです。

「黒い雲の向こうは、いつも蒼い。」

その雲の「向こう」と「こちら」は等価です。

等価ですけど、知らなきゃならない。

雲は生命力のストーリーそのものですから。

 

それから、「その育つように育てる」と言う視点は、現代の諸問題を生み出している視野の中には入っていません。

自分達が身体を失ったのは、その視覚が何を現実とするのかと言う性質の、分別がつかなくなったからです。

現実とか実在と言うものは、身体が歪まないと焦点があわないようになっていて、歪んだ視点で観ているものが、この世界なんですが。。

社会の歪みは、社会が客観的なある角度から注目するから発生しているのであって、歪みは世界の運動性を保証しています。

 

VRの世界で感覚共有の研究分野がありますが、それはどこまで行っても情報共有に過ぎなくて、感覚体験を共有する事が分かっていません。彼らの話しを聞くと体験の共有が人生を豊かにするはず、と思っているようですが、VRの世界じゃそもそも無理なんです。

この歪みによって、形の受け入れ方を変える事の連続が、共有化を生み出す事になってきます。

でなければ、注目している視点はそのまま、何かが起こるのを待ったほうが無難です。

・・ここら辺は、またしっかり書こうと思います。

 

時代と共に変わってしまったものは多くありますが、例えば昨年、家を改装していた人がいました。

その人が夏に入ってから、暑くて居心地が悪くなってしまってしょうがない、と僕にぼやく。

「だから住○系列は、代金高いだけでやめとけって言ったでしょ」と話しました。

ちょっとした改装が、費用にすれば都内でも小さな家一軒分の値段です。

しかも、部材が悪い。

古い家に戻したいと言うのは、今の建築用資材が夏用に考えられてないからなんです。

D先生曰く、日本人は夏に弱いから家は夏用の建築だったのではないか、と。

昔の家は、風の通り、陽の遮り、木材の温度(暖かな木の家なんて言う宣伝文句はウソです)など日本人の身体の働き方に合わせて気持ち良さを追求していました。

それは身体と風土の関係性がマッチする設計だったんですが、戦争で空襲に強い都市作りを考えたのか、すっかり西洋式になり、更に加工技術の発展で火事と防犯に強い家を売りにします。

それも合板とプラスチックによって、最近では一か月もあれば建ってしまう、レゴブロックの様な家になって来ました。

大手のメーカーが作る木材の家にしても、壁や柱、梁あらゆるものが簡易化されて、住み心地が身体の感覚ではなく、便利さと安価さを対象としています。

電気で沸かしたお湯と、ガスの火で沸かしたお湯の違い、料理の違いは誰でもわかるでしょう。

風が通る木材の家と鉄筋や合剤の家の空間の居心地も違うと分かるでしょう。

真っ直ぐな壁となだらかな曲面の壁も、今の窓ガラスと、昔の歪んだガラスの違いもどちらが心地よいかは居心地で分かります。

それを些細な事として、利便性を選択して来たけれど、いろいろな建築の知恵も失いました。昔ながらの畳屋さんも、ガラス屋さんや材木屋さんも、もうほとんど見なくなりました。

その職業に保存されて来た技術と言うのは、みんな偽物の量産品になりました。

それは、衣にも食にも言える事です。

 

オール電化にEV自動車、冷暖房など、生活を全て電気に依存する現代は、資源の奪い合いで戦争をおこし、利権を争い、失敗すれば節電しろと言う、お笑いの社会を真面目に作ってきたところに絶望感があります。

 

我々は種として生き残る為に、長い間、様々な地域に分かれ、地球上に分散し、暑さ寒さに強い身体を作ったり、飢餓に強い体質を生み出したり、疫病を克服し体内環境を適応させ、生存戦略を進めて来ました。

ところが近代、外部環境を変えて地球上の全てに利便性を商品化し、収益化の対象を広げ、利益と権力を生み出したものが豊かさの象徴になる、と言う考えにおきかわってきました。

つまり収益化は、人類のそれまでの生存戦略を蹂躙し始めます。

この「欲」の毒性とはどんなものでしょう?

体内毒素から考えても、何を毒素とするか?と言うと、これは「身体に同化しないもの」と言う事になります。

「同化出来るもの、出来ないもの」例えば口に入れる食べ物も、身になるものもあれば、ならないものもある。対象のモノの問題じゃなく、受け入れる身の働きとの関係性です。

 

四回目摂取から始まった第七波ですが、発熱すると、順調ならば2日目くらいで熱のピークがくる。

ピークに達すると凪の状態が少しあって、熱は下がり始める。

この下がりはじめた時から、寛解が始まる。

期間的にはインフルエンザよりも短い。

それも、すぐにピークアウトを迎えると思うのだけど、だいたい、なんの風邪にでも性格がある。その性格もだいぶん変わったと言うか、最近は胸腺の状態を観察しているけれど、身体は季節の変化と共に周期的な変化をしているから、同じ薬毒でも病原でも受け止め方の方は変わります。

コロナ本や免疫系の書籍を数冊読んでみれば、ワクチンなどの仕組みは分かる。だけれど、それが理屈の通りにいかないのは、身体の中で理屈が機械的に反応しているわけがないからです。

多くの人が誤解してるのは、熱が出たら「ヤバイ」と言う思い込みなんだけど、基本的な事は簡単に言うと、身体が平衡性を保とうとした時に病と言われている反応は起こる。

身体が元気になろうとした時に、余計なものを掃除し始める。それが病だと、そう理解しておく必要があります。

でないと、手遅れになるまで、身体は問題を溜め込める鈍さを持っていますから。

熱が出るとすぐに薬を飲んで、自然な経過を経験した事がない人が多いから、疾病観がおかしくなっているんじゃないでしょうか。

今回その中に産み落とされた毒が気がかりで、それは何処ぞの教授が言ってるように、オミ以降は自然界のモノにしては不自然な事。

人為的な手を入れた世界は著しく劣化する。

これが今後、戦争や環境問題に比肩するリスク要因になる「欲」毒の現象化でしょう。

 

 

今回だいぶん書き殴った感がありますが、突っ込んだ話、削除しちゃったインド哲学と、特に遺伝子については言いたい事がいっぱいある。

でも長くなるのでこのくらいにしておきます。

 

補足・この三年で人間の身体は急な変化を強いられていて、これからもその変化は続いていく気がしています。

実際、変異によって、ウィルスが生存しやすい条件が変わってきているのは間違いないし、ワクチンによって同化出来ないものが生まれている。

そこはコロナが怖いとか、ワクチンが怖いと言う話しではなくて、人類史の中では文明によって進化する事を止めてしまった我々の身体が、これまでとは違う脅威に晒される危険を意味しています。

国はしばらくパンデミックは無いつもりで、財政を疲弊させてしまったけれど、それこそ数年後にコロナは水虫程度だったと思うような事態になる可能性もあります。

その時、自分の身体は可能な限り、自分で面倒を観れる事が、かなり大事な事になると思います。

 

自分達の身体が、個としてでは無く、全体として生きている面を、医学的に捉えるパラダイムシフトが必要です。